goo blog サービス終了のお知らせ 

SNOW WIND blog

我が愛車“PEUGEOT307SW”を中心に、日々のくらしを綴った日記です。

昔、僕は転勤族だった(その①)

2009-08-28 14:16:37 | 想い出
【転勤族】日本全国津々浦々、社命で転勤させられるサラリーマンを言う。

以前に勤めていた会社では13年間のうちに5回の転勤。ひとつの場所での平均勤務年数は2.6年。慣れた頃には次の場所に移るっていう感じでした。
最初の勤務地は花の東京本社。独身寮の関係で国分寺→世田谷と一回引越をしていますが、あのときは仕事覚えるのや勉強に忙しくて、あまり生活を楽しむことは出来なかったかな。金曜日は新宿や銀座、六本木やお台場のディスコ(懐かしい呼び名だこと)で朝まで踊り狂ったり社外の女性とお酒を飲みに行ったりと、バブリーな時代の社会人の典型的な行動をしていましたね。週末にドライブしたり買い物したり、なんとなく過ごした3年間でした。まさか、自分に転勤があるなんて思いもしなかった、現実を全く捕らえていないノーテンキな私でした。
最初の転勤は三重県。「津」という場所でした。一応県庁所在地。でも人口は18万。県下で一番の大都市は四日市、その次は鈴鹿で、津は三番目でした。あの時は東京を離れるのがものすごくイヤで「都落ちだぁ~・・」などと悲観しながらの転勤でした。実家には近くなるのですが、大都市で7年暮らした人間にとって、地方都市はものすごく退屈に映ったのでした・・・・・(続く)

「不惑」に想う

2009-07-09 12:41:24 | 想い出
プジョー繋がりの知人が40歳になった想いをmixiに綴っておりました。さて、私はどうだったのかと思い返してみると、全く記憶がない。なーんも考えずに過ごしたのだろうねー。区切りを迎える年齢で記憶にあるのは20歳と30歳。特に30歳を迎えたときは、人生のどん底に近いような衝撃を受けました。

あの時は「静内」に赴任したばかり。誕生日は4月だったので、誰も知り合いがいなくて本当に寂しい誕生日でした。学生時代に読んでいたマンガ雑誌、ビッグコミックスピリッツに「妻をめとらば」というマンガがあります。柳沢みきお作だったと思いますが、要は結婚したくてもなかなか相手に恵まれないサラリーマンの話。主人公が30歳を迎える深夜12時近くに、目覚まし時計を見ながら「ああ、もうすぐ30になっちまう」、で12時に「おかーちゃん、30になっちまっただよー」と涙を流す場面がありました。当時、「オレは絶対にこんなふうにならねぇ」と笑いながら読んでいたマンガが現実になってしまった事実に、同じように布団の中で涙が出てきましたねぇ。「なんでこんな田舎に来てしまったんだー」とか「馬しかいねーよ、ちくしょー」などと荒れに荒れた一人ぼっちの誕生日でした。

40前後の"アラフォー"と呼ばれる世代の女性が婚活にいそしむニュースを最近良く目にします。でもね、「10年前にそうやって活動してよ。そうしたら私なんて簡単に引っかかったのに」といつも思ってしまいます。40歳になったときにあまり記憶がないのは、人並みに幸せだったのだからかも知れませんね。仕事も家庭も(笑)


深夜放送

2009-05-08 12:50:02 | 想い出
水曜日に野球放送をラジオで聞こうと、AMをいじっておりました。普段は全く聞かないので、電波の具合をチェックしながらチューニングしていましたら・・・・・懐かしい兵藤ゆきさんの声が聞こえてきました。彼女が東海ラジオのDJ(今はパーソナリティというのかな?)だったころ、よく深夜放送で聞いていた声でした。

高校生だった当時、必ず聞いていた番組は東海ラジオの「とびっきりナイト」という番組でした。長江健次とかもパーソナリティだったと思います(下手だったけど)。曜日によって担当者が日替わりになる番組でしたが、一番面白かったのは小椋みどりさん(だったかな)の日。このなかで“しゃべりてゃ~名古屋弁”というコーナーがあって、いつも爆笑していました。ほかにも視聴者クイズとかいろいろあって、深夜1時以降は受験勉強が手につきませんでした(笑)。両親は「深夜まで一生懸命勉強している」思っていたろうなぁ・・・。

最近はFMしか聞かなくなりましたが、若者は深夜放送を今でも聞いているのかな???

