* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第十二句 「明雲帰山」(めいうんきざん)

2006-04-05 15:39:52 | Weblog
            奪還、帰山をためらう「明雲」に「祐慶法師」は叱り励ます

     <本文の一部>
 山門には、大衆、大講堂の庭に三塔会合して僉議しけるは、「そもそも伝教、慈覚、智証大師、義真和尚よりこのかた、天台座主はじまりて五十五代にいたるまで、いまだ流罪の例を聞かず。つらつら事の心を案ずるに、延暦十三年(794)十月に皇帝(桓武天皇)は帝都をたて(平安遷都)、大師は当山によぢのぼり、四明の教法をひろめ給ひしよりこのかた、五障の女人あと絶えて(女人の出入りを禁じた)三千の浄侶居を占めたり。峰には一乗(法華経)読誦年ふりて麓には七社の霊験日あらたなり。・・・・・・・

 「その儀ならば、行きむかって貫首(明雲)をうばひたてまつれや」と言ふほどこそあれ、雲霞のごとく発向す。あるいは志賀、辛崎の浜路に歩みつづきける大衆もあり、あるいは山田、矢橋の湖上に舟おし出だす衆徒もあり。
 おもひおもひ、心々にむかひければ、きびしかりつる領送使(流人を配所に護送する役人)、座主をば国分寺に捨ておきたてまつり、われ先にと逃げさりぬ。・・・・

 ここに西塔の法師、戒浄坊の阿闍梨祐慶といふ悪僧(剛強の者という意)あり・・・・

 先座主の御前にづんと参り、大の眼にてしばしにらまへて申しけるは、「あっぱれ、不覚の仰せどもかな。その御心にてこそ、かかる御目にもあはさせ給へ。とくとく召され候へ」と申しければ、先座主あまりのおそろしさににや、いそぎ乗り給ふ。大衆取り得たてまつるうれしさに、いやしき法師、童にはあらねども、修学者たち、をめき叫んで舁いて、輿の轅(ながえ)も、長刀の柄も、くだけよと取るままに、さしもさがしき東坂本を、平地を歩ぶがごとくなり。

            (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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 天台座主・明雲が、流罪に処せられ配所に護送される途中を、多数の大衆たちが奪い返しに押しかけたため、護送の役人たちは明雲を近江・国分寺に置いたまゝ逃げてしまうのであった。

 明雲は僧たちに向かい、「身にあやまることの無い私が、無実の罪で遠流をうけるのは、前世の宿業である、皆の気持ちは有難いが”勅勘”の身であるから、このまま急いで山に帰りなさい」と諭すのである。

 西塔の祐慶法師は、ためらう明雲先座主に「そんな弱いお気持ちだからこんな目に遭はれるのです。早くお乗りなさい!」と叱り促す。

 明雲は、その勢いにおそれて輿に乗ると、喜び勇んだ大衆たちは物凄い速さで比叡山延暦寺へと駆け上り帰山してしまうのであった。

 
       ”祐慶法師”は、勅勘の流人を奪回したことの首謀者として、たとえ
       牢獄に繋がれようと、流罪になろうと斬首されようと、この世の
       面目、冥途の土産であると、涙を流すのである。