黄昏叔父さんの独り言

 アマチュア無線と何でも有りのブログ

四国霊場八十八箇所 第20番札所「鶴林寺」

2019年02月28日 21時37分17秒 | 四国88箇所霊場

        


    鶴林寺の歴史・由来


 第20番札所「鶴林寺」は徳島県勝浦町の標高550メートルの鷲が尾の山頂にあり、遠く紀州や淡路の山峰、遥かに太平洋を眺望出来る風光明媚な霊山が境内である。此の付近には樹齢千年を越すような老杉、檜や松の巨木が参道を覆っており、寺門は静かな参道に建ち其の姿は隆盛の面影をしのばせる。寺伝に寄ると延暦17年、桓武天皇(在位781?~806)の勅願に寄り、弘法大師に寄って開創された。大師が此の山で修行して居た時、雌雄二羽の白鳥が、かわるがわる翼を広げて老杉のこずえに舞い降り、小さな黄金のお地蔵さんを守護して居た。此の情景を見て歓喜した大師は、近くにあった霊木で高さ90センチ程の地蔵菩薩像を彫造し、其の胎内に5.5センチくらいの黄金の地蔵さんを納めて本尊とし、寺名を「鶴林寺」にしたという。


 また此の寺の境内の山容がインドで釈迦が説法をしたと伝えられる霊鷲山に似ている事から、山号は「霊鷲山」と定められた。以来、次の平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇と歴代天皇の帰依が篤く、また源頼朝、や義経、三次長治、蜂須賀家政など武将にも深く信仰されて、七堂伽藍の修築や寺領の寄進を受けるなど寺運は大きく栄えた。阿波一体の寺が兵火に遭遇した「天正の兵火」にも山頂の難所に寺があった為か此の難を免れている。




                


 此の「鶴林寺」は我家から可也近く山の麓までは車で8分程の距離に在り年に1~2回は必ず訪れるが険しい山道を登り駐車場で車を降りると200メートルの歩きが有るが途中の山門をくぐると境内は綺麗に掃き清められ然も辺りの凛とした空気に触れると自然に心が清められる感じに成り私の好きな場所である。此の「鶴林寺」と次の札所の「太龍寺」は何時も身近に感じながらもお遍路として納経に改めて訪れたのは初めての事であった。     

四国八十八箇所霊場 第19番札所「立江寺」

2019年02月28日 15時19分15秒 | 四国88箇所霊場

        


  立江寺の歴史・由来


 立江寺は高野山真言宗の別格本山「四国の総関所」として四国八十八箇所の根本道場といわれ、また「阿波の関所」としても知られている。縁起に寄ると聖武天皇(在位724~49)の勅願で行基菩薩に寄って創建された。勅命に寄り行基菩薩が光明皇后の安産を祈るため、念持仏として5.5
センチ程の小さな黄金の「子安の地蔵さん」を彫造した。此れを「延命地蔵菩薩」と名付けて本尊にし、堂塔を建立したと伝えられて居る。弘仁6年(815)弘法大師が此の寺を訪れ此のご本尊を拝した時、大師は余りにも小さなご本尊なので、後世に成って失われる恐れが有ると、自ら一刀三礼をして新たに1.9メートルある大きな延命地蔵像を彫造され、其の胎内に行基菩薩が彫ったご本尊を納められた。此の時に寺名を「立江寺」と号した。当時の寺は現在地より西へ400メートル程の山寄りの景勝地にあって七堂伽藍を備えた巨刹で在ったと言われて居る。


 此の立江寺も「天正の兵火」を逃れられず、壊滅的な打撃を受けた。だが本尊だけは奇しくも難を免れている。阿波藩初代藩主・蜂須賀家政公の篤い帰依を受け現在の地に移って再建された。また昭和49年の祝融の災いにもご本尊は救い出されている。昭和52年に再建された本堂の格天井画(286枚)は、東京芸術大学の教授に寄り花鳥風月などが描かれて居り、観音堂の絵天井とともに昭和の日本画を代表する文化財と高く評価されて居る。寺伝の「釈迦三尊図」は国の重要文化財指定品で邪悪な心を裁く関所寺の半面、「子安の地蔵」「立江の地蔵さん」と親しまれ今日に至って居る格式高い寺と成って居る。


 此の立江寺のある立江町は近在では珍しい門前町で毎年2月の後半(今年は23~25日)に開かれる初会式・大植木市は近在の行事としては最大の物で私の実家からは4Kmも離れて居たが小さい子供が此の距離を厭わず100円札を握り締め行きは「何を買おうか?」の楽しみで意気揚々なのだが目的を達した後の帰り道は疲れて長かった事など、懐かしい思い出が沢山残って居る。当時(昭和30年頃か?)は余り楽しみの無い時代であったが人家が無い山際の田んぼ道を通り立江寺に入る数百メートル手前から今は余り見ることの無い「芋飴」「板飴」の露店が沢山並び、他に玩具の露店や、覗き窓や、大きい球状の網の中でオートバイの曲芸が行われたりして大変賑わって居た。此の歳に成っても其の時以上の露店の賑わいを見る事は無く、子供にも大人にも此の「立江のお地蔵さん」は当時では一大イベントであった。



        


