* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第十四句 「小教訓」(こけうくん)

2006-04-14 16:43:04 | Weblog
            (右上)大納言・成親を尋問する清盛
                縁の上の赤糸縅の鎧が筑後守平貞能
            (中央)兼康と経遠に、庭上に引き据えられる大納言・成親
     <本文の一部>
 さるほどに、小松殿善悪にさわぎ給はぬ人にて、はるかにあって車に乗り、嫡子権亮少将(平維盛)、車のしり輪に乗せたてまつり、衛府四五人、随身三人召し具して、兵一人も具し給はず、まことにおほやうげにてぞおはしける。

 車よりおり給ふところに、筑後守貞能つつと参り、「など、これほどの御大事に軍兵をば召し具せられ候はずや」と申しければ、小松殿『大事』とは天下の大事をこそ言へ、わたくしを『大事』と言ふ様やある」とのたまへば、兵仗帯したる者ども、みなそぞろ退きてぞ見えける。

 「大納言をばいづくに置かれたるやらん」とて、かしこここの障子をひきあけ、ひきあけ見給へば、ある障子のうえに、蛛手給うたるところあり。「ここやらん」とて、あけられたれば、大納言おはしけり。うつぶして目も見あげ給はず。
 大臣「いかにや」とのたまへば、そのとき目を見あげて、うれしげに思はれたりし気色、「地獄に罪人が地蔵菩薩を見たてまつるらんも、かくや」とおぼえてあはれなり。

 大納言「いかなることにて候ふやらん。憂き目にこそ遭い候へ。さてわたらせ給へば、『さりとも』と頼みまゐらせ候。平治にもすでに失すべう候ひしを、御恩をもって首をつなぎ、位正二位、官大納言にいたってすでに四十にあまり候。御恩こそ生々世々にも報じつくしがたう存じ候へ。おなじくは今度もかひなき命をたすけさせおはしませ。命だに生きて候はば、出家入道して、高野、粉河にとぢこもり、一すぢに後生菩提のつとめをいとなみ候はん」とのたまへば、小松殿「人の讒言にてぞ候ふらん。失ひたてまつるまでのことは候ふまじ。たとひさも候へ、重盛かくて候へば、御命は代りたてまつるべし」とて出でられけり。

 大臣(おとど=重盛のこと)、入道相国(清盛)の御前に参りて申されけるは、「あの大納言左右なう失はれ候はんことは、よくよく御ばからひいるべう候。先祖修理大夫顕季、白河の院に召しつかはれてよりこのかた、家にその例なき正二位の大納言にいたって、当時君の無双の御いとほしみなり。左右なう首(かうべ)を刎ねられんこと、いかがあるべう候はんや。都のほかへ出だされたらんには、こと足り候ひなん。」・・・・・・・・

                   (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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<あらすじ>
  大納言・成親がもっとも頼りにしていた多田蔵人行綱の密告によって、清盛に捕えられてしまった。兵を集め騒然としているその西八条邸へ重盛は、大臣としての公式の共揃えだけで、家来の武士たちも連れずに、しずしずと乗り込み清盛家来の筑後守貞能を叱りつけ、押し込められている部屋に行き、”地獄に仏”と命乞いする大納言成親に、「私がこうして参ったからには、命はお守りいたします」と申し上げる。

 そして清盛の前で、後白河院の無双の寵臣である大納言成親の命を軽々しくお取りするようなことは、よくよく考えてなさるべきであると、さまざまな故事の例をあげて理路整然と語り、父・清盛を諫めるのである。

 清盛も、さすがに嫡男・重盛の申し条ももっともであると思ったのか、死罪にすることを思いとどまるのであった。

  そして、清盛から命じられて、大納言・成親を庭へ引きおろし手荒な仕打ちををした難波の次郎経遠と、瀬尾の太郎兼康を叱り、二人はちゞみあがって恐れ入るのであった。