台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

台中州 霧ヶ岡社

2008-11-08 21:04:03 | 台中州




霧ヶ岡社は碧湖を見渡す高台に南向きに建立された。光復後、孔子廟に建て替えられ、その後徳龍宮となっているが多くの松の木と杉の木は神社があったことを示すものである。参道入口には不完全な朱色の鳥居が残っており、石段の両際および境内には極彩色に色どられた石燈籠の一部が残されている。
ここは昭和5年(1930年)10月27日に当時の台中州能高郡霧社(現在の南投県仁愛郷)に起きた日本統治時代最大の原住民の蜂起による霧社事件が発生した場所でもある。
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台中州 竹山神社

2008-11-08 20:56:30 | 台中州




南投県竹山鎮公所の裏に竹山公園内にあり、南投県の山々や清水渓の景色が一望に見渡せる場所がある。この場所に竹山神社が建立された。崖沿いに9基の石燈籠と一対の狛犬のほか、大きめの2基の石燈籠が残っていた。921(1999年、9月21日)台湾大地震までは残っていたという社務所は残念ながら見ることは出来なかった。ただ、社務所の前にあったと思われる石燈籠の下の部分のみが残っており、花鉢が置かれていた。
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台中州 日月潭玉島社

2008-11-08 11:40:32 | 台中州
日月潭玉島社はこの日月潭の中ほどにある島に西向きに建立された。そもそもこの島はツオ(邵)族の旧居住地であり、ツオ族の最も神聖な祖霊の宿る地でもあった。ツオ族語ではLaruと呼ばれていた。日本統治時代には玉島と名づけ、日月潭水力発電の工事が順調に進められるように祈願するために、島に玉女女神「市杵島姫命」を祀り「玉島社」と名づけた。 光復後は「光華島」と名づけられたが1999年の「921大震災」後、南投県庁がツオ族に敬意を表すため、光華島を正式に拉魯Laru(拉魯)島と名づけた。
もともとはかなり大きな島で、ツオ族の人々が住んでいたと言われている。しかしながら、水里に台湾電力株式会社が水力発電所を造営した際、日月潭をダムとして利用することとなったために水かさが増し、島は小さくなり、そして「921大震災」の大震災でさらに小さくなってしまい、現在はわずかに山頂部が残るだけとなっている。
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台中州 豊原神社

2008-11-08 11:34:39 | 台中州
豊原神社は台中豊原市南陽国民小学校内のグランド場のそばにあった。南陽国民小学が昭和18年(1943年)に瑞穗國校千秋分教場として創立され、同年に瑞穗國校千秋分教場として分離した。その後、豐原第四國民學校となり、現在の名前に変わったのは1946年6月である。
校庭奥には基の石燈籠が完全な形で残っていた。残念ながら石燈籠には当時の歴史を示す記述は消されて見ることが出来ない。
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