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攻める平家の軍勢と、落命する高倉の宮”以仁王”(左上・鳥居の前)
<本文の一部>(宇治川の合戦の続き)
飛騨守景家は古き兵にて、「宮をば南都へ先立てまゐらせたるらん」と、いくさをばせで、五百余騎にて南都をさして追ひたてまつる。案のごとく、宮は二十四騎にて落ちさせ給ふに、光明山の鳥居の前にて、飛騨守、宮に追っつきたてまつる。雨の降る様に射たてまつる。いずれが矢とは知らねども、宮の御側腹に矢一つ射立てまゐらする。
御馬にもたまらせ給はず落ちさせ給ふを、兵ども落ちあひまゐらせて、やがて御首をぞ賜はりける。鬼土佐、荒土佐、荒大夫なんどといふ者ども、そこにてみな討死してんげり。御供つかまつるほどの悪僧の、そこにて一人も漏るるはなかりけり。
宮の御乳母子(おんめのとご)に六条の佐大夫宗信は、ならびなき臆病者なりけるが・・・・目ばかりさし出だしてふるひゐたれば、しばらくありて、敵、みな首ども取って帰る。その中に、浄衣着たる人の首もなきを、蔀(しとみ)に乗せて舁いで通るを、「たれやらん」と思ひて、恐ろしながらのぞいて見れば、わが主の宮にてぞましましける・・・・
・・・・宮の御首は、宮の御方へつねに参りかよふ人もなければ、見知りまゐらせたる者もなし。典薬頭定成が、ひととせ御療治のために召されたりしかば、「それぞ見知りまゐらせん」とて、召されけれども、所労とて参らず。
御子を生みまゐらせける女房なれば、なじかは見損じたてまつるべき。御首を見まゐらせて、やがて涙にむせびけるこそ、宮の御首には定まりけれ・・・・・
・・・・前の右大将宗盛の子息、侍従清宗、三位して「三位の侍従」とぞ申しける。今年十二歳。「父の卿もこのよはいにては、わずかに兵衛佐にてこそおはせしに、おそろし、おそろし」とぞ人申しける。
これは、「源の以仁ならびに頼政法師追討の賞」とぞ聞書にはありける。
「源の以仁」とは、高倉の宮を申しけり。まさしく太上法皇の御子を討ちたてまつるのみならず、凡人になしたてまつるぞあさましき。
(注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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<あらすじ>
(1) 平家の武者、飛騨守・景家は、老練の武士であったので、高倉の宮を
南都へ向けて先に落させたに違いないと考え、合戦には加わらず直ち
に”宮”の後を追い、途中で追いつき猛烈に矢を射かけ、”宮”は遂
に射落されて御首を取られてしまうのであった。
お供の荒法師たちも逃散する者一人も無く、すべて討死したという。
(2) ”宮”の幼少のころから一緒に育った佐大夫・宗信は、臆病者であっ
た為、御首を取られた遺骸を目の前にしても、取りすがることもでき
ず、たゞ傍の池の中に隠れているばかりであった。
やがて平家の軍勢が引き上げたあと、"宮"の遺骸から名笛「小枝」
を取り出し押し抱いて、泣く泣く都へ向ったという。
(3) 前の右大将(さきのうだいしょう)宗盛の子”清宗”は、父の功によ
って三位に叙せられた。(”源の以仁”並びに”頼政”追討の賞)
叙位任官の文書に記された”源の以仁(みなもとのもちひと)”と
は、”高倉の宮”のことであり、太上法皇(後白河院)の御子を討っ
たばかりではなく、臣下に扱うとは情けないばかりだと、世の人は噂
したという。
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(注)
”高倉の宮”が討たれた場所は、「山槐記」には”加幡河原”
で討たれたと、あり。
現在は木津川とJR奈良線に挟まれたところに地名として
”綺田(かばた)”が残る。
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