慌てて鎧の上に僧衣をつけた清盛、
その右に烏帽子直衣姿の嫡男重盛、
周りには居並ぶ一門の諸将
<本文の一部>
入道相国(清盛)、か様に人々あまたいましめおかれても、なほもやすからずや思はれけん、「仙洞(後白河院)をうらみたてまつらばや」とぞ申される。すでに赤地の錦の直垂に、白金物うちたる黒糸縅の腹巻、胸板せめて着給ふ。先年安芸守たりしとき、厳島の大明神より、霊夢をかうぶりて、うつつに賜はられたる秘蔵の手鉾の、銀にて蛭巻したる小長刀、つねに枕をはなたず立てられたるを脇にはさみ、中門の廊にこそ出でられけれ。その気色まことにあたりをはらって、ゆゆしうぞ見えける。
筑後守貞能を召す。貞能、木蘭地の直垂に緋縅の鎧着て、御前にかしこまってぞ侍ひける。「やや、貞能。このこといかが思ふ。一年、保元に平右馬助忠正(父・忠盛の弟)をはじめて、一門なかばすぎて新院(崇徳帝)の御方へ参りにき。中にも一の宮(崇徳院第一皇子・重仁親王)の御ことは、故刑部卿(父・忠盛)の養君にてわたらせ給ひしかば、かたがたに見放ちまゐらせがたかりかども、故院(鳥羽院)の御遺誡にまかせたてまつりて、御方にて先を駆けたりき。これ一つの奉公なり。」・・・・・・・・
君(後白河院)の御ために身を惜しまざること、すでに度々におよぶ。たとひ人いかに申すとも、この一門をばいかでか捨てさせ給ふべき。しかるに成親といふ無用のいたずら者、西光といふ下賤の不当人が、申すことにつかせ給ひて、この一門滅ぼすべきよし、法皇御結構こそ遺恨の次第なれ。
こののちも讒奏する者あらば、当家追罰の院宣下されんとおぼゆるぞ。朝敵となりなんのちはいかに悔ゆるとも益あるまじ。さらば世をしづめんほど、法皇をこれへ御幸なしまゐらするか、しからずは、鳥羽の北殿(離宮)へ遷したてまつらんと思ふはいかに。・・・・・・
門のうちへさし入りて見給へば、入道すでに腹巻を着給へるうへ、一門の卿相運客数十人、おもひおもひの直垂、色々の鎧着て、中門の廊に、二行に着座せられたり・・・・・
小松殿(重盛)は烏帽子直衣に大文の指貫のそばをとり、しずかに入り給ふ。ことのほかにぞ見えられける。太政入道(清盛)は遠くより見給ひて、「例の、内府(重盛)が世を表する様にふるまふものかな。陳ぜばや」っとは思はれけれども、子ながらも、内にはすでに五戒をたもち、慈悲をさきとし、外には五常を乱らず、礼儀をただしうし給ふ人なれば、あのすがたに腹巻を着てむかはんこと、さすがおもはゆく恥ずかしうや思はれけん、障子をすこし引きたてて、素絹の衣を腹巻のうへに着給ひたりけるが、胸板の金物すくしはずれて見えけるを、かくさんと、しきりに衣の胸を引きちがへ、引きちがへぞし給ひける。
(注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<あらすじ>
清盛は、多数の人々を捕えてもなお、憤懣おさまらず、陰で糸を引く後白河院に
思い知らせたいと考える。
これまでの平家一門のご奉公を見捨てゝ、成親などという碌でもない馬鹿者や、西光法師という無法者の言に引きずられて、平家を滅ぼす企てに後白河法皇が加わったことは誠に無念だ!
もし平家追討の院宣が下されて、朝敵の汚名を着てしまってからでは取り返しがつかない。だから、この企てを鎮めるまでの間、法皇を、この邸にお出でいただくか、鳥羽の離宮へ幽閉しよう。そうなれば院の御所の北面の武士たちの抵抗もあるだろうから、戦の支度をせよ! 筑後守貞能に命じ、西八條邸は戦さ支度の武士たちであふれ、ものものしい有様であった。
ことの次第を聞いた重盛は、わざと参内用の雅な支度に大きい紋様の袴を着けて、騒然とした西八條邸に向かい、静かに入ってゆく。それを陰から見た清盛は、さすがに恥ずかしく思い、鎧の上から絹の僧衣をはおって胸をかき合わせるのであった。
こゝで重盛は、父・清盛が太政大臣で、しかも出家の身でありながら甲冑をつけ、ましてや上皇を押し籠めることを考えるなど、これまでの朝廷の御恩を思えば”もってのほか”!のことであると、涙ながらに切々と訴え諫めるのであった。
並み居る一門の諸将も、重盛の命を賭しての諫言にみな涙するのである。
頭に血が上っていた、清盛も、さすがに憑き物がおちたように鎧を脱ぎ、僧衣に袈裟をうちかけて、心にも無い?念仏読誦をはじめるのであった。
平家物語では、清盛は「悪者」、嫡男の重盛は、つねに
「沈着冷静な温厚な貴公子」として描かれるが・・・・
慈円の愚管抄の記述:「コノ小松内府ハイミジク
心ウルハシクシテ・・云々」ともある。
でも最近は、理屈っぽい「重盛」より、あわてゝ鎧の上のから
はおった僧衣の胸を掻き合わせる「清盛」の方が、何となく
憎めないと、人気上昇とか?