 其の後の火災で立江寺の境内の様子は私が子供の頃の立江寺の印象とは少し違うが幼児の頃に婆さんに手を引かれて写真の山門を潜った時に「賢い子にしていなかったら仁王さんに怒って貰うよ!」と言われ顔を覗き込んで其の怖さにビビッテ仕舞った事や少し改修されたのか?綺麗に成った多宝堂だけは昔と同じ場所に在り小さい頃に見た印象と一致して居た。然し当然と言えば当然だが此の頃の懐かしい思い出は立江寺に行く事では無く、非常に賑やかだった露店での楽しい買い物の思い出である。



        

四国八十八箇所霊場 第18番札所「恩山寺」

2019年02月28日 10時23分08秒 | 四国88箇所霊場

          


   恩山寺の歴史・由来


 恩山寺は小松島市郊外の小高い山の樹林が心地良い、県指定の風致地区にある。縁起を辿ると、創建は聖武天皇(在位724~49)の勅願に寄り、行基菩薩が草創して、当時は「大日山福生院密厳寺」と号した。本尊は行基菩薩が薬師如来像を彫造して安置し、災厄悪疫を救う女人禁制の道場であった。当時、十九番霊場に向かって下る「花折り坂」と云う坂から上には、女性が入る事は許されて居なかった。延暦年間になって、弘法大師が此の寺で修行して居た頃、大師の生母・玉依御前が讃岐の善通寺から尋ねて来た。だが寺は女人禁制、大師は山門近くの瀧にうたれて17日間の秘法を修し、女人解禁の祈願を成就して母君を迎える事が出来た。やがて母君は剃髪をして、其の髪を奉納されたので、大師は山号寺名を「母養山恩山寺」と改め自像を彫造して安置され「我が願いは末世薄福の衆生の難厄を除かん」と誓われた。弘仁5年(814)頃の事と伝えられて居る。


 寺は「天正の兵火」で焼失して居るが、江戸時代に成って阿波藩主の庇護を受けて繁栄し、現在の本堂や大師堂は文化・文政年間(1804~30)頃に建立された由緒ある建造物で、境内には玉依御前を祀る小堂があり、母君に孝養をつくして、大師が植樹した「びらんじゅ」は県の天然記念物に成って居る。


 第13番札所の「大日寺」から第17番札所の「井戸寺」までは徳島市の街中に寺院が建っていたが此の恩山寺は小松島市内の静寂な山間に在って落ちついた雰囲気の中に私達は佇む事が出来た。

四国霊場八十八箇所霊場 第17番札所「井戸寺」

2019年02月27日 18時55分00秒 | 四国88箇所霊場

        

 井戸寺の歴史・由来


 7世紀後半の白鳳時代は、清楚な日本文化が創造された時代で、律令制が漸く芽生えて、阿波の国にも国司がおかれた。此の国司に隣接して、天武天皇(在位673~86)が勅願道場として建立したのが井戸寺であり、当時の寺名は「妙照寺」であった。寺域は広く八町四方、此処に七堂伽藍の他に末寺十二坊を誇る壮大な寺院があり隆盛を極めたと伝えられて居る。本尊は、薬師瑠璃光如来を主尊とする七仏の薬師如来坐像で、聖徳大使の作と伝えられ、また脇仏の日光・月光菩薩は行基菩薩の彫造と伝えられる。後の弘仁6年(815年)に弘法大師が此れ等の尊像を拝む為に訪れた時に檜に像高1.9メートルの十一面観音像を彫って安置されて居る。此の像は右手に錫杖、左手に蓮華を挿した水瓶を持った姿形で、現在、国の重要文化財に指定されて居る。大師はまた、此の村が水不足や濁り水に悩んでいるのを哀れみ、自らの錫杖で井戸を掘ったところ、一夜にして清水が湧き出した。其処で付近を「井戸村」と名付け、寺名も「井戸寺」に改めたという。


 ただ南北朝時代以降の寺史は激変し、先ず貞治元年(1362年)、細川頼之の兵乱で堂宇を焼失し、次いで天正10年(1852年)には三次存保と長宗我部元親との戦いでも罹災して居る。本堂が再建されたのは江戸時代の万治4年(1661年)であった。七仏薬師如来は全国的にも珍しく、七難即滅、七福即生などの開運に信仰が多い。


        



                


 此の寺は付近に人家が在りながらも広大な境内に仁王門、本堂、大師堂、鐘楼堂と何れをとっても堂々とした立派な建物で此の日に訪れた札所の中では随一であった。


 此処まで第1番札所から第16番札所まで巡礼した寺の中で可也の数の寺が戦国時代に四国を統一しようとした土佐の長宗我部氏に寄って戦火に巻き込まれて寺院を含む大変貴重な文化遺産が多数焼失して仕舞って居る。戦は致し方が無いにしても寺を焼き討ちにする必要が在ったのか?私感だが仏罰が当たったのか?良い最後は迎えられなかった様である。

四国88箇所霊場 第16番札所「観音寺」

2019年02月27日 14時34分17秒 | 四国88箇所霊場

        


 四国霊場第16番札所「観音寺」此の寺の縁起によれば観音寺が弘法大師によって創建され、大師自ら千手観音像を彫造して本尊にした事、また脇像に悪魔を降伏する不動明王像、鎮護国家の毘沙門天像を刻んだ事や、阿波藩主の蜂須賀綱矩公が新築、移転に協力した事などが詳しく記されている。此の縁起とは別に、寺伝では聖武天皇(在位724~49)が天平13年、全国68箇所に国分寺・国分尼寺を創建した時に、行基菩薩に命じて勅願道場として建立した由緒ある古刹とされて居る。弘法大師が此の地を訪ねているのは弘仁7年(816年)の頃で本尊などを彫造し再興し現在の寺名を定めたとされている。


