黄昏叔父さんの独り言

 アマチュア無線と何でも有りのブログ

 50MHz帯で久振りに1エリアが聞えた日

2015年07月31日 15時25分54秒 | アマチュア無線


 相変わらずお空のコンディションは悪く早朝の7MHz帯でさえ国内の信号は余り聞えないし聞えてもDX局並みの信号レベル、海外のCWの信号も聞えず早々と諦め散歩に出掛けた。午前中の10:30~11:30分は50MHz帯を聞いたが此れまた何も聞えず早々と無線機の電源を落とし早めの昼御飯にした。


 然し今朝にインターネットで調べたSSN値は83を表示していたので20~30の絶不調から上昇はして居たので要注意だとは思って居た。何時もだと昼以後の待受け受信は早くても15時以降なのだが今日は滅多に聞かない13時から50MHz帯を第六感か?聞き始めた。7エリアの局が強力に入って居るが聞えて居るのは50.110~50.240MHz辺りだけ何時も長柄の50.150MHzでCQを出したが3回目までは空振り状態、今日も駄目かな?と思いながら4回目のCQを出して受信に入ったら13:06JSTに栃木県那須塩原市の西島さんJE1UPBから呼掛けられた。「あれ 1エリアが開けて居るんだ?」と少し驚いた。RSは相手には58を当局は59を貰った。相手も強いときは59以上だがQSBの谷間では57に成るので間の58を送った。交信は比較的ユックリと7分間で終了、終わったら群馬県みどり市の五感さん(JF1MUI)から声が掛かって交信が始まったが其の信号は50プラス20dbと強力、五感さんは7MHz帯でも強力な信号で綺麗な変調で有名な1KW局、此の周波数の信号も強力で圧する強さであった。


 話の中で「最近7MHz帯でAVMさんの声が聞えませんね」と言われたが、そう言えば7MHz帯のSSBによる交信は8J690Y/6で特別局運用の奄美大島の坂本さんと7月16日に交信して居るだけで御無沙汰している。7MHz帯も毎日1~2時間は十分聞いては居るのだが殆どの人が交信済みなのに反して50MHz帯は全バンドで1stQSOであったりバンド・ニューでの交信の確率が高いので最近は一番力を入れる周波数に成りその分7MHz帯の運用の機会が少なく成って居た。


 その後は富山県滑川市の高橋さん(JA9NSV)からも呼ばれて交信出来たが途中から相手の信号は深いQSBを伴い交信が始まった時には58で入感していた信号がファイナルを送る段階ではSメーターが振れない状態にまでコンディションが落ちたが送信内容は全て了解する事が出来たが其の後は関東方面と其の近くのエリアとのパスは落ち込み全く聞え無く成ってしまった。


 その後のパスは7エリアが中心に成り宮城県角田市の斉藤さん(JI7NVG)福島県西白河郡西郷村の飯田さん(JK7OSL)宮城県登米市の門脇さん(JA7UMO)と続き13:40JST頃にフェード・アウトした。全体で開けて居た時間は僅か30分間程だったが当局にとっては7月18日以来の1エリアへのパスが開けた日と成った。








 ミミズの不思議な行動

2015年07月31日 13時57分03秒 | その他


    



 徳島は連日のカンカン照りで陽が有る内の散歩は無理なので散歩を早朝に切替える事にした。今朝は4時頃に目覚めたが散歩に出るには少し早過ぎる感じで周囲は未だ薄暗い。日の出も夏至の頃と比較すると確実に遅く成った感じで写真は5時33分頃に撮った物だが太陽の位置は可也低い。肉眼では太陽が真っ赤に見えたのでカメラのシャッターを切ったのだが写真の色は実物には程遠い色と成って居る。


 散歩コースの最初は4m近い道巾のコンクリート舗装路なのだが気色が悪い程、細長い物が沢山横たわって居る「何かな?」と良く見ると大小のミミズが路面を這って居るのだ。此のコースを歩いて居ると以前に数十匹のミミズの干乾びた死骸を見た事は有るのだが其れは一部の場所だけ、今朝は約600m程続く路面全体に千匹以上のミミズが横たわって居て注意して歩かないと2~3歩以内に必ずミミズを踏む状態で非常に不思議な感じがした。


