台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

萬華 豊川稲荷

2010-01-11 11:07:06 | 豊川稲荷

華西街夜市への入口

遊廓跡

豊川稲荷が建立された場所

当時の萬華花街の地図

阿猜嬤 懐舊生活館

 台湾において繁栄していた代表的な場所について、「一府、二鹿、三艋」という言い方をする。これは清代に栄えていた3つの都市を表し、「府」とは台南府のこと、「鹿」とは鹿港のこと、「艋」は艋舺のことを指す。艋舺は後には萬華とも書かれる。日本による統治政策が開始されると官公庁舎・道路・鉄道・港湾などが次々と建設された。これらの基盤産業の開発にいち早く商機を見出し、日本からの投資が増え、これに伴い日本からの労働者が大量に流入した。これらの労働者目当ての料亭や遊廓が内地人によって続々と建てられ、また芸妓や娼婦も日本から送り込まれた。そして、艋舺は一大花街の様相を呈するようになった。ちょうど下記写真(阿猜嬤 懐舊生活館による)に掲載されている場所が花街一帯が艋舺遊廓であった。
 正確には不明であるが領台直後の明治33年頃、萬華にある龍山寺内に豊川稲荷が祀られた。言うまでもなく、豊川稲荷は愛知県豊川市豊川町1番地にある曹洞宗の寺院を指し、「稲荷」と称するが神社ではない。本尊は千手観音。「稲荷」は鎮守として祀られる荼枳尼天(だきにてん)のことである。
 記録によると艋舺龍山寺に安置してあった豊川稲荷の分霊は明治35年4月17日に粟倉口街(現在の桂林路、華西街、環河南街一帯)に遷座した。場所的には現在の環河南路2段35巷前の道路辺りの真ん中であった。旧地図で言うと有明町四丁目(現在の華西街)から萬華検蕃事務所横の小道入って護岸堤防にに向かって行ってぶつかった所である。
 なお、艋舺の簡単な歴史を知ろうと思う方々は甘いデザートで有名な台北市萬華區華西街5号の阿猜嬤 懐舊生活館を尋ねるとよい。店内には萬華の古い写真が展示されている。

台北市にはもう一箇所豊川稲荷が祀られた場所がある。この紹介は別途ブログでおこなうことにした。
コメント (8)
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