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古都探索日記

奈良や京都の散策日記

バッハの宇宙をこころゆくまで

2024-07-26 12:33:05 | 音楽
 7月23日、愛知県芸文センターコンサートホールでのパイプオルガンブランチコンサート バッハ万華鏡partⅡ はバッハの名作品4曲が演奏された。ブログのタイトルはコンサートの副題。

 演奏は吉田文先生とトマス・マイヤー=フィービッヒ先生。画像はプログラム。

 前半は 1 無伴奏ヴァイオリンパルティータ第二番ニ短調BWV1004 よりシャコンヌ
     2 カンタータ147番よりコラール「主よ、人の望みの喜びよ」
     3 シュープラーコラール集より「目覚めよと呼ぶ声あり」BWV645
 後半は 4 パッサカリア ハ短調 BWV582

 前半のあとに、フィービッヒ先生のドイツロマン派のハンス・フェアマン(1860-1940)についてのミニ講座と二曲のオルガンコラールの演奏があった。

 バッハ作品について私なりの解説

 1 シャコンヌはこの作品だけでもよく演奏される無伴奏ヴァイオリン曲のなかでも一番有名。マイヤーフィービッヒ先生のオルガン編曲による。
 2 このコラールの旋律を聴いたことがない人はいないと思うほど、TVなどでよく耳にする。バッハ自身はオルガン用に編曲はしておらずモーリス・デュルフレの編曲による。
 3 原曲はカンタータ140番のコラール。この曲も超有名、コラールの王様と呼ばれる。バッハ自身がオルガン曲に編曲し、シュープラーコラール集の1曲として出版された。
 4 パッサカリアはバッハが若い時代のオルガン自由曲。バッソ・オスティナート(執拗な低音)が繰り返されていく上にバッハの複雑な対位法音楽が展開されていく。 聴いているとバッソ・オスティナートの宇宙船に乗って深淵なバッハの宇宙を探求していくような気持ちになる。冒頭、先生はチェンバロ奏者の小林道夫さんの言葉「バッハって本当に人間だったのだろうか?」を引用されたがその疑問を具現化する曲で今回のコンサートにぴったり。

 素晴らしい演奏ありがとうございました。バッハの宇宙にどっぷりと浸かることができました。

 
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メンデルスゾーンの宗教音楽 Ⅱ-1 オルガンソナタを中心に

2024-07-05 08:28:18 | 音楽
 7月3日、朝日カルチャーセンターにて受講。講師は吉田文先生。 画像はテキストの一頁目。受講内容を要約。

 本題に入る前、先生はキリスト教音楽の分類について述べられた。ミサ曲:典礼で使われる音楽 教会音楽:教会内で演奏される他の曲、モテットや受難曲など 宗教音楽:さらにジャンルが広く、教会の外でも演奏される。

 1 バッハ以降、パイプオルガン作品は少なくなり、演奏される機会も少なくなった。例えば、ハイドンやモーツアルトにはオルガン作品はほとんど無い。

 2 オルガン奏者としてのメンデルスゾーン
 1820年、アウグスト・ヴィルヘルム・バッハ(バッハ家とは無関係)より11歳でオルガンのレッスンを受ける。
 1829年、初めてイギリスを訪れた、セントポール大聖堂で演奏する機会を得る。
 1832年、2度目の訪問の時はセントポール大聖堂のほかでも演奏するがセントポール大聖堂以外イギリスにはバッハの作品を演奏するにはペダルが完全なオルガンは無かった。
 1837年、再びセントポール大聖堂でバッハ作品を演奏、大賞賛される。
 1842年、ヴィクトリア女王と夫君の臨席のもとでのコンサート。このようにイギリスでの演奏が多かった。

 1840年、8月6日、ライプツィヒのバッハ記念碑を記念しての聖トマス教会でのコンサートは大成功。パッハカリアBWV582、トッカータニ短調BWV565などを演奏。余談として聖トマス教会のオルガンのメーカーは名古屋の五反城教会のと同じ。

 3 メンデルスゾーンのオルガン作品
 1833-7年頃の中期の作品からオルガンソナタ2曲を視聴。
 1844年、イギリスの出版社から6曲のソナタとバッハのオルガン小本の出版を依頼された。旧作の24曲から組み合わせて6曲のソナタを完成、1845年9月15日、出版。
 6曲の中からコラール旋律を含む2曲を視聴。このようにしてメンデルスゾーンはオルガンソナタというジャンルを確立していった。出版以後、他の作曲家も創作しだした。

