1876to1945さんのツイート(2013年10月01日~)を順に紹介します。81回目の紹介
【フクシマ見聞録】
3・11「ああ、。こういう事態の時って、
一番はじめの会見とかって重要なんだよ」
Akira Tsuboi@1876to1945さん 2014年1月23日のツイートから
福島行-「炉心溶融の話をした人、出てこなくなったな-」父が言った。
父と母の取った部屋にホテルが貸し出すパソコンを運び、
連日繰り返される東京電力の状況説明のお会見を見ていた。
父は例によって小さな手帳を脇に置いて言った。
「書いておいたんだよ。-
-「12日の会見で中村幸一郎ってひとが『炉心溶融の可能性がある』ってさ。
炉心溶融ってメルトダウンのことだろう。あそこで一度あのひとが言ったきり、
この話しなくなったな。」”書き留めてるの?”
「ああ、。こういう事態の時って、一番はじめの会見とかって重要なんだよ。-
-「混乱してるそのままで情報を出すからね。整理されてない本当のことが
ぽろっと出てくることがある。後々でしまいこまれちゃうような情報が、
ぽろっと出てくることがある。」
画面には、中年のにやつきが顔に張りついてしまったような男が
曖昧な答弁を繰り返している。フリージャーナリスト達が-
-その曖昧な答弁に切り込んでいる。むき出しの応酬だった。
やがて公表されるメルトダウンについて、その頃の世の中はひたすら
人々の関心の遡上に上げないようにしているのが目に見えるようだった。
”時間だよ、行こう”自分は言った。
家族皆を連れて、ある女性にあう時間が来ていた。-
-福岡へついたすぐ、フェイスブックを通じてメッセージが届いていた。
見ると、下北沢で絵を見せていた頃に、福岡からやってきてくださっていた
同年の女性だった。書いてあった。
「ツボイさん、おひさしぶりです。大変な事態になりましたね。
こちら福岡はいたってふつうで、東京がどうなっているのか-
-「心配しております。ツボイさんはだいじょうぶですか-」
自分は返信で福岡に数日前に来たこと、福岡駅近くのホテルに
とりあえず部屋を取ったことを伝えた。返信が来る。
「え?私の職場は、福岡駅からすぐ近くのところなんです。」
電話番号を伝え合い、すぐ会うことになった。-
-自分のとっていたホテルは中洲へ向かう大通りに面し、
裏手はうす暗い住宅街になっていた。落ちあい、
邂逅した状況をお互いふしぎに思って話しながら、ぶらついた。
ぶらつくと、福岡の女性がある店を自分に紹介し、二人でそこへ入った。
地の酒地の魚を出す年季の入った店だった。-
-自分のゆきさつを話すと福岡の女性は言った。「こっちは11日がちょうど
九州新幹線開通の大きなイベントの日だったんですよ。
前の日には歌手とかバンドとか出てきた予行練習やって、設備を作ってた。
それが、流れちゃった。わたしの働いてる職場は
このあたりの開発事業をやってるんです。-
-「新幹線が開通して、それに合わせて駅も新装して、、。
そこにうちもかなり深く噛んでたものだから、もう、なんというか
がっかりですね。」九州の甘口の醤油で魚を食う。
いくら注ぎ込んでも物足りない。きっかりとした醤油が欲しい。
福岡の女性は言った。「でもひどいもんですよ-
-「あれだけの事故が起こったのに、12日の(と記憶している)夜に
また強行工事をしようとしてたんです。考えられますか。
私の友人が祝島のことをずっと追ってるんですけど、上関は中電で、
抗議する住民を規制しようとして警備員をやとった。アルソックですよ。
みな20代そこそこの若いごつい子-
-「ひどいもんです-」福岡の街には落ち着きのようなものがある。
切り取ってそのわかりやすい断片を差し出すことはできないが、
ひとの表情やしぐさ、街の感じにそれは感じられ、
古くあっても厳然として動かない秩序のようなものが土地の背骨として
揺るがなく存在しているように感じていた。-
-その秩序は反面、周りがどう言おうが、どうあろうが、
やることはやる者がやってしまう、というようなかたちになるのではないかと思った。
その日はそうしてただ話して別れ、自分が苦境になったら連絡をする話になっていた。
3.11後の自分の混乱の中に現れた、唯一の力となってくれた日本人だった-
-苦境-。ホテル住まいの日々に、自分の蓄えも先が見えてきていた。
ただ金が流逸してゆく。自分はパスポートができるまでに金を得なければならなかった。
自分は警固町にあるハローワークに向かい、そこにいる人間にまぎれて職の口を探し始めた。
『金属加工職人 住み込み 時給800円』-
-『西洋家具の見習い』。新装なった福岡駅は大規模な駅ビルになって、
そこに集積している飲食店のアルバイトが多くあった。介護。
3.11まで働いていた特別養護老人ホームで自分の肉体は限界に
ちかい状態になっていた。(すべてゼロからはじめようか-)
そう思って今までしたことのない-
-印刷業の会社ででも働こうかとも思う。だが、自分が惹かれるのは
金属加工の住み込み、西洋家具制作の見習い、そんなものばかりだった。
(絵はどうするんだ-)東京の自分の部屋に詰め込まれてある絵のことを思う。
音楽であれ、絵であれ、自分は自分の中に耕作地を抱えているように思っていた。-
-長い時間はかかるだろうが、内側の耕作地の土地を耕し、できた上質の物が
増えてゆけば、それは自分の理想だった。内側と言っているものの、
それは闇市の跡をとどめていた下北沢という街と不可分のもので、
それら一切が頓挫したことに、解決しようのない喪失感を感じる。(ゼロ。すかんぴんだ-)-
-金属加工と西洋家具の募集の紙を窓口にもってゆく。窓口は中年の男で、
紹介状を出す間にじぶんの仔細を聞いてきた。状況を話すと言った。
「そうですか。実は私も東京にいたんです。下北にもいました。
学校の教師をしてたんです-。すこしずつ増えてますねえ。昨日今日、-
-「関東から避難されてきた方の相談を受けました。」紹介状を受け取ると、
街をぶらついた。博多の、すこし文化的な店がほどなくしてあった。
『オマエが買う本はここにはない』という少し狂気がかった看板をかかげる
昭和戦前の絵本ばかりを扱う店にいると、件の福岡の女性から連絡があった。-
-近況を聞いてきた。自分は職を探している、金属加工の職人に
なろうかと思っている、そう話すと「-そうですか。前にも話したけど、
うちの会社けっこう手広くやってるんで相談に乗れるかもしれませんね。」
福岡の女性は言った。そこから話は進んで、
系列のやはり特別養護老人ホームの面接を受ける-
-になった。社長に掛け合ってくださったという。面接は顔通しのようなもので、
ほぼそこで決まれば決まってしまうことになるが良いか、
福岡の女性は自分に言った。選んでいる余裕はなかった。
”かまいません、”自分はできるかぎりのかたちで謝意を伝え、家族に伝えた。-
-3.11で流れた福岡駅新装の催しが後日にずれこんで、
それを見越したのかホテルに予約が埋まり、自分および家族は数日で
そのホテルを出なければいけない状況にもあった。
次のホテルも手配してくれる話になった。そのことを家族に伝えると、
お礼をしなければ、という具合に話は進展したのだった。-
-やはりホテルの裏手からほど近い場所にあった水炊きの店にゆき、
家族と金を出し合って福岡の女性に食べてもらった。-
※次回に続く
2017/2/21(火)22:00に投稿予定です。