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東十条探偵団2

明日は何を撮りに行こうかな?

羽二重団子と笹の雪

2015-10-16 | 散歩
  子規庵から少しの所に「羽二重団子」と「笹の雪」、
  両方とも超有名な味の老舗ですね。
  子規や漱石、他に泉鏡花や司馬遼太郎など
  たくさんの文化人が訪れています。


          

          羽二重団子(はぶたえだんご)。
          「文政2年(1819年)、初代 庄五郎が「藤の木茶屋」を武蔵野国谷中本村字居村に開く」とあります、
          きめがこまかく羽二重のようだと絶賛されたのが由来で、そのまま名前となりました。



  

     羽二重団子の店頭にある立札。
     正岡子規や夏目漱石、司馬遼太郎といった文豪たちの作品の中に登場する店。



          

          豆腐料理の「笹の雪」、左に子規の句碑。
          元禄4年、江戸で初めて絹ごし豆富を作り根岸に豆富茶屋を開いたのが始まり、
          「笹の上に積もりし雪の如き美しさよ」と賞賛され、「笹乃雪」と名づけ、それを屋号とした。



          

          子規自筆の句碑

          「水無月や根岸涼しき笹の雪」
          (みなづきや ねぎしすずしき ささのゆき)

          「蕣に朝商ひす笹の雪」
          (あさがおに あさあきなひす ささのゆき)



  

     ねぎし三平堂の手前にこんな店がありました、
     襖の引手を作っているみたいです。



  

     今ではすっかり見なくなってしまった襖ですが引手の専門店です、
     こんなにいろいろな引手があるんですね。



             

             子規庵のHPから借りてきました、
             羽二重団子と笹の雪、歩いて10分くらいかな。
                                              10月7日
      

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根岸・子規庵を訪ねて

2015-10-15 | 散歩
  根岸は上野の山の下の鄙びた場所、江戸の頃は
  文人墨客が集い、また豪商の別荘がたくさんありました。
  今でもその頃の小さな路地が入り組んでいて3回や5回歩いたくらいでは
  自分の居場所も分からない。
  4,5年前根岸で仕事していたのでうろ覚えながら歩いてみました。


  

     子規庵に行く前の道順、「ねぎし三平堂」の前を通ります。
     チケット売り場なんかあって、見えてないけど左が住まいなのかな?。
     三平さん亡くなって35年、孫弟子も頑張っているので一安心でしょう。



  

     ねぎし三平堂を過ぎ左へ入るとあとはこんな張り紙が案内してくれます、
     根岸にはまだこんな民家も残っていますよ。



  

     この辺りの民家に見られる張り紙、
     マップがあったり俳句があったり街ぐるみで子規を守って保存しています。



  

     子規庵が見えてきました。
     子規庵の前の道はうぐいす横丁と呼ばれ、黒い板塀が粋な道でした。
     夏目漱石もこの道を歩いて子規を訪ねたらしい。
     うぐいす横丁は今も残り新春にはうぐいすの鳴き合わせなども行われます。



  

     正岡子規が明治27年から移り住み、34歳で亡くなるまでの約8年間を過ごした場所です。



  

     ねぎし三平堂を子規庵の方へ曲がらずまっすぐに行くとこんな所に。
     訪ねてきた漱石を子規がここまで送ったと言われるところです。

     子規は静かな所からここに引っ越しして電車の音に悩んだようです、
     「実の処汽車の往復喧しく(レールより一町ばかり)ために脳痛をまし候」、、、
     そして一句 「鶯の遠のいてなく汽車の音」。

     この近所はどこへ行っても子規、子規、子規
     明日は子規ゆかりの味の老舗を訪ねてみましょう。
                                              10月7日
      


  

     月がダメなら太陽を。朝、テレビを見たら晴れているというので、、、。
     が、やはり昨日と同じで地平までは晴れてくれませんわ。
     いまの日の出は5:45分ごろ、これを撮って仕事に向かうとちょうどいい、
     あと15分位なら待てる、日付でいうと今月一杯くらい。
     どこかでマジメに晴れてくれるといな。

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サクラサク

2015-10-14 | 季節の花
  いまでも電報なんてあるのかなとちょっと調べてみたらまだあるんですね、
  ただ、今はほとんどが冠婚葬祭というか結婚式の場合が多いようです。
  私たちの年代はもっぱら不幸のときがほとんどで「チチキトク」が定番?、
  電話のある家はほとんど無かった。
  一時「サクラサク」が世の春をさらに明るくしていたんだけど、
  いまはやっぱりLineとかMailが主役でしょうね、秋の桜が咲いています。


  

     十月桜、この前はわりと花びらが丸っこいのを載せたんだけど
     私はやはりこの花びらが尖った十月桜が好き。



  

     晴れ上がった秋空の下どことなく儚げで頼りなさがこの花のいいところ。



          

          コブクザクラ(子福桜)。
          もうちょっと大きく撮りたいけど大きな木で高いところに花が咲くため難しい、
          雌しべが複数あるため実も複数生ることも、、、と子福桜。



          

          10メートルくらいある木に真っ白い花、
          晩秋になると雪が降ったよう。



  

     フユザクラ(冬桜)
     この花びらはあまり透明っぽくない、ちょっと厚い感じ、
     一重の花でこれも春・秋2回咲くようです。



  