お酒の話

2009-04-10 18:10:27 | 想い出
数回の飲みオフで、お酒好きであることがバレてしまった私ですが、ちょとだけお酒の話をしましょう。

実は、昔はお酒が大きらいでした。あんなに苦いもの口にするのもイヤでした。で、好きだったのが「甘いもの」。和洋を問わず、ケーキからお饅頭まで何でもござれって感じでした。
学生時代は体育会でしたがお酒は大の苦手。胃液吐いても飲ませられる最悪の状況を何度も経験しましたが、ビールと日本酒、ウイスキー全てにおいて克服はできませんでした。唯一、飲めたのは甘いお酒。カクテルなんかで甘めのやつは飲めました。でもマティーニとかを粋がってオーダーして、一口飲んで“グエッ”なんてことばかりでした(笑)

社会人になってからもしばらくその状況は続いていました。OLさんやお局様といっしょにケーキの食べ歩きをするなんてことをよくしていました。当時の私しか知らない人たちは、きっとこんなに飲むようになたことにびっくりするでしょうね。

いつから飲むようになったのか?これは東京から最初に転勤した三重県にいたころからだと思います。田舎でやることのない独身の若人は、ただただスナックとかバーに行くしかなかったのです。そして、日高の静内に転勤したときは、さらなる田舎。今度は夕食を食べる場所すらなく、バーで夕飯を取るようになり毎日のようにバーに入り浸るようになりました。静内に今でもある「ペパーミントムーン」というショットバーは、おそらく一年365日のうち、330日くらい行ってた店です。当然、みるみる飲めるようになります。ワインもここで覚えましたし、ウイスキーもここでよく飲んだかな。

で、現在に至ります。おっ、もうこんな時間か。今日も飲みに行くのだーっ!!

旅立ち

2009-03-31 12:41:37 | 想い出
私にとっての“旅立ち”は、社会人になるときよりも大学生になるために東京に上京したときのほうがイメージが強いです。
どうしても親元を離れて首都圏に行きたかった私は、現役で地元の大学に合格したときに「予備校に行かせてくれ」と頼み込みました。で、一年間の浪人生活。故郷を離れたい理由が心の中にハッキリとあり、合格したときには「よしっ。」

「新しい生活の始まりに、これまでの自分を知っている人は不要」っていうのが理由でしたが、これはいじめられっ子だった私の強い決意でした。

下宿を決めて、いよいよ出発の日はアイドルの岡田有希子さんが自殺した日でした。東京へは、大垣発の普通夜行で向かいました。早朝の東京で、初めて一人で暮らす一歩を踏み出したのはもう23年も前のことです。「二度と故郷には戻らない」そう心に誓った、そんな旅立ちだったかなぁ・・・。



地べたを這うような生活(バイト編)

2009-03-20 12:22:58 | 想い出
続編です。
そんな生活でしたが、なぜか体育会の弓道部に入部してしまった私。毎日の練習でバイトが出来る時間がありませんでした。そうなると、バイトは深夜になります。
ミスタードーナツ、マックの深夜お掃除なんかをやりながら水商売へ。と言ってもショットバーの注文取りと皿洗いです。カウンターに出るようになったのは半年くらい経ってから。ビールの注ぎ方やカクテルの作り方を覚えたのがこのとき。当然、早朝までの勤務ですので講義中は睡眠時間。講義に出てはいたもののスヤスヤと眠るばかりで勉強とは無縁の学生でした(笑)お蔭様で大学1年のときの取得単位数は28単位。さすがにヤバイと思い深夜バイトからは足を洗いました。このほかにやっていたのが中元と歳暮の繁忙期のみの百貨店バイト。横浜高島屋の地下「新潟加島屋」で珍味販売のバイトでした。これはよく続いたバイトで結局4年間。レジ打ちもできる社員並みのバイトでした。
2年生になってから始めたのは火葬場でのバイトでした。焼き場でご遺族の方々が骨を拾った後の残りを焼き場の完全焼却する機械に集めるのと、焼き場の清掃でした。さすがに3Kで応募する人が少ないのか、時給は高かったです。骨を焼く独特の臭いはありましたが、清掃工場の臭いに比べたら全然気にならないバイトでした。
3年生からは家庭教師。私立小学校を目指す5年生と中学2年を教えました。私立中の入試問題に思わず悶絶。「全然ワカンネ~」と久し振りの勉強(笑)まずまずのバイト料で生活も安定してきたのと、2年生で取得単位を挽回して余裕もできたので、深夜バイトを再開。今度はラブホテルの受付でした。いろいろな人間模様を垣間見たバイトでした。「あいつ、いっつも相手がちがうなぁ」とか、いきなり内線で「助けて~」とか、自動ロックなのに通路に出てきて合体しているヤツラもいて「お客様、困りますねぇ」とマスターキー持ってドア前に行ったり。ルームクリーニングのオバサマたちもいろいろなものを背負っている人が多くて、いろんな意味で勉強になりましたね。
4年生になって就職が決まり、部活も引退してからは日産の本牧埠頭で輸出用の車を船に載せるバイトをしました。左ハンドルの運転はこのときに習得。
今、思い出しても変なバイトが多いですが、なかなか楽しいバイトでした。そんなこんなで生活費と交際費と部活に掛かる費用を稼いでいたわけですね。地べたを這いながら、光輝く未来を夢見てたあの頃のお話でした。
続きはそのうちに・・・・。