 其の後、他の阿波各地の霊場と同じ様に栄枯盛衰の運命を歩み「天正の兵火」(1573~92)にも罹災、蜂須賀家の帰依を受けて万治2年(1659年)に再建、現在に至り遍路道に面した和様重層の鐘楼門は(最初の写真)昔の面影を残し堂々とした風格がある。現在は近隣に人家が建ち並び駐車場に苦労すると思ったが直ぐ東隣に駐車場があり安心してゆっくりと納経をする事が出来た。

 失敗の埼玉県の移動運用(埼玉への旅)

2019年02月26日 20時05分49秒 | 旅行

   


 関東エリアの埼玉県からの移動運用地は最終的に児玉郡神川町(JCG-13006D)からの1町のみに終わった。此の町の運用場所を確定する為に神川町内を3時間程走り回り探したが3.5MHz帯のフル・サイズの逆Vアンテナを設置出来る場所は何箇所か見付ける事は出来たが問題は運用中(6~7時間に渡り)に発電機を使用する事や、クレームを受ける事無く安心して長時間に渡る運用可能な場所が中々見付からず最終的に「此処なら間違いは無い!」と自信を持てる運用場所を見付ける事は出来なかった。最近は皆さんが携帯電話を所持して居るので全国の色んな場所で一寸変な行動をして居ると(私の場合は一寸ではないかも?)直ぐに警察に電話が入りパトカーの御到着と成るが此の確率は其の地区の人口の多さに比例して居る様に思える。


 運用を開始する時間は刻々と迫って来る中で早く運用を開始せねばの焦りから「新宿ふれあい公園」なる場所を見付けて其の駐車場に車を停めアンテナを設営し2014年の7月22日の17:36JSTから7MHz帯で運用を開始したら直ぐに呼掛けられ始めて交信が順調に進んでいた18:16JSTに突然に男性の方が来られて「18:30には公園の出入り口を施錠せねば成らないので申し分けないが其の時間までには此処から退去を御願いします。」と私が一番恐れて居た事態と成った。(此の時間で此処での運用が出来なく成ると其れ以後に同等の運用場所が探し得られる可能性は可也低く、仮に見付かってもQRVする周波数が確保出来ない可能性すらあった。)後で解かった事だが関東エリアの公園関係は其の規模の大小に関わらず色んな事件や事故が発生すると良かれと思って開放していた公園管理側が訴えられるケースが結構在る様で自己防衛手段として夜に成ると施錠をするらしい。


 仕方が無いので直ぐにアンテナを撤去して別の運用場所を求めて其の近辺を探したが其の内に日没と成り、周囲が暗く成ると思う様に運用地を探す事が出来ずに時間切れと成り、仕方なく其の夜の安全な車中泊が可能な道の駅をカーナビで検索したら「道の駅 らんらん藤岡」が見付かりナビの指示で其の道の駅に辿り着いた。流石に首都園からは可也離れた群馬県と云えども此の道の駅の大きな駐車場は保々満車状態で明かりも一晩中こうこうと灯って居た。


 翌朝は04時前に起き出し道の駅を出発しルート254号を進み神流川に架かる大橋を渡ると直ぐに右折し堤防に沿った道を南下し始めた。何故ならカーナビで調べると此の川の西側は群馬県、東側は埼玉県で川の中央部が県境と成って居た。昨晩の失敗から此の日の神川町からの午前中の運用は失敗は出来なかったので運用場所として一番可能性のある堤防にある空き地か?河川敷にある空き地を利用し最悪の場合は手持ちの「釣り竿アンテナ」を使ってのコンパクトな運用に懸ける事にした。最初の内は堤防の方に曲がってから3~4Km辺りの空き地か自動車が対向出来るスペースを探して居たが結構車が通行して居たので安心しての運用は無理で更に先に車を進めたら河川敷を利用した野球グランドのある総合運動公園が見えて来た。「此処なら大丈夫だろう」と何時ものアンテナを準備し始めたら周りの人がジロジロ此方を見て何か言いたそうな素振りが見えたので「此れは拙い!」と判断して人が居ない端っこのゴゾ地に入り目立たない釣り竿アンテナで7MHz帯を運用した。国内コンディションも悪い上に非力なアンテナでは飛びは未だしも受信に苦労し、此の場所での交信局数は100局するのに四苦八苦して神川町での総交信数は前日と合わせ130局程で終わった。全国での運用で1箇所しか移動運用しなかった県は佐賀県(玄海町)東京都(奥多摩町)茨城県(河内町)千葉県(長生村)と埼玉県(神川町)の5箇所だが埼玉県以外は全て通常のアンテナで運用したので其々の場所で300~400局以上の交信を行ったのでワンマン WAJA達成に関し大きな問題は無かったが運用設備の悪かった埼玉県だけを落とし「ワンマン・WAJA」が達成出来なかった方が全国に2局居られる事を四国に帰って来た後のQSOで其の事を知って誠に申し訳なく思って居る。


 今思い返してみると関東エリアで運用地を最初から決めて居たのは東京都、千葉県だけで他は漠然とした構想で2014年の出発時にも「関東エリアでの運用が出来れば良いのだが・・・・」程度の思いで出発し計画性無く気分や流れの中で運用して仕舞った事が悔やまれ埼玉県と聞くと移動運用ではチクリと胸の痛む県と成って居る。

 今日は久し振りに家内と外出

2019年02月26日 16時46分34秒 | その他

       