その右に烏帽子直衣姿の嫡男重盛、
周りには居並ぶ一門の諸将
<本文の一部>
入道相国(清盛)、か様に人々あまたいましめおかれても、なほもやすからずや思はれけん、「仙洞(後白河院)をうらみたてまつらばや」とぞ申される。すでに赤地の錦の直垂に、白金物うちたる黒糸縅の腹巻、胸板せめて着給ふ。先年安芸守たりしとき、厳島の大明神より、霊夢をかうぶりて、うつつに賜はられたる秘蔵の手鉾の、銀にて蛭巻したる小長刀、つねに枕をはなたず立てられたるを脇にはさみ、中門の廊にこそ出でられけれ。その気色まことにあたりをはらって、ゆゆしうぞ見えける。
筑後守貞能を召す。貞能、木蘭地の直垂に緋縅の鎧着て、御前にかしこまってぞ侍ひける。「やや、貞能。このこといかが思ふ。一年、保元に平右馬助忠正(父・忠盛の弟)をはじめて、一門なかばすぎて新院(崇徳帝)の御方へ参りにき。中にも一の宮(崇徳院第一皇子・重仁親王)の御ことは、故刑部卿(父・忠盛)の養君にてわたらせ給ひしかば、かたがたに見放ちまゐらせがたかりかども、故院(鳥羽院)の御遺誡にまかせたてまつりて、御方にて先を駆けたりき。これ一つの奉公なり。」・・・・・・・・
君(後白河院)の御ために身を惜しまざること、すでに度々におよぶ。たとひ人いかに申すとも、この一門をばいかでか捨てさせ給ふべき。しかるに成親といふ無用のいたずら者、西光といふ下賤の不当人が、申すことにつかせ給ひて、この一門滅ぼすべきよし、法皇御結構こそ遺恨の次第なれ。
こののちも讒奏する者あらば、当家追罰の院宣下されんとおぼゆるぞ。朝敵となりなんのちはいかに悔ゆるとも益あるまじ。さらば世をしづめんほど、法皇をこれへ御幸なしまゐらするか、しからずは、鳥羽の北殿(離宮)へ遷したてまつらんと思ふはいかに。・・・・・・
門のうちへさし入りて見給へば、入道すでに腹巻を着給へるうへ、一門の卿相運客数十人、おもひおもひの直垂、色々の鎧着て、中門の廊に、二行に着座せられたり・・・・・
小松殿(重盛)は烏帽子直衣に大文の指貫のそばをとり、しずかに入り給ふ。ことのほかにぞ見えられける。太政入道(清盛)は遠くより見給ひて、「例の、内府(重盛)が世を表する様にふるまふものかな。陳ぜばや」っとは思はれけれども、子ながらも、内にはすでに五戒をたもち、慈悲をさきとし、外には五常を乱らず、礼儀をただしうし給ふ人なれば、あのすがたに腹巻を着てむかはんこと、さすがおもはゆく恥ずかしうや思はれけん、障子をすこし引きたてて、素絹の衣を腹巻のうへに着給ひたりけるが、胸板の金物すくしはずれて見えけるを、かくさんと、しきりに衣の胸を引きちがへ、引きちがへぞし給ひける。
(注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<あらすじ>
清盛は、多数の人々を捕えてもなお、憤懣おさまらず、陰で糸を引く後白河院に
思い知らせたいと考える。
これまでの平家一門のご奉公を見捨てゝ、成親などという碌でもない馬鹿者や、西光法師という無法者の言に引きずられて、平家を滅ぼす企てに後白河法皇が加わったことは誠に無念だ!
もし平家追討の院宣が下されて、朝敵の汚名を着てしまってからでは取り返しがつかない。だから、この企てを鎮めるまでの間、法皇を、この邸にお出でいただくか、鳥羽の離宮へ幽閉しよう。そうなれば院の御所の北面の武士たちの抵抗もあるだろうから、戦の支度をせよ! 筑後守貞能に命じ、西八條邸は戦さ支度の武士たちであふれ、ものものしい有様であった。
ことの次第を聞いた重盛は、わざと参内用の雅な支度に大きい紋様の袴を着けて、騒然とした西八條邸に向かい、静かに入ってゆく。それを陰から見た清盛は、さすがに恥ずかしく思い、鎧の上から絹の僧衣をはおって胸をかき合わせるのであった。
こゝで重盛は、父・清盛が太政大臣で、しかも出家の身でありながら甲冑をつけ、ましてや上皇を押し籠めることを考えるなど、これまでの朝廷の御恩を思えば”もってのほか”!のことであると、涙ながらに切々と訴え諫めるのであった。
並み居る一門の諸将も、重盛の命を賭しての諫言にみな涙するのである。
頭に血が上っていた、清盛も、さすがに憑き物がおちたように鎧を脱ぎ、僧衣に袈裟をうちかけて、心にも無い?念仏読誦をはじめるのであった。
平家物語では、清盛は「悪者」、嫡男の重盛は、つねに
「沈着冷静な温厚な貴公子」として描かれるが・・・・
慈円の愚管抄の記述:「コノ小松内府ハイミジク
心ウルハシクシテ・・云々」ともある。
でも最近は、理屈っぽい「重盛」より、あわてゝ鎧の上のから
はおった僧衣の胸を掻き合わせる「清盛」の方が、何となく
憎めないと、人気上昇とか?