 道の左側は草が生えた傾斜した土手で右側は同じく草や竹が生えて緩やかな勾配で川の流れへと向かっている。どちらにも土が有るのでミミズが居ても不思議は無いのだが何故?乾燥したコンクリート部分に此れだけのミミズが這い出して居るのか?理由が解らない。帰り道に(1時間後に)同じ場所を通ると大半のミミズは見当らなかったが夏の強い陽を浴びて動かなく成った物や足で触ると慌てて動くのだが既に死に掛けているミミズが結構居る。ミミズの生態に付いて詳しくは無いが私の知る限りでは土を掘ると中にミミズが居る事は時々有るが此れだけのミミズが地面を這って居るのを見た事が無いので夜に成ると外に出歩くのかも知れない正確には這い回るだが・・・・・


 何時もだと散歩中に女性とも何人か必ず此のコースで会うのだが今朝も女性と何人か会ったが皆さん上の堤防を歩いて居たので少し不思議に思ったのだが男の私でも不気味な思いをしたので女性なら尚更の事、其の理由が漸く解った。今回の事が偶々の出来事なのか否かは明日も同じ時間に此のコースを通れば解ると思うので明日の朝が楽しみに成ってきた。


 子供時代の暮らし向きと食生活

2015年07月30日 07時43分27秒 | その他


  


  私の生家は茅葺屋根で私が物心が付いた頃には周囲には茅葺屋根の家は殆ど見る事は無かった。近所は全てが農家で有ったが我家の前後の家は人手を雇いガラス戸の本体や障子戸の切り組をする木工所を経営して居り裕福な生活をしていた。我家と同じ専業農家は一軒あったが其の家は昔からの大地主で町内でも指折りの田畑を持って居て農地解放に遭ったとはいえ矢張り近所では一番の資産家であった。戦後のベビーブームの時代で其々の家には同級生や余り歳が違わない子供が沢山居たので其々の家に遊びに行き天気が良ければ外で遊ぶのだが時には座敷に上がらせて貰い遊ばせて貰う事が有ると幼い子供心にも其々の家の経済力や暮らし向きが良く解って来るのだが矢張り我家が暮らし向きは一番劣っている様に思えた。

 

 そして何より茅葺屋根の家が貧乏臭く見えて嫌いだったが其の家は私が結婚するまで住んで居て我家を現在の場所に立てる時に生家も鉄筋コンクリート建てに新築された。百姓中では妙な競争心が有り、我が家が隣近所では一番貧乏だったので我家が何か遣ると「其れ」とばかりに其れ以上の事をする風習があった。例えば新しい農機具に変えれば其れとばかりに直ぐ買い換えるし?此の事を親達が何か有ると話していたので最初の内は我家の親達の「僻み根性」と思って居たが我家が家を建て替えると1年もしない内に近所の家が必要も無いのに3軒ほど家を建て替えられたが現在は世代が代わり住む人も居ない状態に成って居る。


 この当時は戦後の大変な時期で今とは違い周りは何処も質素な生活をして居たが農家は未だ良い方で非農家の人達は我家以上に大変だった様で食べるにも困る時代で我家にも良く米泥棒が入って居た。勿論盗まれる様なお金も無いのでお米を1~2升(今の空腹を如何にか満たす程度の量)を失敬して行く程度の可愛らしい物であったが私が小学校に上がる少し前まで続いた。

 

 余談だが一番上の兄や姉が修学旅行に行く時にはお米を持参して居たらしい。其れだけ今と違いお米、其の物に価値が有ったのだろう。まあ農家に生まれた事により「ひもじい」思いだけはする事無く日々生活出来たので有難かったが逆にサラリーマンの家庭とは違い定期的な収入が無い我家は日々の決まったお小遣いを貰えなかったので毎日、昼過ぎに定期的に乳母車で巡回してくる駄菓子屋のおばさんや紙芝居の叔父さんが来た時には小遣いが無い時は其の場に居られないので一旦家に戻り適当に時間を置いて再度遊びに参加するのは子供心に感じる物があった。


