乗円坊の阿闍梨・慶秀ひとり、門下の僧たちと夜討ちに向うと・・・
<本文の一部>
同じき二十三日の夜に入りて、源三位入道(頼政)、宮(以仁王)の御前に参り、申しけるは、「山門(延暦寺)はかたらひあはれず、南都(興福寺)はいまだ参らず。事のびてはかなふまじ。こよひ六波羅へ押し寄せ、夜討にせんと存ずるなり。その儀ならば、老少千余人はあらんずらん。老僧どもは、如意が峰よりからめ手にまはるべし。若き者ども一二百人は、先立つて白河の在家に火をかけて、下りへ焼きゆかば、京、六波羅のはやりをの者(血気にはやる若者)ども、『あはや、事いでくる』とて、馳せ向はんずらん。そのとき、岩坂、桜本に引っ懸け、引っ懸け、しばしささへて防がんあひだに、若大衆ども、大手より伊豆守大将として六波羅へ押し寄せ、風上より火をかけて、ひと揉み揉うで攻めんずるに、なじかは太政入道(清盛)、焼き出だして討たざるべき」とぞ申されける。
さるほどに大衆おこって僉議しけり。そのうちに、平家の祈りしける一如坊阿闍梨心海といへる老僧あり・・・・・「・・・内々の館のありさまも、小勢にてたやすう落しがたし。よくよくほかにははかりごとをめぐらし、勢をあつめて寄せ給ふべうや候ふらん」と、時刻をうつさんがために、長々とぞ僉議しける・・・・・
乗円坊の阿闍梨慶秀、節縄目の腹巻を着、頭つつんで、僉議の庭にすすみ出でて申しけるは、・・・・・「・・・・余は知らず、慶秀が門徒においては、こよひ六波羅へ押し寄せて討死せよ」とぞ申しける。円満院の大輔源覚が申しけるは、「僉議端多し。夜のふくるに、いそげや、すすめや」とぞ申しける。・・・・・・
如意が峰よりからめ手にむかふ老僧どもの大将軍には源三位入道。乗円坊の阿闍梨慶秀、・・・・・・長七唱(ちやうじつとなふ)、連の源太、与の馬允、競滝口、清、勧を先として、ひた兜一千余人、三井寺をこそうち立ちけれ。
三井寺には、宮入らせ給ふのちは、大関、小関堀り切って、逆茂木をひいたりければ、堀に橋を渡し、逆茂木をのけんとしけるほどに、時刻おしうつりて、関路の鶏鳴きあへり。・・・・・・・・・五月の短か夜なれば、はやほのぼのとぞ明けにける。
伊豆守のたまひけるは、「ただいまここにて鶏鳴いては、六波羅へは白昼にこそ寄せんずれ。夜討こそさりともと思ひつれ、昼戦にはいかにもかなふまじ」とて、搦手は如意が峰より呼び返す。大手は松阪よりとって返す。
若大衆どもが申しけるは、「これは所詮、一如坊が長僉議にこそ夜は明けたれ。その坊切れや」とて押し寄せて、散々に打ち破る。防ぎ戦ふ弟子、同宿、数十人討たれぬ。一如坊は、はふはふ六波羅へ参りて・・・・・・
(注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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<あらすじ>
源三位入道・頼政が、「夜討ち」をしょうとして未遂に終る事件!
(1) 頼政は、高倉の宮・以仁王の御前で「比叡山・延暦寺は呼びかけにも
応じないし、興福寺からは未だ返事がこない、事が遅れては勝算も
おぼつかないので、こよい六波羅へ夜討ちをかけたい」と申しでる。
やがて三井寺の僧たちの詮議が始まるが、中に平家に心を寄せる
一如坊・心海という僧が、何とか時間を引き伸ばそうと策を弄す。
(平家物語・絵巻の詞書では、”真海”と記述されている。)
(2) 乗円坊の慶秀は、「ぐずぐず長詮議など止めて、我等は門弟と共に
こよい六波羅で討死せん!」と申し、詮議を打ち切り頼政を大将軍
に、三井寺の僧兵たちと打ち出でる。
(3) しかし、高倉の宮・以仁王が寺に入られて以来、防禦のための堀を
造り逆茂木をめぐらしてあったので、先ずこれを取り外し堀に橋を
かけている内に夜が明けてしまい、六波羅へ真っ昼間に着いても戦
の勝ち目が無いと、軍勢を引き返すことになってしまったのである。
(4) 若い僧たちは、これは一如坊・心海の長詮議のせいで夜が明けてし
まったのだと怒り、その宿坊に押し寄せて散々に打ち破り数十人を
討つ。
心海は、ほうほうの態で六波羅へ逃げ失せ、事の次第を平家に報
告するのであった。
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歴史に”もし”は無いにしても、この”頼政”の”夜討ち”
の策が実行されていれば”あわや”ということが起った?
のかも知れません。
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