 今日は2月26日で語呂あわせで「風呂の日」と言う事で家内の入浴料金が半額に成る事から「かもだ岬温泉に行こう!」と家内に言われて出掛けてきました。今月は家内共々に風邪を拗らせて二週間近い体調不良に陥って居た関係で殆ど外出して居なかったので今回は今月初めての「かもだ岬温泉」の入浴と成りました。


 帰りに椿川の傍を通る予定があったので此の時期(2月中旬から)の此の地の風物詩のハゼ科の一種「ヒウオ漁」が始まっている筈で其れを見学に行く事にした。「ヒウオ」は地元の呼び名で正式名は「シロウオ」と呼ばれる魚で其の漁法が特殊で大きい四角の網(白色布)を川の中に沈め其の中にシラウオが入ると中心の竹棒を引くと布の四隅が段々と先に上がり「ヒウオ」が中心に集まり布が上がり切ったら魚は中央部に集中するので其れを柄の長いひしゃく型の道具で叩いて更に中央部に集めすくい取る独特の漁法である。


 現地に到着したら川の堤防に沿って其の漁法の装置は既に並んで居たが潮目が悪かったのか?満潮時に潮に乗って「ヒウオ」が川を登って来る時しか漁は出来ない様で此の時は時間的に引き潮状態でタイミングが悪く地元の人も居ないし、網も写真の様に引き上げられた状態で残念な結果と成った。此「ヒウオ」は食通の間では「すまし汁」や「踊り喰い」は珍味とされて居る様です。


 其の後の帰りに毎年此の時期には家内の要望で必ず訪れる「明谷梅園」に立ち寄り梅の開花状況を見に行ったが開花状況は3分咲き状態か?未だ一寸早過ぎで来週くらいか?其の頃に再度訪れる事にした。


 


 


   

四国霊場八十八箇所 第15番札所「國分寺」

2019年02月25日 20時19分50秒 | 四国88箇所霊場

      


 四国霊場には四県に国分寺があり、其の最初の札所が「阿波国分寺」である。仏教に篤く帰依した聖武天皇(在位724~49)は、天平13年に国家の安穏や五穀豊穣、政教一致、地方文化の向上などを祈って、勅命に寄り全国68箇所に国分寺、国分尼寺を創建した。奈良・東大寺は其の総国分寺とも言われている。


 縁起によると、阿波国分寺には聖武天皇から釈迦如来の尊像と「大般若経」が納められ、本堂には光明皇后のご位牌厨子を奉祀されたと伝えられて居る。開基は行基菩薩で、自ら薬師如来を彫造し本尊としている。創建当時は奈良の法隆寺や薬師寺、興福寺と同じ南都の学派に属する法相宗であり、寺領は二町四方で、此処に金堂を中心に七重塔も建つ壮大な七塔伽藍が整って居たといわれている。


 弘法大師が弘仁年間(810~24)に四国霊場の開創のために巡教された際に、宗派を真言宗に改めている。其の後に「天正の兵火」に寄って境内は相当に衰微したが寛保元年(1741年)に阿波藩郡奉行、速水角五郎に寄って伽藍が再建されて以来、現在の禅宗・曹洞宗寺院となっている。


      


 私達が訪れた時は本堂の工事中で三番目の写真の仮納経所での納経となったが境内は綺麗に掃き清められて塵一つ落ちていなかったし写真の様に木々も綺麗に剪定されていた。此の寺の本堂の左右には桃山時代(1573~98)の作庭と言われる築山、泉水、枯れ山水が在るらしいが(平成12年に国の名勝に指定された)非公開で見られないのが残念で成らない。

 長く体調優れず!

2019年02月25日 16時20分50秒 | その他

   


 今月の13日頃から体調が芳しく無く、熱は無いのですが咳が止まらず、昼間は未だしも夕方や早朝の気温が低い時間帯に一度、咳が出始めると暫くは連続の咳が出て止まらず本当に大変でした。元々は其れ以前に家内の声が変わり時々咳をして居ましたが如何やら其の風邪を私が貰った様子で私が絶不良の段階では家内は元気でしたが私が直り掛けると今度は家内が再び可也ひどい咳が出始め、夫婦間で風邪の受け渡しのピンポン状態に!然も其の状態が2週間に渡り続くと気分的に参って仕舞いました。


 今日辺り家内の方は未だ本調子に戻って居ませんが私の方は昨日辺りから咳き込む回数が少なく成り風邪の方は回復に向かって居る様ですが未だ油断は出来ないので家内とは朝、昼、夕の食事時以外は其々が別々な状態で家内は二階の部屋に、私は一階で過す事にして居ます。此の間に毎日、一応無線機の電源は一度は必ず入れては見るのですが集中力も無く5分以内で電源を落とし閉局する状況の連続で此の2月16日から交信実績が途絶えて居ます。


 体調が十分で無い為に回復の為にも夜は睡眠時間を出来るだけ長く取る様に21時頃には眠る様に心掛けて居たら年寄りの習性か?朝の目覚めが段々と早く成り、仕方無しに時間潰しに本を読んで居たら今月に県立図書館から借りて来ていた本を全て読み終わりました。退職した頃から本を読むにはメガネが必要に成り、煩わしく読書からは完全に遠ざかって居ましたが最近は其れが余り苦に成る事は無く成り、最近は暇な時間帯は読書をするか?音楽を聴くか?の何れかで過す様に成り私の生活パターンも可也、様変わりして来ました。


