* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第十七句 「成親流罪・少将流罪」

2006-04-23 14:47:17 | Weblog
         ”備中の児島”に流される、鳥羽で粗末な屋形船に乗せられる大納言・成親

               <本文の一部>
 同じき六月二日、大納言をば、公卿の座へ出だしたてまつて、御物したてて参らせたれども、御覧じもいれず。見まはし給へば、前後に兵みちみちたり。
我が方様の者は一人も見えず。
 やがて車を寄せて、「とくとく」と申せば大納言、心ならず乗り給ふ。ただ身にそふものとては、つきせぬ涙ばかりなり。朱雀を南へ行けば、大内山をも今はよそにぞ見給ひける。・・・・・・

 「たとひ重科をかうぶって遠国へ行く者も、ひと一両人はそへぬ様やある」と、車のうちにてかきくどき、泣き給へば、近う侍ふ武者ども、みな鎧の袖をぞぬらしける。・・・・・

 同じき三日、大物の浦に「京より御使あり」とひしめきけり。大納言、「ここにて失へとや」と聞き給へば、さはなくして、「吉備の児島へ流さるべし」となり。・・・・・

 大納言一人にも限らず、か様にいましめらるる輩おほかりけり。近江の中将入道、筑前の国。山城守基兼、出雲の国。式部大輔章綱、隠岐の国。宗判官信房、土佐の国。平判官資行、美作の国。次第に配所をさだめらる。・・・・・

 六月二十二日、福原へ下りつき給ひければ入道、瀬尾の太郎兼康に仰せて、少将(成経)は備中(岡山)の瀬尾へ下されけり。兼康、宰相(成経の舅・教盛)のかへり聞き給はんところをおそれて、道の程様々にいたはりなぐさめたてまつる。されど少将は一向仏の御名となえて、父のことをぞ祈られける。

                      (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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  <あらすじ>

 治承元年(1177)六月二日、供の者ひとりもつけられず配所への道すがら、皇居をはるかに涙ながらに引かれてゆく大納言・成親、舟へ乗せられる前に自分の縁のある者に伝えておきたいことがあると、警護の難波の経遠 に告げ、経遠が辺りを探し回るが誰ひとり名乗りでる者もいない有様であった。

 大納言・成親ばかりでなく、近江の中将入道や山城守・基兼、式部大輔・章綱、宗判官・信房、新平判官・資行などがそれぞれ、筑紫の国(福岡)、出雲の国(島根)、隠岐の国(島根)、土佐の国(高知)、美作(みまさか)の国(岡山)など等へ次々と配流先が決められていった。

 その内に、福原(神戸)にいた清盛は、弟の教盛に対し、「急いで福原へ少将・成経を出頭させるよう」命じ、結局、瀬尾の太郎兼康に命じて成経を備中(岡山南部)に流してしまう。

 成経は、父・成親の配所(有木の別所)が自分の居るところから近いことを知って、瀬尾の太郎に「父の配所までどのくらいの道のりか」を尋ねるが、太郎は、本当のことを知らせてはまずいと思って、「これより十二三日の道にて候」と答える。

 成経は、「十二・三日とは、九州へ行くのと同じことではないか、自分に本当のことを知らせまいとして云うのであろう」と、以後は聞くことをしなかったという。

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<藤原成親・賞罰の変遷>

 (1) 平治元年(1159)、藤原信頼に加担して死罪になるべきところを
    平重盛の助命嘆願によって免職だけで、命が助かる。

 (2) 永暦二年(1161)、平時忠が高倉帝擁立運動で罪をうけたとき、
    連座して右中将を免職。

 (3) 嘉応元年(1169)、神人との争いで比叡山に訴えられ、権中納言
    を免職され、備中(岡山)へ流罪となったが、途中で赦免。

 (4) 嘉応二年(1170)、比叡山の更なる訴えで、右衛門督を免職。

 (5) 治承元年(1177)、鹿ケ谷の陰謀発覚で、備中(岡山)へ流罪。


       そして、このあと 清盛 の命で”惨殺”されてしまう。