黄昏叔父さんの独り言

 アマチュア無線と何でも有りのブログ

学生時代の頃

2012年10月22日 22時26分52秒 | 日記

 先日、開局当時の事を思い出しながらブログを書いたが開局時期が間違っている可能性を感じたので古い免許証を探し出し確認すると電話級が昭和41年5月25日、電信級が42年1月7日付の交付に成っている。やはり個人局の開局は高校三年生の夏休み中の8月15日に間違いが無い様である。(開局日が終戦記念日だった事はハッキリ記憶していた。)少し疑問を感じたのは この時期の開局とすると学生時代に個人局を運用したのは約7ヶ月しか無く、その割にはアマチュア無線を謳歌した思い出が有るので其の様な短期間で色々と行えたのか?疑問があったからである。



 とにかく無線部に入部してからは勉強はした記憶がない、アマチュア無線の国試に合格する為の勉強はした記憶が有るが自慢には成らないが他の専門科目は試験前の一夜漬け専門、当然ながら成績は並、低空飛行の連続で有った。ただ当たり前の事だが授業は人並み以上に熱心に聴く方で有ったと思う。ただ同級生は90人位居たが「どうしても電気科に行き電気を勉強したいとかアマチュア無線を遣りたいので電気を勉強する、電気しか考え無かった」との気概を持って入学して来た生徒は少なかった様に思う。(気概を持って居たが其れが表面に出なかったのかもしれないが)

 

 その中で樫福君(JA5BRN)と栗本君は(JA5CBA)特別な存在で有った。その他にオーディオ・アンプを弄る組みが2~3人いた様だが其れ以外は電気を勉強の対象と捉えても真空管で回路を組む様な連中は少なかった様に思う。2年生から実習が始まり5~6人のグループに分かれて行うのだがグループ分けは出席順でしかも「あいうえお」順に成るので3人は同じグループで喧々諤々で大変楽しかった。

 

 3年生に成ると其々の自分のやりたい課題や就職に関係ある課題に取組み其々、個人課題に取組んだ。樫福君は就職先から与えられたマルチバイブレーダに取組んで居たが時々徳島県で初めて出来た無響室(音の反射が無い部屋)に閉じ篭り催眠術の研究をしたり心理学的な事に興味が有ったようだ。栗本君は無線通信関係の会社に行ったのでアンテナ関係に取組み屋上を走り回っていた。そして彼だけは柔道部にも在籍し確り汗を流して体を鍛えていた。

 

 私はテレビとラジオを生産する会社に内定していたので白黒テレビの廃品倉庫に入浸りテレビの構造や回路動作に付いて取り組んでいた。授業以外の昼休みや放課後は無線室に直行しマイクの取合いをしていた事が懐かしい。樫福君は就職後、自分で自動制御の会社を設立し社長に、栗本君は無線通信の会社に就職後、大学に進み、学校の先生に成ったと聞く、其の意味では私が一番落ちこぼれと言えよう。



 私の場合、成績から言っても一流企業を受ける資格も無かったし中堅か三流クラスの会社が分相応と思っていたし入れば学業に關係なく人並みに遣って行くだけの自信は不思議と有った。



 私が今、学生時代を振返ると学校行事での思い出など殆ど思い出せない、唯一、ハッキリ思い出すのは東京への修学旅行の自由行動の日に例の三人組で秋葉原の電気街を見学に行った事、まだまだトランジスターの時代では無く屋台で真空管を売っていた事を思い出す事くらい。学生時代は「無線三昧」で過ごした。とにかく思い出すのはアマチュア無線の事ばかりである。