物悲しいおわら節がどこからともなく聞こえ
やがて漆黒の中から嫋やかな女性の踊り手たちが現れる。
さらに衣擦れの音を響かせながら
キレのある男性の踊り手たちが続く。
菅笠を目深に被り、表情を隠した若い男女の
そんな幻想的なシーンを想像し、
さらに、こんなふうに撮ってみたい、と
構図まで勝手に思い浮かべていたのだが...。
「もうひとつのおわら」はまったくの別物だった、という話。
深夜の町流しをを見たくて訪れた八尾。
ある踊り手にどのあたりを流すのか聞いてみたところ
「どこで踊るのか、僕たちにはわからないのです。
地方の人たちが決めて、僕たちはそれについていくだけです。」
という答えが返ってきた。
地方(じかた)とは三味線や胡弓を奏でる人たち、それに合わせおわら節を唄う人たちのこと。
撮影の主題と思っていた踊り手の「ついていくだけ」という言葉に
しばらくはその景色を思い描けなかったのだが...
これまで見てきたおわらは若い男女が主役だった。
深夜になると主役は少し年嵩の地方や踊り手に変わっていた。
けれども、決してがっかりした訳ではない。
むしろ、かれらが楽しむ姿こそ、
小説「風の柩」に描かれた「おわら」だったに違いない、と納得したからだ。
菅笠を被った若い踊り手たちからは観客を意識した
気負いのようなものを感じていたが、
深夜の主役たちからはそんな気配はまったく感じられなかった。
ただ弾きたいから弾く。踊りたいから踊る。
そんな自分たちのおわらを楽しむ人たちに目が釘付けになったのだ。
そこには長年おわらとともに生きてきた円熟味も加わっていたと思うのだが
その円熟味が若い男女にはない凄みとして伝わってもくる。
そして、それこそが「ほんとうのおわら」なのかもしれない、と思ってもいた。