愛媛県宇和島市からの良いたより♪

私のブログでは次の内容を紹介致します。
1.「神の王国の良いたより」、聖書教育
2.花々、風景写真
3.俳句、他

あなたは、イエスが子ろばに乗ってエルサレムに入城された意味をご存知ですか?(マタイ21:1~11)

2016-02-27 22:00:12 | 神の言葉・聖書

 イエスは弟子たちを伴ってエリコを出てエルサレムに上る途中、いつもの通り大群衆が従っていました。二人の盲人がイエスの通るのを知り、大声で「憐れみをおかけください」と懇願しました。イエスは、二人の盲人の懇願に気付き、盲人の要望通り、即座に目を見えるように治されました(マタイ20:29~34)。イエスは苦しんでいる人たちに深い憐れみを示し、み父エホバがどのような方かを示されました。

 次にイエスと弟子たちはエルサレムに近づくと、イエスは二人の弟子を遣わし、村から子ろばを自分のために連れて来るように指示をされました。二人の弟子はイエスの指示通りに子ろばを見つけ徴用します。イエスはその子ろばに乗ってエルサレムに勝利の入場をする場面がマタイの福音書に次のように記されています。イエスが子ろばに乗ってエルサレムに入城されたのはなぜでしょうか。

 「さて彼ら(イエスと弟子たち)がエルサレムに近づき、オリーブ山にあるべテパゲに着くと、イエスはさっそく二人の弟子を遣わして、こう言われた。「行って、向こうに見えるあの村に入りなさい。そうすれば、あなた方はすぐに、一頭のろばがつながれ、それと一緒に子ろばがいるのを見つけるでしょう。それ(子ろば)をほどいてわたしのところに連れてきなさい。そして、だれかが何か言うなら、「主がこれらをご入り用なのです」と言わねばなりません。そうすれば、彼(子ろばの持ち主)はすぐにそれ(子ろば)をよこすでしょう。

 これは、預言者を通して語られたことが成就するため実際に起きたのである。こう言われていた。「シオンの娘に告げよ、「見よ、あなたの王があなたのもとに来る。気質の温和な者であり、ろばに乗って、それも、駄獣の子なる子ろばに乗って」」。

 それで弟子たちは出かけて行き、イエスの命じられたとおりに行った。こうしてろばとその子ろばを連れて来て、その上に自分たちの外衣を置き、次いでイエスがその上に座られた。群衆の多くは自分の外衣を道路に敷き、他の者は木の枝を切り落として道路に敷いていった。群集は、彼(イエス)の前を行く者も、あとに従う者も、こう叫びつづけた。「救いたまえ、ダビデの子を!エホバのみ名によって来るのは祝福された者!彼(イエス)を救いたまえ、上なる高き所にて!」。

 さて、彼(イエス)がエルサレムに入ると、市全体は「これはだれなのか」と言って騒ぎ立った。群衆は、「これは預言者イエス、ガリラヤのナザレから来た方だ!」と告げていった」(マタイ21:1~11)。

 上記のマタイの福音書に記されている通り、イエスは二人の弟子に指示し、村から子ろばを徴用し、その子ろばに乗ってエルサレムに勝利の入場をしました。イエスが子ろばに乗ってエルサレムに入城するのは、マタイの福音書に記されている通り、預言者ゼカリア9章9節で予言していた言葉が成就するためでした。福音書の記録から分かる通り、イエスに関する聖書に記されている預言の言葉はすべて成就します。ですから、聖書の言葉は神エホバの言葉であることが分かるのです。イエスの弟子たちもイエスが子ろばに乗って入城する姿を目の当たりにし、預言者ゼカリアの言葉が成就したことを理解しました。

 イエスがエルサレムに入ると、市全体は「これはだれなのか」と言って騒ぎ立っています。それも無理からぬことです。群衆の中の多くはイエスが神の王国の良いたよりを宣明しながらあらゆる疾患あらゆる病気の人たち、盲人の目を治し、らい病人を即座に治し、大群衆に満ち足りるまで食事を与え、エルサレムの入城の少し前にはラザロの復活など、数多くのイエスの奇跡の業を見ていました。子ろばに乗って入城したイエスの姿を見て群衆がそうした事柄を話しているのを聞いたエルサレムの市全体が騒ぎ立ったのも無理からぬことです。しかし、起きている事柄を見たパリサイ人たちは「世は彼(イエス)に付いて行ってしまった」と言って嘆きました(ヨハネ12:19)。

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        紅梅の 青き空背に 咲き誇る 今日の一句