 最近、トランプさんの中国に対する経済制裁で弱り目の「中国」まさかの時の頼み綱の日本に対しては少し対応が軟化して居る様に感じますが?中々強かな国、私の父親が(戦前、戦中に4年間、北支鉄道に勤務し多くの中国人を使って居た)生前に「中国人の頭の中には自分が儲かる事しか無く、其の為に嘘を言うのは当たり前で騙すより騙される方が悪い。考えの国民性で信義等は無く中国人だけは最後まで絶対信用出来なかった。」と言って居たが其の事は私が子供の時には解からなかったが此の歳に成って昨今の状況を考えると「正に其の通りだなぁ~」と実感する。其の中国に朝貢して居た朝鮮なのだから考えは同じで、更に始末が悪い事に此の国は問題解決に他国を上手く巻き込み(日露戦争、日韓併合、朝鮮戦争)解決すると感謝する処か手の平を返す対応に成るので一番性質が悪い。態々喧嘩はする必要は無いが儀礼的なお付き合いだけに留め、後は当たらず触らずで関わらない方が良い感じ、ロシアとて大同小異の国である事は間違い無い様だ。


 

 四国88箇所霊場 第14番札所「常楽寺」

2019年02月24日 14時57分33秒 | 四国88箇所霊場

            


 四国霊場第14番札所の「常楽寺」は四国霊場の中で唯一、弥勒菩薩を本尊として居る。弥勒菩薩は56億7千万年の後まで、衆生の救済を考え続けて出現するといわれる未来仏である。特に京都・広隆寺の国宝で、片膝を立てて頬を右手で支えて考えて居るお姿の弥勒像は、其の優しいお顔の表情が美しく、お大師様とともに光明を授けてくれる様な仏といえよう。


 此の寺の縁起では、弘法大師が42歳の厄年の頃、此の地で真言の秘法を修行して居た時に、多くの菩薩を従えて化身した弥勒さまが来迎されたという。大師は直ぐに感得し、そばの霊木に其の尊像を彫造し、堂宇を建立して本尊にした。此の本尊について大師は、御遺告の一説に「吾れ閉眼の後、兜率天に往生し弥勒慈尊の御前に侍すべし、56億余の後、必ず慈尊と御共に下生し、吾が先跡を問うべし・・・」と触れられて居る事からも、常楽寺への篤い思いが偲ばれる。


 後に大師の甥・真然僧正が金堂を建て、また高野山の再興で知られる祈親上人に寄って講堂や三重の塔、仁王門などが建立されて七堂伽藍がそびえる大寺院となった。室町時代には阿波守護大名の祈願所にも成って居るが「天正の兵火」により焼失して居る。だが江戸時代初期には復興、後期の文化15年(1818年)に低地の谷地から石段を約50段のぼった現在地の「流水岩の庭」近くに移っている。本堂前の境内は奇形な岩盤の断層が重なる「流水岩の庭」があり他には無い様式で自然な美しさに溶け込む魅力を醸し出していた。


 私達は此の日は第13番札所「大日寺」を出て鮎喰川南岸に沿って1Km程、東に向かって走り左に見えた一宮大橋を渡り北岸側を少し東に走ったらナビ画面は左折して北方向の細い道を指示したので車を進めたが私達の不注意で常楽寺の直ぐ傍まで行きながら左折して寺の駐車場に向かう所を直進して仕舞った為に少し道に迷った結果、本来の進入路の反対側から寺に向かって進んだので奥手側の写真の「放生の池」の横に車を停車して池をゆったりと泳ぐ水鳥を見る事が出来た。此処でも遍路姿の人は全く見掛け無かったので「焼山寺」「大日寺」に続き此の寺でも此の日一番の納経に成ったのではないか?と思う。此の日は朝の出発が早かったので本堂で納経の際にも人が居なかったので他の人達を気にする事無くゆっくりと納経を済ませる事が出来た。



    

四国八十八箇所霊場 第13番札所「大日寺」

2019年02月24日 10時04分11秒 | 四国88箇所霊場

    


 早朝の「焼山寺」の納経が終わって名西郡神山町から鮎喰川に沿って可也の距離を東進して漸く徳島市に入った。此の徳島市内には5箇所の霊場があり其の中で鮎喰川を渡った平地に第13番札所の「大日寺」がある。車の往来が激しい県道の反対側が、かつての阿波の総鎮守で在った一の宮神社と成って居る。開基は弘法大師とされ、縁起に寄ると「大師が森」と云う此の地で護摩修法をされていた際に空中から大日如来が紫雲と供に舞い降り「此の地は霊地なり 心あらば一宇を建立すべし」と告げられた。大師は早速に大日如来像を彫造して本尊とし、堂宇を建立し安置したと伝えられている。寺名の由来も此の縁起による。境内は老樹に覆われ密教寺院の雰囲気を漂わせて居るが、戦国時代には「天正の兵火」により堂塔は全て罹災している。其の後、江戸時代の前期に阿波3代藩主、蜂須賀光隆公に寄り本道が再建され、諸国に国の総鎮守、一の宮が建立された時には、其の別当寺として同じ境内にあり管理に当たっていた。ただ一の宮の本地物は行基菩薩作の十一面観音像とされており、同じ境内であった為に江戸時代には一の宮神社が札所であり、納経所として参拝されて居た様である。