     冬桜もツボミがきれいですね、濃いピンク。
     私が見られる秋の桜は大体こんなところ
     まだ咲き始めたばかりなので咲きそろったらまた載せるかも・・・。

     歩き疲れたので一日お休みしたけど明日からまた歩きますよ!、
     今度は支離滅裂(いつも?)
     とりあえず根岸あたりを、子規庵など訪ねてみます。

      


  

     三日月が、正確には1,1の月だけど見えるかなと土手に上ってみた、
     頭上は晴れているが周りはやっぱり雲に邪魔されている。
     見られるとすると正面の低い黒い雲のあたりだけどちょっと無理みたい、
     やっぱり11月にならないと空はきれいにならないみたいね。


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深川に芭蕉の面影を見る

2015-10-13 | 散歩
  芭蕉庵は文京区関口にもあります。こちらは一時幕府の仕事を
  していた時のもので一時的にせよ幕府と繋がりがあったので
  奥の細道・奥州紀行は幕府のスパイとしてではなかったのか?
  なんて話もまことしやかに囁かれていますが・・・。


  

     芭蕉庵史跡展望庭園と芭蕉像。

     万年橋付近には芭蕉に由来する所が多い。深川芭蕉庵跡の他に芭蕉記念館、
     芭蕉稲荷神社があり、そして隅田川のほとりのここ「分館史跡展望庭園」には、
     新しく芭蕉翁の像が建てられました。



  

     芭蕉庵史跡展望庭園から見た清洲橋、ここから見た清洲橋が最も美しいとされ名所になっています。

     奥の細道への旅立ち、、、芭蕉と曾良の二人と見送りの同人たちが
     芭蕉庵を出て多分この清洲橋の辺りから船に乗り、千住に向かいました。
      =いざ行かむ 奥の細道



  

     こうして毎日清洲橋を眺めている芭蕉の胸中は、、、
     松尾芭蕉が深川に移り住んだのは1680年、芭蕉37歳の時であった。



  

     この芭蕉稲荷の前を通ってさっきの芭蕉庵史跡展望庭園に上がります。

     大正6年の大津波(高潮被害)の時、元々あった稲荷神社付近から
     芭蕉遺愛のものとみられる石蛙が見つかりました。
     それまで分からなかったここを芭蕉庵跡と推定し、祠に石蛙を祭り芭蕉稲荷としました
     かの有名な「古池の句」はこの芭蕉庵で1685年の春、詠まれたと言われています。



          

          ちょっと戻って新大橋への道を、江東区芭蕉記念館。
          館内には 芭蕉自筆の句や短冊など、貴重な資料が展示されている。



  

     すご~くシンプルな斜張橋、新大橋は清洲橋のひとつ上流。
     最初に新大橋が架橋されたのは元禄6年12月7日、隅田川3番目の橋で、
     「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられました。

     橋が完成していく様子を、当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた芭蕉が句に詠んでいます。
     「初雪やかけかかりたる橋の上」
     「ありがたやいただいて踏むはしの霜」

     この橋は絶対に下から、川べりの遊歩道から撮らなければいけない橋、
     でも今は工事中、右岸は通れるみたいだけど私は左岸からの方が好き。
     このあと続けて橋を歩こうと思っていたけど工事中ではね、どうしよう・・・?。
                                              10月8日
      


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セメント発祥の地

2015-10-12 | 散歩
  源内さんと本邦セメント工業発祥の地と北の湖部屋。
  なんじゃこれ?、何の関連があるの?、、、街歩きの妙ですね、
  清洲橋の深川側にはこれら新旧の見どころが並んでいます。


          
          
          清洲橋を深川方向へ渡って右へすぐ。
          平賀源内の自宅のあった場所で、エレキテルの実験をおこなった所です。
          製造したエレキテルは現存していて、千代田区の
          ていぱーく(逓信総合博物館の愛称)に収蔵されているそうです。



  

     すぐ左へ曲がって「本邦セメント工業発祥の地」。
     明治5年に前身となる大蔵省所管のセメント工場が作られたがうまくいかず
     明治8年工場を作り直して深川セメント製造所となり初の国産セメント製造に成功、
     その5月19日は「セメントの日」 となった。



  

     明治27年に製造されたコンリートブロック、
     横浜港築港工事の折り海中に沈設されたもの。
     37年間海中にあったが劣化は見られなかった。
     奥は石器時代の通貨、これもここで作られた・・・。(オーパーツかいな)



  
     
     そのあと官営の工場は売却され浅野セメントとして存続し
     現アサノコンクリート深川工場となった。
     東京に現役のセメント工場があるとは知らなかったね、
     移転の話があったけど公害対策をしっかり実施、近隣の理解を得た。



  

     そのアサノセメントのすぐ裏側で大きなマンションでしょうか解体工事が、
     あなた作る人、ボク壊す人、、、。
     ちょっとシュールな場面でした。



  

     さらに1分ほど歩いて左へ、、、橋を渡って5分も歩かないけどね、「北の湖部屋」。
     この辺はちょっと歩くと相撲部屋がいっぱいあります、
     干してあるのは ”まわし”です、こうして見ると大きいですね。

     さて褌を締め直して芭蕉庵へ向かいます、
     小名木川の万年橋を渡ってここから5分、芭蕉さんに会いに行きましょう。
                                              10月8日
      

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