 毎日食べる御飯にしても、あれだけお米が有るのに毎日の御飯は3(麦)対7(米)の割合の御飯は麦により炊き上がりの色が悪く成り子供心に「何時に成ったら毎日真白い御飯が食べられるのだろうか?」等と思って居たが此れは中学に入る前まで続き漸く真白い御飯が毎日食べられる様に成った時は、お米の値打ちの終焉であった。この頃から戦後の不景気な時代は終わり未曾有の経済発展の入り口に差し掛かり米の値打ちが下がり収入が増えない農業に対して近所のサラリーマンの人達の収入はドンドン増えたので生活面での立場は逆転し「土地を持ち米作りが最高!」と思って居た中途半端な専業農家の良き時代は終わった。


 私達には決まった日々の小遣いが無かった為に親父は屋敷周りに沢山の実の成る木々が植えて有った。無花果や大きい琵琶の木が2本、渋柿の木が4本、甘柿が2本、金柑の木、桃の木、ぐゆみの木、さくらんめの木、家周りの石垣には自生するイチゴ、そして屋敷の西側には柿木に劣らぬ馬鹿でかい山桃の木が植わって居た。勿論、柿や山桃は曽祖父の時代に植えられた物だろうが?此れ等の木の背丈は何処の家にも負けない物であった。畑ではトマト、瓜、スイカ等も自家用として栽培していたし、春には山に竹の子が秋には松茸の季節に成ると松茸御飯も食する事が出来たし(子供の頃には贅沢な物とは全く思って居なかった)今思うと旬の物を嫌程食べる事が出来て幸せで有ったが当時は竹の子の時期には毎日、竹の子を食わされ、サツマイモの時期に成ると茹で上げられたイモが おやつ代わりで、ソラマメの時期が来ると大鍋で茹でられた豆のおかずが連日続く(1週間以上)と本当に嫌に成って居た。


 今でも竹の子が食卓に時々上がるが私は見るのも嫌で「こんな物、竹で無いか?100年食わんでも良いわ!」と良く言うのだが家内は大好物「貴方は子供の頃、幸せな食生活を送って居たのね 私の様な町人の家庭では全てお金を出して買って居たので滅多に食べれなかったわ 本当に美味しいし幸せだわ」と嫌味たらしく言って4~5日掛けて平らげている。其の他にはサツマイモの茹でた物、ソラマメの茹でた物等が同列だが食卓に上がる其の度に「又、出た貴方の100年食べなくても良い物節、心配しなくても後百年は生きられないから私が全部頂きます。」と此れ又、嫌味タップリに言われる。家内はサラリーマンの家庭で育ったので毎日決まったお小遣いを貰って居たらしく子供の頃に今日は何のお菓子にするか?其れを諦めて貸本の漫画を読むか?子供心にバラ銭を手に握り締めて近所の店で葛藤して居たらしい。其の頃は1日の小遣いでサツマイモの茹でた一切れを買うと小遣いは無く成るので嫌に成る程、食べた事が無いので私の子供時代は贅沢だった言う。


 矢張り其々の育った家庭環境に寄り思いは其々に違うのだなと実感する。私は自分が家庭を持った時に、自分が子供の頃に感じた事だけは子供に味合わせたく無いと思い、子供が在る程度大きく成り自由に買い物が出来る歳頃に成ると小遣い制を導入したが其の時には可也生活様式が変り子供達のおやつ等は母親が日々の買い物の中で与えて居たので其の大半はゲームのソフトや玩具に変わり其れも親が同伴で行くので私達が日々の買い物の中で感じ取った心ときめく楽しみを知らない様に思えて成らない。

 

 従って私の息子等は買い物が非常に下手だし、お金を持って居ても物を欲しがらない。今日は私の幼少の頃の食生活を書いてみたが確かに私は農家で作る自給自足の旬の物は多く食べられたが?反面、加工した美味しい食べ物等は余り買わない質素な食生活だったので恥ずかしい話だが私の小学校低学年の頃の食に対する秘かな望みは「いた天」当時1枚が10円程度だったろうか?此れを腹一杯食べられたらどんなた幸せだろうな?と思って居た程で今言ったらきっと笑い飛ばされるに違いない。