 其の後、明治の神仏分離令により神社は独立し、一宮寺は大日寺と元の寺名に変えたが、元々、此の寺にあった大日如来像は脇仏となり、十一面観音像が本尊として祀られている。宗教的に考えると少し不思議な感じもするが?何れの地を訪れても神社と寺院が同じ場所に隣同士に建って居る事は子供の頃から見慣れて居る事で違和感は全く感じない。日本人の心には仏と神が融和して居る。


 私が此の寺に訪れたのは初めてであったが仕事柄、此の寺の前の道路を通る事は結構多くて私が自動車免許を取り立ての20歳に(50年前)寺の前でダンプカーと思わず正面衝突を仕掛け、僅か残り1m以内の処で双方のブレーキが効き車が止まって事無きを得た事があった。此れは私の長い運転歴の中でも一歩間違って居たら死亡して居たかも知れない一番恐ろしい思い出だが、神仏の御蔭で助かったと思った。其の後に何回と無く此処を通過する度に心の中では何時も感謝して居たが50年後の今回、70歳に成って漸く納経と助けられた事のお礼に行く事が出来た。

 四国八十八箇所霊場 第12番札所「焼山寺」

2019年02月23日 19時19分01秒 | 四国88箇所霊場

        


 焼山寺山は(標高938mH)の8合目付近にあり、四国霊場で2番目に高い山岳札所。剣山や白髪山などの四国山脈の山々が広がる眺望は素晴らしい。四国霊場には「遍路ころがし」といわれた札所が幾つかあるが、焼山寺も其の一つで、昔から険しい坂道の難所を辿る「修行の霊場」で在った様だ。現在は山上まで狭いが舗装された車道が通って居る。此の寺の縁起に寄ると飛鳥時代に役行者が山を開いて、蔵王権現を祀ったのが寺の始まりとされて居る。処が此の山には神通力を持った大蛇が棲んでおり、しばしば火を吐いて農産物や村人達を襲っていた。弘仁6年頃、弘法大師が此の地を巡られた時、一本杉で休んで居た処、阿弥陀様が現れた夢を見た。目を覚ますと目の前が火の海に成っている。其処で麓の垢取川で身を清めて山に登ると、大蛇は全山を火の海にして妨害した。大師は真言を唱えながら進んだら、大蛇は山頂近くの岩窟で姿を現した。大師は一心に祈願し、虚空菩薩の御加護のもと其の大蛇を岩窟に封じ込めた。そして自ら彫られた三面大黒天を安置し被害を受けて居た民家の大衆安楽と五穀豊穣を祈った。また山は焼山と成ってしまったので「焼山」の寺名と成ったと云う。其の後の鎌倉時代の後期には後醍醐天皇(在位138~39)の勅願書と成って居る。境内には樹齢数百年の杉の巨木(県の天然記念物)が並び巡礼者を迎えて居る。


 此の寺には2年位前に訪れた事があり急勾配の細い山道の途中で何回か送迎用のマイクロ・バスとの対向時に手間が掛かったので此の焼山寺に向かった日は朝の06時に起きて山頂の駐車場には07時過ぎ頃には到着した関係で途中での対向車は1台も居なかったが山頂の駐車場には県外の乗用車が既に1台停まっていた。如何やら皆さん考える事は同じ様だ。到着は向こうの方が早かったが休憩して居るのか周囲には人影は無かった。


 其れから良くは解からないが道幅の関係で大型観光バスは登れ無いのか?下の平地にマイクロバスが何台か居て其処で乗り換えている感じがする。従ってタイミングが悪いと此のマイクロバスと顔を付き合わせる事に成り多勢に無勢では此方がバックせねば成らないので結構面倒くさい事に成り、歩きで行くのも大変だが車を利用した遍路でも結構大変な場所である。此処は可也高い山なので道路の凍結や積雪がある事を心配して臨んだが此の日は其の心配は全く無かった。


 此処では家内と供に本堂で納経を済ませ納経所で掛軸と納経帳に納経した印を貰う心算で行ったら未だ準備中で納経所が開いて居らず暫く待って準備出来次第の一番乗りと成って四国霊場の12番目で初めて其の日の一番最初の納経と成った。


        
















































































 アンテナ不調の原因

2019年02月22日 20時57分50秒 | アマチュア無線

 今朝起きて7MHz帯でチューニングを取って居たらオートチューナーが勝手に働きチューニングに可也手間取って最終的にはチューニングは取れるのだがパワー計が何時もの様には振れないので「おかしいなぁ~?」と思いオートチューナーのスイッチを切りチューナー無しで電波をアンテナに送り込んだら如何した事か?SWR計の指示が無限大近くまで触れたので「此れでは如何しようも無いわ!」諦めて閉局した。


 此の寒い時期にタワーに上がって原因を追究するのも大変なので午前中は音楽等を聞いて居たが昼食を終えた処で此の完璧なまでのアンテナ不調は只事では無い筈、自然に放置して置くと勝手に直る様な症状で無いし、今日の夕方以降には雨が降り出し明日の天気も良く無い天気予報なので「寒いとかタワー上がるのが面倒だ!」とか云っている場合では無く、14時頃からタワーに上がる作業の準備を始めた。寒さ対応の為に沢山着込んだら安全ベルトのバックルを出た先のベルトの余裕が12cm位しか残らず次の掛かりを越した残りは僅か2cmしかなく「ええ~こない太ったんかい?」と驚いて仕舞った。