 キリスト教音楽が教会を離れ、コンサートホールなどで演奏されるようになったのもこの時代であり、その状況は今の日本に通じるものがある。

 メンデルスゾーンはマタイ受難曲だけではなく、バッハのオルガン作品の復活と保存にも大きな功績があったことが解りました。ありがとうございました。
 


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女性作曲家たちと珠玉のオルガン作品

2024-06-06 13:13:06 | 音楽
 6月5日、朝日カルチャーセンターにて受講。講師は吉田文先生。画像はテキストの一頁目。講義内容を要約。

 まず、吉田先生はヨーロッパの各地域での女性と教会音楽の関係と、女性音楽家の立場の弱さを解説された。

 1 ドイツ語圏 カトリック教会では女性はシャットアウト。プロテスタント教会でも1706年に若きバッハがのちに妻となるマリア・バルバラを教会内で歌わせたとして問題となったが、18世紀に独唱歌手として存在が認められるようになった。1800年頃にはオペラのプリマドンナが教会音楽に参加するようになった。

 2 英語圏 ドイツとくらべて開放的。1837年18歳のエリザベス・スターリングがリサイタルを開催、女性として初めてバッハを演奏した。彼女はのちに教会のオルガニストを務めた。また詩篇に基づき、合唱とオーケストラ作品を作曲してオックスフォード大学の音楽学士の合格したが、女性ゆえに学士号はえられなかった。 詩編104に基づくコラールとフーガを視聴。 

 3 イタリア・フランス 18世紀より女性オルガニストが確認できる。フランソワ・クープランの家系の女性2名がパリの教会の正規のオルガニストを務めた。

 次に、職業としての女性オルガニストについて

 ドイツ語圏では19世紀シューベルトの親友のフランツ・ラハナーの二人の姉妹が教会の専属オルガニストを務めた。
 フランスでは1819年にパリ音楽院にピアノより先にオルガンのクラスが新設され、女性学生も受け入れた。

 最後に5人のフランスの女性の作曲家兼オルガニストを紹介された。

 1 セシル・シャミナード (1857-1944) 200のピアノ作品、137の歌曲などを残す。作曲家としての職業にこだわった。オルガン作品の4つの牧歌より視聴。

 2 ジェルメーヌ・タイユフェール(1892-1983) エリック・サティに見いだされ、「6人組」の一人。父親の反対を押し切ってパリ音楽院に入学。
唯一のオルガン作品 ノクターンを視聴。

 3 クレール・デルボス(1906-1959) メシアンの最初の妻。

 4 ロランデ・ファルチネリ(1920-2006) 1932年よりパリ音楽院に学ぶ。マルセル・デュプレに学ぶ。1942年にローマ大賞を受賞。諧謔的ソナチネより3曲視聴。
 
 5 ジャンヌ・ドゥメッシー(1921-1968) 1928年モンペリエ音楽院、1933年パリ音楽院に学ぶ。マルセル・デュプレに師事。1941年、オルガン演奏と即興演奏の両方で首席。驚異的な記憶力の持主で2500曲を暗譜で演奏、バッハの全作品も含まれる。精霊のための7つの瞑想曲より光、テ・デウムを視聴。

 この二人の次の世代の有名なマリ・クレール・アランは(1926生まれ)作曲はしなかった。余談としてクレール・アランはハイヒールを履いて足鍵盤を演奏した。

 今回も自分だけでは到底知りえない知識を得ることができました。ありがとうございました。

  

 
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エルフリーダ・アンドレー

2024-05-03 09:15:11 | 音楽
 5月1日、朝日カルチャーセンターにて受講。講師は吉田文先生。画像はテキストの1頁目

 今回のテーマはエルフリーダ・アンドレー(Elfrida Andree 1841-1929) スウェーデンの初の女性の大聖堂オルガニスト&作曲家である。前回のファニー・メンデルスゾーンの次の世代に当たる。

 まず初めに吉田先生ご自身の演奏による彼女が作曲した4楽章からなるオルガン交響曲ロ短調を視聴。使用されたのはマリア・ラーハベネディクト会修道院の1910年製作のオルガンでドイツロマン派の音色を持っている。

 次に先生は当時の女性の地位について解説、18世紀では女性に成人権はなく身分は低かった。19世紀に入り女性運動が起こり、徐々に権利が認められるようになった。女性の義務教育、師範学校の設立、大学入試資格など。エルフリーダはこの時代に育つ。

 生い立ちと生涯:父親は医師、船上医の経験があって高く広い見識があった。この父親から姉とともに音楽教育を教授される。1850年ごろから地元の大聖堂オルガニストから手ほどきを得る。1855年ストックホルムに移住。ストックホルム音楽大学オルガン科を受験するが却下される。再度受験した認可。さらに女性のオルガニスト就職、教会オルガニストなどを目指して運動した。
 1867年ヨーテボリ大聖堂のオルガニストに就任。ヨーテボリ民衆コンサートも引き継ぐ。さらに女性運動家として女性の地位向上のために政治参加した。

