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断想:聖霊降臨後第25主日(T27)の福音書

2016-11-05 06:46:34 | 説教
断想:聖霊降臨後第25主日(T27)の福音書
生きている者の神  ルカ20:27,34-38

1. 文脈と語義
ルカ福音書19:47-48で「毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、「どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである」(19:48)と述べられ、20章では、イエスの殺害を計画している連中との問答が集められている。つまり、これらの問答自体が殺害計画の一環として行われている。1~8節で「権威」という問題、9~19節では連中との議論から少し離れて民衆への譬え話が挿入され、20~26節で「皇帝への税金問題」、27~40節で「復活論」、41~44節では「ダビデ論」が取り上げられる。この最後の「ダビデ論」だけはイエスの側からのテーマの設定となっている。そして最終的に「律法学者たちに対する批判の言葉」を民衆に語る。これらの問答についてはマタイもマルコも取り上げており、イエスにとっても重要な発言であったものと思われる。
さて本日のテキストは復活論についての問答で、この問答だけは「サドカイ派の人々」と、相手を明確に特定している。マルコ福音書12:18では「復活はないと言っているサイドカイ派の人々」と説明されている。これはマタイも同様であるが、マタイ(そしてマルコも)では結論として「イエスはサドカイ派の人々を言い込めた」ので、サドカイ派と対立するファリサイ派の人々が今度は「律法についての議論」を出してきたという文脈になっている。ところが、ルカではサドカイ派の人々とイエスの議論について、律法学者が「先生、立派な答えです」(20:39)と判定し、それを聞いてサドカイ派の人々は「もはや何もあえて尋ねようとはしなかった」と言う。

2. 復活後の「生活」
サドカイ派の人々の「問い」は、「復活についての問い」として体裁を示しているが、よく考えてみると復活論というよりも、モーセの律法理解と復活信仰との矛盾点を「冷やかし半分」でぶっつけてきただけの話しにすぎない。先ず、この点について「イエスの復活」という信仰はイエスの死後、教会の中に復活信仰が成立した後のことで、イエスの生前のユダヤ教における復活信仰とは一応切り離して理解すべきであろう。つまり、ここでの復活論議はユダヤ教内における復活論に基づくものである。しかし、ここでのイエスの「答え」はキリスト教における復活論に基づいている。このすれ違いは無視できない重要ポイントである。
ここでの議論の背景にはユダヤ教内において復活信仰を信じる立場も、また否定する立場もあり得たということである。その意味では、キリスト教においては復活を否定する立場はあり得ないというのがパウロの主張である(1コリント15:13-17)。
復活を信じている人々の中にある矛盾について考えると、復活ということについて実に馬鹿馬鹿しい議論が展開されている。実はこの部分(28~33節)は本日のテキストとしてはカッコの中に入っており、読んでも、読まなくてもいいことになっている。つまり、ここには重点はおかれていない。しかし、非常に面白い個所なので、取り上げる。7回結婚した女性が死んで後、復活したら誰の妻になるのか。私の母は65歳で死んだ。私は今年80歳である。そうすると復活後、母は私より若いことになる。それでもなお母は私の母なのか。こんなことを質問する方が馬鹿馬鹿しい。この馬鹿馬鹿しい質問に対してイエスはまともに答えようとはしない。死んだ後のこと、あるいは復活後のことについては、現在の常識では答えることができない。「復活したら、結婚とか、夫婦というこの世でのことは無意味になる」というのがイエスの答えである。が、私はこの答えは納得できない。もし、その通りだとすると、復活ということそのものが無意味になる。むしろ、こういう答えよりは、まともな答えにならないが、夫婦は復活後も夫婦であり、親子は復活後も親子であるという方がはるかに納得できるし、イエスの答えにふさわしいと思う。

3. 復活の「理論」
それはそうとして、という意味は、あまりまともに理論化する必要がなく、この問題についてはそれぞれ、現在の自分の生き方に基づいて、自由に考えたらいいと思う。むしろ、ここでは復活ということについて非常に面白い「理論」が展開されている。こういう理論で復活というものを納得できるとしたら、非常にめでたいことだと思う。とりあえず、ここで展開されている「理論」を説明しよう。取り上げられている聖書のテキストは、出エジプト記の3章1節から6節までの出来事で、神が「燃える柴」の中からモーセに出エジプトを命じる場面である。場面としてはイスラエルの歴史の中で最も重要な出来事の一つであり、イスラエル人であれば誰でも知っていることである。そこで、神はモーセに向かって「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と語られた。この言葉がここでテキストとして選ばれている。この言葉の持っている含蓄はいろいろあり、一言で語ることはできない。関係することだけを取り上げると、モーセが生きていた時代には、アブラハムもイサクもヤコブもとうの昔に死んでいる。だから、神はここで「父(先祖)の神」として現れている。しかしルカがここで展開している「理論」は少し異なる。ここで神は、「アブラハムの神」であると同時に「イサクの神」であり、同時に「ヤコブの神」でもある。つまり、これら三者に対して「同時に」神である。だから、アブラハムも、イサクも、ヤコブも神において(神の中で)「同時に」生きている。なぜなら、神は生きている者の神だからである。実に整然とした「論理」である。

4. 生きている者の神
こんな説明では納得できないが、この理屈で証明しようとしている事柄自体は無視できない。それは彼らが「理屈」の前提としていた事柄、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」ということであり、「すべての人は、神によって生きている」という事実である。これなら分かるし納得できる。神が生きている者の神だということは事実である。そして人間はすべて神によって生かされているということも事実である。これは単なる理屈ではなく、現実である。
それと同時に、「生きている者の神」は「生きている神」でもある。厳密にいうと神について「生きている」とか「死んでいる」ということは人間の限界を超えた判断であるが、私たちは「死んだ神」を想像できない。神は生きているに決まっている。死んだ神はもはや神ではない。
かつて「神は死んだ」と宣言した有名な哲学者(ニーチェ)がいたが、彼が死を宣告した「神」とは私たちが信じる神ではなく、人間が「手なずけた神」、人間が「ああでもない」、「こうでもない」と議論の対象に出来る神であり、そんな神はとうの昔に死んでいるという意味であった。はっきり言うと、そんな神はいないという議論である。人間は生きた神を「どうこう」できない。
生きている神は、時間も空間も越えている。それを伝統的な表現では「永遠の神」あるいは「神における永遠性」という。本日のテキストでいうと、神はアブラハムにとっても神であったし、イサクにとっても神であり、ヤコブにとっても神であった。さらにいうと、モーセにとっても神であり、イエスにおいても神であり、私たちにとっても神である。アブラハムも死んだ。イサクも死んだ。ヤコブも死んだ。しかし神はモーセに「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」として立ち、語りかける。モーセにとっては神の中にアブラハムが生きており、イサクが生きており、ヤコブが生きている。その意味で神は「生きている者の神」である。
「復活」という言い方をすると、死んで生き返るという一つのプロセスが想定されるが、むしろ重要なことは神の永遠性と私たちの関係の永遠性である。私たち一人ひとりの命は有限であり、死ぬものであるが、私たちの関係性、言い換えると交わりは神の永遠性において永遠である。私たち一人ひとりがこの「生きている者の神」のうちにある限り、この神においてお互いの関係も生きている。この神において夫婦は死んでも夫婦であり復活後も夫婦である。
最後の言葉「すべての人は、神によって生きているからである」は、その前の「もはや死ぬことがない」という言葉と響き合っている。すべての人は死ぬが、たとえ死んだとしても神との関係は永遠であり、その意味で私たちも永遠である。

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