 タワー下で2~3回深呼吸をした後に「行くぞ!」を気合を入れて登り始めた。60歳頃までは余裕のヨッチャンで可也の速さで一気に最上部に上れたが70歳を越えた爺ちゃん、口は立つが体力の方はガタ落ちで踊り場へ移動する段階でアンテナブームと踊り場間が80cm程しか無いので窮屈な中で身体を捩っての移動には苦労した。(アンテナの方位が悪くタワーから踊り場に身体を移動する真上にブームマストが来ていた。踊り場に上がって安全ベルトを掛ければ一安心、先ずは給電部の確認したらスタブ部分の片方だけが輻射エレメントから出て居るネジ固定する部分から外れてしまって居る。最初見た時は「本間かいな?」と信じられなかったが間違いなく片方が宙ぶらりんの状態に成って居た。


 「コリャ参ったな!」思ったが工具が無いタワー上では如何する事も出来ないので取敢えず持って居た大きいワッシャを二枚を利用して問題の場所にスタブを挟み込む形で何とか接続して下に降りて電波を乗せてみる事にした。当然に此の段階ではアンテナは正常に働くと思って居たが(先週の週末のコンテスト時には正常に動作して居た)電波を乗せても症状は全く同じ状態に???、最初に上がる前に給電バランの可能性は考えて居たのでバランの交換用を持って上がって居たのに手間を嫌がり入替えて来なかった事を悔やんだが後の祭り、仕方なく再度タワーに上がって今度はバランの交換をしてバランからのリード線とスタブを締め付けるナットを締め込んで居たら最後の最後で締め付けが甘く空回りして居る感じに「パンパカパーン」と頭の中でラッパが鳴り惨めにも三回目のタワー登りが決定した。


 然し2回の上がり降りと馬鹿な失敗を繰り返した為に「今日は験が悪い!止めじゃ止めじゃ」と不貞腐れていたが明日以降も無線が聞けないのは一寸と寂しいし、16時頃に再び作業する事にしてスタブに穴あけする電動ドリルと延長コードを持って上がる事にした。延長コードは常に上で作業が出来る様に軒下に置いて居るので一番先を安全ベルトに通し持って上がる事にしたが踊り場の2m手前で腰に引っ張りが来たので「何で此処で延長コードの長さが足り無く成るの?」と下を見たらネコ車がコードを引き上げる調子に合わせて上がったり沈んだりして居る。「アチャ~?」、誰かがネコ車を移動して延長コードが其の下に敷き込まれて居る為に直線的には成らず僅かに距離が足らない事に成って居た。仕方が無いので奥方にどけてもらう様に上から「お~い、お~い」と呼び掛けたが家の中には届かず外には出て来ない。仕方が無いので自分で下に降りてコード処理をする事に「一体今日は如何なって居るんや?・・・・・・」再度登ってスタブのアルミパイプをトンカチで平たく叩き伸ばした部分に電動ドリルで穴を明け(僅か3秒の作業で)ボルトに通し新しいナットで締め込んでいったらエレメントからの貫通ボルトの山は痛んで居なかった様で確りとスタブとバランからリード線が本来の結線と成った。


 此処まで遣ったら問題は無かろうとアンテナに電波を乗せたら今朝の問題は解消したがアンテナとしては如何も本調子ではない感じ?後日にアンテナ・アナライザーで確認しなければ細かい問題は解からない。とにかく今日は三隣亡状態で悲惨で疲れも倍に成った。

 群馬県の旅 (2010、2014年)

2019年02月21日 16時56分49秒 | 旅行

      


 私の全国への旅と言っても其の旅の目的の大半は無線の移動運用が目的であった。然し私の移動運用地の選定は其の大半が全国の過疎の町村が対象で在ったので関東エリアの7都県の中には其の対象地は殆ど見当たらなかった。然も全国でアマチュア局数が一番多いエリアだけに近隣の県を移動運用で走り回る局も多く、四国の田舎者が態々遠征する理由も無かった。処が数年間に渡り全国を行脚する内に此処まで来たら「ワンマン WAJA」(日本全都道負県からの移動運用)を完成してみたくなった。


 私は学生時代にアマチュア無線に興味を持ち牛歩の歩みで今日までアマチュア無線を続けて来たが如何した事か?アワード関係には全く興味は無かったが生涯で日本国内の全市全郡全町村から運用する局とDXCCで定められた全世界との交信を完成する目標を持って臨みリタイヤ前に其の目標は如何にか達成する事が出来た。然し此の程度の目標を達成した人は幾等難度が高いとは云え少なくても確りした目標を持ってアマチュア無線を50年近く続けて居れば完成する人は何処にでも居て然程に余り難しい目標には思えない。処が此の目標に更に「ワンマンWAJA」の供給側としての目標達成と成れば全国広しと云えども10本の指で間に合うのではないかと思う。単なるWAJA、47都道府県の局と交信するアワードを完成する事は時間の問題だけで意図も簡単な事だが此れを供給する側で(自分が47都道府県を回って運用する事)挑戦すると成ると此れは結構ハードルが高い。