 家の写真は兄のJA5CHQのホーム・ページから頂いて来た。右手のポールと左のポールは私が学生時代と同じだが私が使用して居た頃は左側の竹を利用したポールは赤白に塗り分けて居なかったので年代的には私が大阪の会社に就職している時代の1968~1969年頃と思われる。右側の建物の窓が開いているが此の部屋が私の寝ていた部屋で下は牛小屋に成って居て牛と同居していた。右の写真は現在の実家の写真、古い写真の田んぼを潰して新しい家を建てた為に屋敷地の面積は約倍の400坪に成って居る。結構沢山のアンテナが写って居るが現在は使用する人は居ない。今年の1月に兄は天国に召された。ホーム・ページには私とは違った切り口で色々書いて居るので興味の有る人は一読を、身内が言うのも可笑しいですが面白いです。(検索はJA5CHQで直ぐに見付かります)




















 若鮎頑張る

2015年07月29日 16時36分57秒 | その他


     


 此処数日は本格的な猛暑と成って来たので日中の散歩は無理な状態、昨日は日が落ちた19時頃から歩いたが最後の方は真っ暗に成って足元が良く見えなかった。先日の台風による増水で河川敷は洗われ道は凹凸でガタガタ道の状態、真っ暗な状態だと蹴詰づいて危ないので今日から散歩は早朝にする事にした。出発は07時に家を出たが既に太陽は可也高く成って居て10分ほど歩くと上半身は汗が出始めた。堤防の上を歩くと少し涼しいのだが堤防は地元の発光ダィオードの会社への通勤自動車が次から次へと来るので危険な為に河川側の中段にある何時ものコースだが明るい中でも矢張り歩き難い。何時もだと1時間程度で帰って来るのだが矢張り15分程度の余分な時間が掛かった。


 先日まで河川は水位が下がらずに川幅全体に水が流れていたが今朝は中州が顔を見せて居たので可也水位が下がった様子、久振りに堰堤付近の状態を見る為に其の場所に足を進めた。堤の30m程手前まで忍び足で近付いたが白鷺に気付かれバタバタと30羽位が飛び立って行った。白鷺にとっては再び邪魔なオッサンの登場に100mほど離れた所で様子見をしている。鮎が遡上する水路を覗いて見ると写真の1番目と3番目の様に上に向かう為に待機している鮎が写真1では50~100匹程度うごめいて居る。写真1の深さは精々25cm程度、此方は高低差が少ないので最上段の上流に繋がる水路は切れ目無く若鮎が遡上して行く。写真3の方は流れが強いし待機場所の深さは70~80cm程あり写真では解りにくいが中央部が黒く成って居る場所には数百匹は居る感じ、此処に目の細かい丸網を入れたら1回で多分食べ切れない鮎の天麩羅料理が出来る事は間違い無し、但し見付かると捕まるので誰も遣らない。早い時期にはプレハブの監視小屋が建って人が常駐しているが現在は其の小屋も撤去されているが私が今朝行きしなには此処から車が出来る車と出くわした。矢張り定期的に巡回し見て回って居る様だ。


 白鷺が飛び去って5分くらいは鮎が飛んでいなかったが白鷺の存在が水面に映る影で解るのか?其れ以後は可也の数の鮎が上流を目指し始めた。多い時は同時に10~15匹程が泳いで上がるもの、空中をダイブして一気に一段上に飛び込むもの様々だがドンドンと昇って行く。残念ながら今朝は出発時にカメラを持って出なかったので撮る事が出来ずカメラを取りに帰る事にした。此の場所から自宅までは2Kmは有るので早足で歩いて家に辿り着く時には鼻の頭から汗が落ちる状態に堪らずに先ず朝風呂に飛び込んだ。

 

 一心地してから自動車で其の場所に向かうと又白鷺が可也の数、屯している。先程と同じ展開で飛び立つと白鷺は少し離れた所で様子見をしている。早速写真を撮ろうとタイミングを計るのだが今日は太陽光線が強くモニター画面が見辛く思う様に写真を撮る事が出来なかったので今度は白鷺を撮ろうと思って自動車を少し下げて様子見をする事に、自動車に乗り込んで5分間は全く行動は無かったが少しすると1羽の白鷺が50mくらいの距離で様子見をして居たが2分位経つと飛び立つ毎に10m程の間合いを詰めながら段々と例の場所に近付いて10分後位に漸く目的の場所に舞い降りた。すると其れを見た付近の白鷺は次々と集結し始めて20羽位の数に成ったが私が思った程には楽に食事に有り付けない感じで10分ぐらいの観察時間中に鮎に有り付けた白鷺は見付からなかった。中々生存競争も熾烈な様で此の場所では鮎の方が明らかに弱者の様に思って居たが鮎は鮎で命が懸かっているので白鷺が近付くと上がら無くなり川底の方に潜んで居る様だ。


 鮎は朝の早い時間帯の方が多く移動して居るので次の機会には三脚を持ち込み写真を撮ってみようと思って居る。


 反射望遠鏡の主鏡にカビが!