地べたを這うような生活(ゴキブリですか?)

2009-03-18 18:37:26 | 想い出
ちょっとした昔話。
私にとって一番ビンボーだったのは学生時代。時はバブルの頂上に駆け上がっていく昭和60年代。そんな時代でしたが、私の生活はバブルとは無縁でした。4畳半一間、トイレ・台所共同、風呂なし。今では考えられないような下宿でした。エアコンなんて当然ありません。というよりテレビが無かった。学生時代にテレビを持てたのは3年生から。卒業した先輩のお下がりでした。家電製品は、冷蔵庫にオーブントースター、掃除機、髭剃り、アイロン、炊飯器、こたつとラジカセ。これだけだったなぁ。銭湯が夜の9時には閉店してしまうので、下宿の裏口にゴムホースを伸ばして、ジョーロの口を付けて簡易シャワーにしたりしてたし、とにかく日々自炊ばかりをしていた。月の食費は2万円。米は実家から送ってもらったので、スーパーで買った肉とか野菜とかを効率よく消費していくために一週間の献立を作っていました。どうしてもお金が無いときは、一日一食でほかは水だけ。タバコを吸うと胃液が出るらしくここに水を飲むと何となく満腹感。どうしてもピンチなときは、公衆電話に10円持っていき、10秒間の通話時間で「金、米!!」。笑い話のような本当の話。
3年生からは、仕送りも増えて下宿も風呂付に変わりましたが、あの2年間は本当に痛烈な思い出です。仕送りを沢山貰っている奴等がとても羨ましかったなぁ。「夕飯食べに行こうぜ」という誘いには「悪い、金無いから」という断り。屈辱的だった。そのかわりいろいろな料理を作れるようになった。てんぷらとか揚げ物もできるし魚を下ろすのも出来るようになった。調味料も沢山持ってたし、イタリアンやフレンチなんかも結構ホイホイ作れるようになった。
でも、屈辱だったことには変わりない。社会人になるとき、二度と自炊はしないと心に決めて調理道具は捨てた。社会人=リッチ。あのバブル期の社会人を見ていて本当にそう思った。そして、社会人になってそういう生活を満喫。バブルは弾けて・・・・・今は普通です。でも自炊は相変わらずしません。ウチの奥様からは「たまには作って」と言われますが、なんだかねー、やっぱみじめに思えてしまうんだよなぁ。
遠い昔ですが、今に続いている話、第一弾でした。

ジョニーの子守唄

2009-03-10 18:07:36 | 想い出
束の間の寂しさ埋めるために貴方の歌声を聞いていた
狭いホールの壁にもたれて貴方の動きを追いかけていた
飛び散る汗と煙の中にあの頃の俺が居た
ohジョニー貴方は今ohジョニーどこに居るのか

時間つぶしの店の片隅ふと聞こえてきた貴方の歌
コーヒーカップを持つ手がふいに震えだしたのがはずかしくて
子供が出来た今でさえあの頃は忘れない
ohジョニー貴方だけがohジョニー俺の想い出

風の噂で聞いたけど貴方はまだ燃えていると
ohジョニーそれだけがohジョニーただ嬉しくて


きっと幸せなんだろう。でも僕の手で幸せにしてあげたかった。それが心残りだからこんな詩が好きなんだろうな。

「子供が出来た今でさえあの頃は忘れない・・・・」

これって卑怯かな。でも後ろめたくはないです。男に限らず人間ってこんなものじゃないかな。そんな想い出は誰にだってあるハズ。でも、決して踏み込んではいけない世界なんだろうね。

今年も3月10日がやってきました。別れてから17回目の誕生日です・・。