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鴨たちが逆立ちして餌を食べてる姿と小雨の中のスミレ

2016-02-27 00:55:55 | 四季折々の花々

 川の河口近くで、鴨たちが逆立ちして餌を食べていました。

 鴨帰りに備えての栄養補給に余念がないのかもしれません。

 鴨が時々水中に頭のみを入れているのは見かけますが、

 逆立ちの姿は初めて見ました。

 今日は鴨たちが逆立ちして餌を食べている姿と小雨の中のスミレを紹介致します。

                河口での「鴨が逆立ちして餌を食べている姿」

                     河口でのんびり泳いでいる「鴨」

                         小雨の中の庭の「スミレ」

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あなたは、イエスが再び二人の盲人の目を即座に治されたのをご存知ですか?(マタイ20:29~34)

2016-02-26 23:40:48 | 神の言葉・聖書

 イエス・キリストはご自分の弟子たちの中で、誰が一番偉いのかについて関心を抱いていることを知り、弟子たちをご自分のところに集め、次のように諭されました。イエスご自身が神の独り子でありながら、地上にご自分の魂(命)を引き換える贖いとして与えるために来て、人々に謙遜に仕えているのと同じように、弟子たちも互いに対する「奉仕者でなければならない」と、いうことを銘記させました(マタイ20:20~28)。次に、イエスが再び、二人の盲人の目を見えるように即座に治された場面がマタイの福音書に次のように記されています。

 「さて、一行がエリコを出る時、大群衆が彼(イエス)のあとに従った。すると、見よ、二人の盲人が道路のわきに座っていたが、イエスがそばを通っておられることを聞くと、「主よ、わたしたちに憐れみをおかけください、ダビデの子よ!」と叫んだ。ところが群衆は、黙っているように彼らに厳しく言った。けれども彼らはいよいよ大声で叫び、「主よ、わたしたちに憐れみをおかけください、ダビデの子よ!」と、言った。それでイエスは止まり、彼らに呼びかけて言われた、「わたしに何をしてほしいのですか」。彼らは、「主よ、わたしたちの目が開くようにしてください」と言った。イエスは哀れに思い、彼らの目にお触れになった。すると、彼らはすぐに見えるようになり、イエスのあとに従った」(マタイ20:29~34)。

 イエスと弟子たちの一行がエリコを出る時、いつもの通り大群衆がその一行の後に従っていました。その時二人の盲人が道路のわきにすわっていました。イエスの一行が大群衆と共に、二人の盲人のそばを通っておられることを聞くと、「主よ、わたしたちに憐れみをおかけください、ダビデの子よ!」と大声で叫んで救いを求めています。ところが、群集の反応は冷たく、その二人の盲人に黙っているように厳しく指示をしたことが記されています。しかし、その二人の盲人はいよいよ大声で、イエスに救いを求めて叫びました。二人の盲人は、イエスによって自分たちの目が即座に開かれ、見えるようにされることを堅く信じていました。イエスは、二人の盲人の助けの声に気付き足を止め、優しく「わたしに何をしてほしいのですか」と彼らに尋ねられました。二人の盲人の願いは簡潔で、当然ながらわたしたちの目が開くようにしてください」という内容でした。イエスは哀れに思い、二人の盲人の目にお触れになられました。そする二人の盲人の目は「すぐに見えるようになった」のです。そのため二人の盲人は目が見えるようになったので、直ぐにイエスの後に従ったことが記録されています。イエスはどのような場合も困っている人たちに優しく触り、即座にいやしの業を行なっておられます。イエスの行動を通してみ父エホバ神はどのような方だあるかを、だれでも理解できるようにされています(ヨハネ12:49,50)。イエスは、ご自身の手本によってクリスチャンたちが利他的な生き方をするように教えてくださっているのです(ペテロ第一2:21)。加えて、イエスはご自身の3年半の神の王国の良いたよりの宣教を通し、神の王国が地上に義の宿る楽園を回復した時には、病気や体の不自由な人や目の見えない人がいなくなり、全くの健康な体で生活できることや、食料不足が無くなり、戦争やテロも過去のものとなり、公正がゆきわたる新しい社会になることの証拠を見せてくださっているのです(ペテロ第二3:10~13.啓示21:3、4)。ですからイエスの足跡は福音なのです。

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          指導者の かたりの多し 春嵐 今日の一句 

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緋寒桜とキンポウゲ「姫立金花(ヒメリウキンカ)」

2016-02-25 21:35:27 | 四季折々の花々

 庭で緋寒桜が8分咲になりました。

 緋寒桜が咲くと本格的な春がそこまで来ていることを感じます。

 緋寒桜は河津桜のような華やかさはありませんが、

 静かな雰囲気で春の到来を告げています。

 今日は緋寒桜とキンポウゲ「姫立金花(ヒメリウキンカ)」を紹介致します。

                        庭に咲いている「緋寒桜」

        小雨の庭で咲いているキンポウゲ「姫立金花(ヒメリウキンカ」

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あなたは、イエスが偉いと思う者は奉仕者でなければならないことを教えられたのをご存知ですか?

