* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第四十句「鵼」(ぬえ)

2006-06-07 10:54:47 | Weblog

     暗雲に包まれる清涼殿、”妖怪”を射落とす”頼政

      <本文の一部>

  そもそも、この頼政と申すは攝津守頼光(源の頼光)がが五代の後胤、三河守頼綱が孫、兵庫守仲政が子なり。保元(保元の乱)に御方にてまっ先駆けたりしかども、させる賞にもあづからず。平治(平治の乱)にまた、親類を捨て(源の義朝を見限り)、参りたりしかども、恩賞これ疎かなり(僅かなものだった)。

  重代の職なれば、大内(大内裏)の守護うけたまはりて年久しかりしかども、昇殿をばいまだゆるされざりけり。年たけ、よはひかたぶいて(歳をとってから)のち、述懐の和歌一首つかまつりてこそ昇殿をゆるされたりけれ。
    人知れず 大内山のやまもりは 木がくれてのみ 月を見るかな
とつかまつり、昇殿したりけるとぞ聞こえし。

四位にてしばらく侍ひけるが、つねに三位に心をかけつつ、
  のぼるべき たよりなき身は 木のもとに しゐをひろひて 世をわたるかな
とつかまつりて三位したりけるとぞ聞こえし。すなはち出家し給ひて、今年は七十七にぞなられける。

  この頼政、一期の高名とおぼえしは、近衛の院の御時、夜な夜なおびえさせ給ふことあり。大法、秘法を修せられけれども、しるしなし。人申しけるは、東三条の森より黒雲ひとむらたち来たり、御殿に覆へば、そのときかならずおびえさせ給ふ。と申す。

  「こはいかにすべき」とて、公卿僉議あり。「所詮、源平の兵(つわもの)のうちに、しかるべき者を召して警固させらるべし」とさだめらる・・・・・・しかれば、「すなはち先例にまかせ、警固あるべし」とて、頼政をえらび申さる・・

  夜ふけ、人しづまって、さまざまに世間をうかがひ見るほどに、日ごろ人の言ふにたがはず、東三条の森のかたより、例のひとむら雲出で来たりて、御殿の上に五丈ばかりぞたなびきたる。雲のうちにあやしき、ものの姿あり。頼政、「これを射損ずるものならば、世にあるべき身ともおぼえず。南無帰命頂礼、八幡菩薩」と心の底に祈念して、とがり矢をとってつがひ、しばしかためて、ひょうど射る。

  手ごたへして、ふっつと立つ。やがて矢立ちながら南の小庭にどうど落つ。早太(頼政の家来)、つつと寄り、とって押さへ、五刀こそ刺したりけれ。そのとき、上下の人々、手々に火を出だし、これを御覧じけるに、かしらは猿、むくろ(胴)は狸、尾は蛇、足、手は虎のすがたなり。鳴く声は、鵼にぞ似たりける。「五海女」といふものなり。

  主上、御感のあまりに、「獅子王」といふ御剣を頼政に下し賜はる。(藤原)頼長の左府これを賜はり次いで、頼政に賜はるとて、ころは卯月のはじめのことなりければ、雲居にほととぎす、二声、三声おとづれて過ぎける。・・・・・・

  ・・・・・日ごろは山門の大衆こそ乱れがはしきことども申せしに、今度は穏便を存じて音もせず。南都、三井寺は事を乱し、あるいは宮を扶持したてまつり、あるいは御むかへに参る。「これ、もっぱら朝敵なり」とて、「奈良をも、三井寺をも攻めらるべし」とぞ聞こえける。

  「まづ寺(三井寺)を攻めらるべし」とて、同じく二十六日、蔵人頭重衡(清盛の五男)、中宮亮通盛(門脇宰相・教盛の嫡男)、その勢三千余騎、園城寺(三井寺)へ発向す。寺も思ひきり(覚悟を決めて)しかば、逆茂木ひき、戦ひけり。大衆以下法師ばら三百人ぞほろびける。・・・・・・・

  寺の長吏八条の宮(円恵法親王)、天王寺の別当をとどめられさせ給ふ。僧綱十余人、解官せらる。悪僧には、筒井の浄妙坊明秀にいたるまで三十四人ぞ流されける。

           (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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    <あらすじ>

(1) 始めに「源三位入道・頼政」の来歴を述べ、保元の乱や平治の乱
    
での働きも、恩賞が僅かにしかなく、大内裏の警固のお役目も長
    年に亘るが、昇殿も許されない地下人であった。

     老齢になってから、詠じた”和歌”によって昇進し、四位とな
    って(昇殿を許される)更には三位になったという。

(2) 頼政の生涯の名誉は、近衛帝(在1142~1155)の御世に、帝が夜
    な夜なものに怯えことがおありになり、その怪物、怪獣?を退治
    
したという「武勇伝」であった。
     帝は、大へんお喜びになり”獅子王という剣”を与えたという。

(3) 二条帝(在1159~1165)の頃にも、”鵼”という”怪鳥”を射落と
    して、大へんお褒めにあずかったという。

(4) 三井寺(園城寺)は、謀叛の”高倉の宮・以仁王”をご援助して戦
    ったのであり、まさに「朝敵」である、これを攻めるべし!・・と
    五月二十六日、平家の大軍が押し寄せ火をかけ、多数の僧たちが討
    たれ、寺は炎上したと伝える。