 オルガンだけでなく、オーケストラ作品、オペラ、室内楽曲、カンタータ、ミサ曲、歌曲などの100作品が残っている。

 最後にモデラート、アンダンテ、プレスト、アレグロ・リソルートの4楽章からなる交響曲第2番イ短調(オーケストラ)を視聴。

 ジェンダーフリーの先進国の北欧にも女性の地位が低かった時代があり、音楽活動と同時に自らの人生を切り開き、さらに女性の地位向上のために生きたアンドレーに感銘を受けました。ありがとうございました。


 
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教会音楽の扉~女性作曲家たちと珠玉のオルガン作品 ファニー・メンデルスゾーンを中心に

2024-04-04 09:41:03 | 音楽
 4月3日、朝日カルチャーセンターにて受講。講師は吉田文先生。画像はテキストの一頁目。講義内容を要約。

 フェリックス・メンデルスゾーンの4歳上の姉、ファニー(1805-1847)についての講義。

1、まず生い立ちと初期のキャリアから。
 父親は銀行家のアブラハム、母親はレア・ゾロモン。母方は音楽一家であり、祖母ベラはバッハの弟子のキルンベルガーからピアノのレッスンを受けており、その知識をレアに伝えた。また大叔母のサラはバッハの長男のフリーデマンのお気に入りの生徒であった。
 母親からピアノのレッスンを受け、13歳でバッハの平均律クラヴィア曲集の前奏曲の全てを暗譜して弾くことができた。フェリックスとは一心同体のように学び、ツェルターやケルビーニからベートンヴェンの音楽とバッハの対位法を学ぶ。
 メンデルスゾーン一家は裕福で広範な楽譜コレクションを所有し1800年ごろには自宅に音楽サロンを築いた。1819年の父親の誕生日にフェリックスと合作した歌曲「楽の音よ、楽しく響け!」を視聴。

2、日曜音楽の開催
 1821年、父親のアブラハムがフェリックスの発表会のために設立、1825年には取得した庭付きの大邸宅で開催、300人の聴衆を集める。ファニーの作品も演奏されたが、父親は女性が音楽家になることに偏見を持ちファニーにはアマチュアに留まることを求めた。このころの作品としてピアノのための前奏曲を視聴。対位法が用いられ明らかにバッからの影響が感じられた。1829年、日曜音楽は休止。

3、結婚
 1829年、画家のヴィルヘルム・ヘンゼルと結婚。1822年に知り合ったが、父親の反対により遅れていた。
 結婚式のためにファニー自身が作曲したオルガンのための前奏曲を吉田先生が演奏したCDを視聴。
 1830年、一人息子が誕生。名前はセバスチャン・ルートヴィヒ・フェリックス、明らかにバッハ、ベートーヴェン、弟から取り入れたことが解る。
 夫のヘンゼルはファニーの音楽活動に理解を示し、テキストや楽譜の挿絵などを創作した。

4、日曜音楽の再開
 1831年、日曜音楽を再開。ファニー自ら、プログラムの構成、演奏家の手配など企画・運営に携わる。フェリックスと自身の作品だけでなく、バッハ、モーツアルト、ベートーヴェン、ハイドン、グルックなども演奏された。またシューマン夫妻、リストなども賛歌した。
 管弦楽のハ長調序曲(1834)を視聴。

5、イタリア旅行
 1839年、家族と一年かけて憧れていたイタリアに旅行。夫のヘンゼルはすでにイタリアの芸術界と交流があり、夫の紹介によって作曲家や芸術家と活発な交流が生まれる。特にシャルル・グノーからはバッハの平均律クラヴィア曲の演奏を請われ、そこからグノーのアヴェマリアが誕生したと推測される。もしかしたらファニーがピアノを演奏しながら口ずさんだ旋律をグノーが書き留めたのではないか?と先生は解説された。

6、出版に向けて
 1846年、ロバート・フォン・コンデルと出会い、出版を勧められる。フェリックスは良い返事をしなかったが、多数の作品を出版。
 「白鳥の歌」ほかを視聴。

7、死
 1847年、ゲーテの「ファウスト、第二部」のリハーサル中に脳卒中で倒れる。

 いままでに名前も知らなったファニー・メンデルスゾーンについてのレクチャーをありがとうございました。今では言ってはならない言葉ですがファニー・メンデルスゾーンはまさに「男勝り」の才能に恵まれた音楽家だったと思います。もしかしたらフェリックスはファニーの才能に嫉妬していたようにも感じられました。妻クララに嫉妬したシューマンを思い起こしました。重ねてお礼申し上げます。
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