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台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

新竹州 (竹東郡蕃地) シャカロ祠

2010-07-02 23:27:53 | 新竹州
   
石鹿派出所裏に神社があった   当時の石鹿派出所である
 

シヤカロ(霞喀羅)はWurauとも呼ばれ、タイヤル族語で土壌が泥状で砂状の意味である。この地は為政者である台湾総督府にとってシヤカロ群最大のであるミケラカ(木喀拉卡)や対岸のテントン(天同)を一望に見渡すことが出来る戦略的な場所であり、シヤカロ駐在所のあった所でもある。光復後は石鹿と呼ばれるようになったが、日本統治時代の悲劇の場所でもあった。
大正6年と9年の2度に渡り、原住民による暴動、いわゆる「シヤカロ事件」が発生した。第5代佐久間佐馬太総督が大正2年に実施した「理蕃政策5ヶ年計画」により、当時の桃園廳下の蕃地に対する掃討作戦も行われた。シヤカロ群族は完全に警察の監視・管理下に置かれた。シヤカロ群族が狩猟に使用する銃砲や弾薬が取り上げられ、必要に応じて駐在所の警察が貸し出す方式がとられた。これはシヤカロ群族にとっては死活問題であった。このような状況がシヤカロ事件の背景にはあった。この事件で駐在所に勤務する警官が殺害され、また銃砲や弾薬が奪われた。このことは台湾総督府を震撼させるものであり、新竹州よりおびただしい警察および警官の出動とシヤカロ群への討伐が開始された。またいわゆる味方蕃を利用して同じ部族を戦わせるなどの方策もとられた。同時に大正10年に大砲や物資の輸送のため起伏の少ない理蕃道路として「シヤカロ警備道路」および「サカヤチン(薩克亜金)警備道路」が建設された。これらの理蕃道路沿いには13箇所の駐在所が配置され、有事に備えた厳しい管理・防衛・攻撃体制が引かれた。シヤカロ事件以降台湾総督府はこの地域に相当数の軍隊・警官を投入し、最終的にこの地域のシヤカロ郡族を含むタイヤル族を降伏させるのに11年を要したそうだ。
このシャカロにも神社が建立された。この場所に辿りつくには苗栗県泰安郷にある泰安温泉から霞喀羅古道に入る山道を登らなければならない。車でも約一時間ほどかかるので、十分準備をして登山プランを立てて欲しい。
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