台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

台中州 (能高郡蕃社)  鹿島神社

2010-07-09 22:51:07 | 台中州

鹿島神社はこの水徳宮の場所に建立された

今なお水をたたえる武界ダムである

 第一次世界大戦後の物価および賃金の上昇により、発電所建設に伴う設備のありとあらゆる資材が高騰した。また、関東大震災もあり、結果として日月潭発電所着工3年目の大正12年(1923年)12月に上山総督が正式に工事打ち切りを声明せざるを得なくなった。日月潭の工事の再開の見通しが立ったのは昭和6年(1931年)であり、川村総督が再興具体策を帝国議会に提出し、条件付ではあったが通過した。その後日本国内においては政権の変化があり、石塚総督が新しく就任する。石塚総督と松木新台湾電力株式会社社長の懸命な努力により拓務および大蔵などの関係当局と折衝の上、資金調達も決まり、工事が再開されたのは昭和6年(1931年)10月1日であった。
 この工事は担当箇所により、第一工区から第七工区に分けられた。第一工区(武界ダム、放水路3本、2,000メートル隧道、4,000メートル隧道上半分)および第三工区(4,000メートル隧道下半分、2,000メートル隧道)は鹿島組が入札の結果決まった。
 当事の作業環境は最悪を極めていた。工事現場と言っても全く未開の地に等しかった。特に熱帯雨林地域の台湾中部はマラリヤの発生で環境に慣れぬ内地人は瞬く間にマラリヤに感染し、数多くが亡くなった。このダム工事現場だけでも鹿島組診療所、マラリヤ研究所の病院、台湾電力の病院も含めて五ヶ所の病院があり、マラリヤ患者の治療やアミーバ赤痢、ガムシなどの被害の治療にあたった。鹿島組事務所を置く東埔(とうほ)から第1工区の武界までは「辞職峠」と呼ばれる程の急峻であり、海抜1,360メートルの峠越え徒歩4時間を、枝から垂れ下がる様々な毒蛇を杖で払いながら進む。1年後には資材輸送用架空索道(ケーブル)が設けられた。さまざまな困難を乗り越えて延べ30万人が従事した日月潭発電所工事は、予定工期を3ヶ月残して無事終わった。
 工事着工一年後と言えどもまだまだ死と向き合わせの環境の中で工事の安全と神の守護を求めて、鹿島神社は昭和7年(1932年)5月2日に能高神社の神霊を干卓蕃山頂に移祭した。そして同年の9月2日に鎮座式が行なわれた。当時の台湾日日新報には日月潭電力工事第一工区武界の鹿島組が北堤守護神としてダムと放水路の間の小高い山頂に鹿島神社を建立したとある。
 工事竣工後、鹿島神社の石段と壁は修復された。光復後、神社は取壊され水徳宮が建立された。

この鹿島神社には「台湾電力株式会社発展史」の著者である林炳炎さんの御好意で訪問することが出来ました。この場を借りて改めて御礼申し上げます。なお、下記同氏のブログには鹿島神社の旧景が掲載されているので参照ください。

http://pylin.kaishao.idv.tw/?p=291
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