* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第四十四句「頼朝謀叛」(よりともむほん)

2006-06-22 16:50:56 | 日本の歴史

      (右下)夜を日に次いで福原へ到着の大庭景親の使者
      (左上)使者に早く”注進状”を、とせかす平家の侍たち

     <本文の一部>

  同じき九月二日、相模の国の住人大庭三郎景親、福原へ早馬をもって申しけるは、

「去んぬる八月十七日、伊豆の国の流人、前の右兵衛佐(さきのうひょうえのすけ)頼朝、舅北条の四郎(時政)をつかはして、伊豆の目代(代官)、和泉の判官兼隆を山木が館にて夜討にす。そののち土肥、土屋、岡崎をはじめとして、伊豆、相模の兵三百余騎、頼朝にかたらはれて、相模の国石橋山にたて籠って候ふところに、景親、御方に心ざしを存ずる者ども三千余騎引率して、押し寄せ、攻め候ふほどに、兵衛佐七八騎に討ちなされ、大わらはに戦ひなって、土肥の杉山へ逃げこもり候ひぬ。畠山庄司次郎五百余騎にて御方つかまつる。三浦の大介義明が子ども三百余騎、源氏方をして、由比、小坪の浦にて戦ふ。畠山いくさに負けて武蔵の国へ引きしりぞく。そののち畠山の一族、河越、稲毛、小山田、江戸、葛西、そのほか七党の兵ども三千余騎三浦の衣笠の城に押し寄せて、一日一夜攻め候ふほどに、大介討たれ候ひぬ。子ども久里浜の浦より船に乗り、安房、上総に渡りぬ」とこそ申したれ・・・・

  畠山庄司重能、小山田の別当有重、宇都宮の左衛門尉朝綱、これら三人は大番役にて、をりふし在京したりけるを、太政入道(清盛)怒って、三人を召し寄せ。「源氏に同心せじといふ起請文を書きて参らせよ」とのたまへば、・・・・・・・・

  入道相国(清盛)怒られける様ななめならず。「頼朝をば死罪におこなふべかつしを、池殿(池禅尼)のしひて嘆き給ひしあひだ、慈悲のあまりに流罪になだめしを、その恩を忘れて当家に向って弓を引くにこそあんなれ。神明三宝もいかでか許し給ふべき。ただいま天の責めをかうぶらんずる兵衛佐なり」とぞのたまひける。

  それわが朝に朝敵のはじめをたずぬるに、日本磐余彦(神武天皇)の御宇四年紀伊の国名草の郡高尾の村に、一つの雲あり。・・・・・・・・

・・・・・悪左府、悪衛門督にいたるまで、すべて二十余人なり。されども一人として素懐をとぐる者なし。みな屍を山野にさらし、首を獄門にかけらる。

  今の世こそ王位もむげに軽けれ、昔は宣旨を向かひて読みければ、枯れたる草木も花咲き実なり、空飛ぶ鳥までもしたがひ来たる。・・・・・・・

          (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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      <あらすじ>

(1) 治承四年(1180)八月十四日、伊豆の代官・山木兼隆を”流人の頼朝
   が夜討ちをかけて誅し、この後、石橋山の戦いで敗れた”頼朝”勢は敗
   走し、九死に一生を得て”房総”へと逃れる。

(2) 同じ九月二日、相模の大庭三郎景親は”早馬”で、流罪中の源頼朝
    兵を挙げ謀叛を起こした旨を、福原の”清盛”に知らせる。

(3) 諸国の武士が、三年交替で京の宮廷警固などのお役目を命じられる
    が、たまたま在京中のいづれも東国の武者”畠山重能””小山田有重
    ”宇都宮朝綱”に対して「源氏に味方をしない」という”誓約書”を書いて
    差し出せ!と”清盛”は迫る。

(4) 清盛は、”死罪”にすべき”頼朝”を、池禅尼(清盛の父・忠盛の後妻)
    のたっての助命嘆願で、流罪に減じたその”頼朝”が、その恩を仇で
    返した!と、大へんな怒りようで「天罰が下るだろう」と、憤懣やるかた
    ない有様であった。

(5) かつての”朝敵”の名を挙げて、それらはいづれも屍を山野にさらし首
   を獄門に かけられたと、”決して本望を遂げることは無い”のだと強調
   するのである。

       神武天皇の御世に、紀州での叛乱をはじめ、崇峻帝のときの
      物部守屋、皇極女帝の御世の蘇我入鹿、桓武帝のときの氷上
      の川継、また早良親王、そして平将門藤原純友、保元の乱
      での藤原頼長、平治の乱の藤原信頼・・・・など等、多数を列挙
      する。

(6) 醍醐帝の御世、延喜年間のエピソードとして、空飛ぶ鳥の””さえも
    ”帝の御言葉”に従い平伏?し、殊勝であると””を授けた・・・・・、
    というお話で、天皇の御威光の高かったことを述べ、今の世の天皇の
    軽んじられ方を嘆くのであった。