 私が移動運用を始めたのは比較的後発で2006年頃から徐々に始めていたが本格的に全国を移動運用する様に成ったのはリタイヤした2008
年からで遅かった。其処で移動運用の後発組として他局と違った特徴を出す為に移動運用場所は出来るだけレアーな町村に限定し余程の事が無い限りは市からの運用は行わなかったし当時全盛期であった道の駅からの運用は殆ど遣らなかった。運用は基本的に1日に1箇所と定め其の理由は大きく二分される朝型運用が中心の局と其れ以外の運用スタイルの局とに交信に対する差が付くのを無くする為に無線運用は朝と夕方に同じ場所で可也の長時間に渡る運用とした。そして何よりも意識した事は移動運用期間を出来るだけ長期に計画し「此の局は珍しい町村を長期で回り、余程の事が無い限り呼掛ける局が無く成るまでは閉局はしない」印象と「此の局は保々毎日連続運用している様だが明日は何処から出て来るのだろうか?」と呼ぶ側に先ず興味を持って貰う事に撤した。最初の2009年の北海道からの1ヶ月の運用は此方の目論見が十分に周知されて居なかったが運用が終わって受け取ったQSLには此れ等の運用面に関する反応が沢山書き込まれて居て移動運用の遣り方に間違いが無い事を確信し、次の2010年の2ヶ月半に及ぶ長期移動運用時には何れの地でもパイルアップの連続と成った。そして此の移動運用中に7,8エリアの局から九州と特に沖縄県とのQSOが中々大変なお話と運用の依頼を多く聞いたので次の2011年は沖縄本島と与論、沖永良部、徳之島、奄美大島、九州本体、隠岐方面を廻る事とし、其の移動運用の過程で段々と今後の目標が自分の中で大きく成りやがて日本全国を回る「ワンマン WAJA」の目標や計画が少しずつ現実味を帯び始めた。


 前記にある様にアワードに全く興味が無かった私は料金を払ってまでアワード申請する気持ちが無かったので当然な事として私が長年続けて来た努力が形や公式記録に残る事は全く無かったが「ワンマン WAJA」のアワードは私と全都道府県からの移動運用場所で交信達成出来た何方かが申請すれば其の供給者側にも自動的にアワードが発行される特権が与えられて居り「自分からは何もしなくても頂けるなら良いか?」と思い。私の移動運用感とは一寸隔たりのある1エリア(関東方面の)内の移動運用の計画を始めたが大都会の見知らぬ土地で運用地を探す難しさや私の運用パターンである3.5MHz帯のフルサイズのアンテナで運用する移動運用には可也の難しさがあり最初の予定の4年間で完成する予定が実際は遅れる事2年の2014年の7月26日の神奈川県足柄上郡山北町(JCG-11002E)の移動運用で漸く完成した。


 関東各地からの運用は何れの移動運用地探しにも可也梃子摺ったが群馬県に関しては比較的スムーズに進み群馬県多野郡上野村(16009F)のぶどう峠付近(1600mH)で2010年に運用し、もう一箇所は群馬県北群馬郡榛東村(16005E)で670mHの山腹に在る貯水池サイドから2014年に運用した。観光面では「榛名富士山」に登った事と世界遺産に登録された「富岡生糸工場見学」に行った事で時期が7月後半で無茶苦茶に暑かった事が印象に残って居る。関東エリアの移動中は此の群馬県と神奈川県は観光も出来たが残りの都県は温泉には入れても観光地を巡る事は殆ど出来なかった。





 福島県への旅(2010,2014年)

2019年02月20日 19時32分34秒 | 旅行

   


 私の2010年の福島県への旅は県内に入ったら一番最初に猪苗代湖の周囲を一回りして「野口英世記念館」を見学した後に湖の南側にある船津キャンプ村に車を停めて遅い朝食と休憩を取った後に「会津若松鶴ヶ城」に向かった。此の時は訪れたタイミングが悪く天守閣瓦のふき替え工事の最中で城全体に足場と防護幕が張り巡らされて居り其の天守を下から仰ぎ見る事は出来ませんでした。此の城の城主は「松平容保」で会津戦争時に1ヶ月に渡りに城に篭城して激戦を繰り返し此の時に西郷頼母の家族の自刃に代表される様に婦女子の自刃は239名に及び、又後世に有名な白虎隊は飯盛山にて炎に包まれた鶴ヶ城を見て城が落ちたと絶望して20名の少年達は腹を切り喉を突いて19名が悲劇的な最後を遂げました。


 此処までの話は皆が知る有名な話ですが此の生き残った1名の少年は後に逓信省の通信技師として各地で勤務し日清戦争にも従軍して活躍し77歳で其の生涯を閉じています。此の時代の通信技師と成ると日本の此の世界の先駆者の様で我々にも関係する。思わぬ白虎隊の隠れた事実を知る事が出来ました。


 2010年の福島県内の移動運用は大沼郡金山町(07006D)と大沼郡昭和村(07006E)を予定して居ましたが昭和村に至る道路が崖崩れに寄る通行止め状態で残念ながら金山町一箇所に終わりました。此の時は新潟県長岡市の諸我さんと御会いする約束が在ったので只見湖を越えて60里越峠を新潟に向かいましたが冬季は通行禁止に成るそうでです。


 2014年の福島県内の旅は何処か?もう一箇所で移動運用する事にして河沼郡湯川村(07007B)で運用しました。此処は新しい道の駅を造成中の堤防下の河川敷で運用しましたが此処も暴走族が現れてタイヤを軋ませて遊んで居ましたがやがて音がしなく成ったので無線運用を始めたら「暴走行為」の連絡が入ったのか?パトカーの赤色ランプ見えたので「此方には来るなよ!」と思って居たらユックリと近付いて来て何時通りの職質が始まり30分間ほどで無罪放免と成りましたが人相が悪い分だけ矢張り印象面で損をする様です。此れで東北からの全ての運用が終り残りは関東エリアだけに成りました。此の時は白河市を経由して栃木県へと向かいました。