2016-02-25 21:14:37 | 神の言葉・聖書

 イエス・キリストは、三度目として、ご自分の弟子たちに、エルサレムで祭司長たちに引き渡され、愚弄され、むち打たれ、かつ杭につけられに処せられ、三日目には復活させられることを予告されました。しかし、イエスの弟子たちはまだ、イエスの教えられる意味が十分に理解できていなかったものと考えられます。イエスの弟子たちは、弟子たちの中で誰が一番偉いのかということに関心を抱いていたようです。そのためイエスは弟子たちに辛抱強く、「あなた方の中で偉くなりたいと思う者はあなた方の奉仕者でなければならないこと、および「第一でありたい者はあなた方の奴隷でなければならない」教え、かつご自身の魂(命)は多くの人々の贖いとして与えるために来たことを教えられた場面が、次のようにマタイの福音書に記されています。

 「その時、ゼベダイの息子たちの母がその息子たちと共に近づき、敬意をささげながら何事かを彼(イエス)に求めた。イエスは彼女に言われた、「あなたは何を望むのですか」。彼女は言った、「これらわたしの二人の息子が、あなたの王国で、一人はあなたの右に、一人はあなたの左に座るようにお申しつけください」。イエスは答えて言われた、「あなた方は自分が何を求めているかを知っていません。あなた方は、わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか」。彼らは、「できます」と言った。イエスは彼らに言われた、「確かにあなた方はわたしの杯を飲むでしょう。しかし、わたしの右また左に座ることは、わたしの授けることではなく、わたしの父(エホバ神)によってそれが備えられている人たちのものです」。

 このことについて聞くと、ほかの十人(の弟子たち)はその二人の兄弟のことで憤慨した。しかしイエスは彼ら(十二人の弟子たち)を自分のところに呼んでこう言われた。「あなた方は、諸国民の支配者たちが人々の上に権威を振るうことを知っています。あなた方の間ではそうではありません。かえって、だれでもあなた方の間で偉くなりたいと思う者はあなた方の奉仕者でなければならず、また、だれでもあなた方の間で第一でありたい者はあなたがたの奴隷でなければなりません。ちょうど人の子(イエス)が、仕えてもらうためではなく、むしろ仕え、自分の魂(命)を、多くの人と引き換える贖いとして与えるために来たのと同じです」」(マタイ20:20~28)。

 上のマタイの福音書に記されている通り、イエスの弟子たちの中で、誰が一番偉いのかの関心を抱いていたことが分かります。イエスは神の王国政府でご自分の右また左に座ることをお決めになるのは、み父エホバ神であることを教えられています。イエスは、どのような場合も謙遜でみ父エホバに従順であり、み父エホバ神に栄光と賛美を帰せられ、その手本を残されました(フィリピ2:5~8.ペテロ第一2:21)。イエスは、弟子たちに「わたしの飲もうとしているを飲むことができますか」と尋ねておられます。すると弟子たちは「できます」と答えています。この「杯」とは何を指すのでしょうか。この「杯」とは、イエスの贖いの死を含まない神エホバのご意志のことです。イエスの弟子たちは神エホバのご意志を行うことを明らかにし約束しました。 

 イエスは弟子たちが弟子たちの間の中で誰が一番偉いのか、と論議しているのをご存知でした。そのため、イエスは弟子たちに「あなた方の間で偉くなりたいと思う者はあなた方の間で奉仕者でなければならない」と教えられました。加えて「あなた方の間で第一でありたいと思う者はあなた方の奴隷でなければならない」と教えられました。何と優れた教訓でしょうか。真のクリスチャンはイエスのこの教えを守り行っています。イエスの教えられた通り互いを愛し、イエスの弟子であることを示すのです(ヨハネ13:34,35)。ですから、キリスト教世界で用いられているような「法王」とか「枢機卿」とか「神父」とか「牧師」などという人間につける呼称は、聖書、イエスの教えの中にどこにも記されていません。人間が人間の上に高める権威は、イエスの教えられた通り、「諸国民の支配者」が行うことであり、イエスは、弟子たちにそのようであってはならないと教えられたのです。

 さらにイエスは、ご自分が地上に遣わされている意味を弟子たちに証しされました。イエスは人々に仕え手本を示し、ご自分の魂(命)を多くの人々の命と引き換える贖いの死を遂げるために来たことを証しされています。弟子たちに備えをさすために漸進的に教えられています。イエスの教えには実に多くの教訓が含まれています。また、イエスの贖いの死に関しては、独り子イエスを遣わされた比類のない神エホバと、そのみ子イエスのを知ることができるのです(ヨハネ3:16)。イエスの贖いの死と復活は、神エホバのご意志を行うイエスの弟子たちに永遠の命の道も開かれたのです。神エホバとイエスの愛に感謝し、信仰に堅く立たれる方々は幸いです。

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        伊予かんの 香り豊かや 神の業 今日の一句

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