2015年07月28日 21時37分31秒 | その他


 最近は毎日朝起きしてもコンディションは極めて悪い状態が続いて時々2~3時頃に目覚めた時等は夜が明けるまでの時間を持余す。早朝でも外の温度は適温状態なので時間を持余す時は星を覗いて遣ろうと久振りに無線機卓の後ろに三脚にセットしてある反射望遠鏡の鏡筒の前蓋を外し主鏡を上から覗くと主鏡の一部に細かい点状の曇りがある「ありゃりゃ?此れは主鏡にカビが来ている。えらいこっちゃ」このまま放置すると主鏡が駄目に成るので主筒の底のネジを外し主鏡部分を取出して詳しく確認してみると細かい点だが3箇所ほど曇りが出来ていた。此れは気付くのが少し遅かったかな?と思ったが試しに「眼鏡クリーナーふきふき」で其の部分を丁寧に拭き取ると細かい曇りは無くなりホットした。不注意にも主鏡取付け台を外す時に鏡筒との位置関係をマークして居なかったので光軸の調整が必要に成り調整用の器具で再調整したが殆ど其の侭の状態で問題は無かったが念入りに追い詰めて調整した。



 此の反射望遠鏡は使用後は必ず乾燥剤を鏡筒内に吊り下げて湿気を取る様にして保管しているのだが考えてみると最後に使用したのは家内のリクエストで去年の秋の中秋の名月に外に持ち出し月を見てから使用して居なかった。今年は5月の長雨と例年と比べると入梅が早く梅雨明けも遅かったので其れ等の影響が有ったのかも知れない?此の反射式望遠鏡を購入して10年以上に成り最初の2~3年は熱心に覗いていたのだが最近は誰かの川柳に有る様に「月を見て、土星を見たら、飾り物」状態に成って居た。夏の夜間は星を見るには条件的には最高では無いが見る人間側にとっては外が寒くないので俄仕立てのアマチュア天文家には持ってこいの季節、今年は精々覗いて見ようと思って居る。


動物と過ごした幼少の頃

2015年07月27日 21時16分06秒 | その他


 私が幼少の頃は我家には沢山の動物が居ました。一番古い思い出はアヒル艦隊、多分私は5歳以下だったと思いますが我家にはアヒルが飼われて居て或る時間に成ると勝手に7~8羽が一列に並んで家の門から100m程離れた水門まで水浴びをする為に行進していた。そして自由な水浴びが終わると「ガァ~ガァ~」と鳴きながら一列縦隊を守って賑やかに我家に帰って来ていました。何の目的で飼って居たのか?良く解らなかったが其のアヒル達は行動が可愛かったので結構近所の人気物でした。一方、当時は我家に風呂が無い時代が有ったので親子が銭湯に行ったり映画館に行く時などは両親の後に私が其の後は歳の順序に最後は長男(JA5CHQ)の7名が一列縦隊に成って歩いて居たので隣近所の人達は此方の人間の方もアヒルの行進になぞらえて「アヒル艦隊」と言って居たそうです。


 其の他にウサギ、猫、牛、豚、鶏、変った所ではヤギも飼って居ました。ウサギは肉用か毛を利用するのか?良く解りませんでしたが定期的に業者の人が来て可愛いいウサギが金網の籠に入れられて連れられて行く度に悲しい思いをした記憶が有ります。それでも私が小学校に上がる頃には既に飼って居ませんでしたので期間は短かった様に思います。牛は爺さんが私が社会人に成るまで飼って居ましたが子供の頃は耕作用にも使って居ましたが耕運機が普及すると完全に肉牛に成り但馬牛の子供を買い取り3~4年位で出荷して居た様に思います。


 此れは農家にとっては大きな収入に成って居ました。私も幼い時に父親が操る牛の両方の角を両手で確り掴み興奮しながら首に跨った思い出が有ります。鶏は卵を生んで貰い食用に豚は父親が私達子供の修学旅行や高校入学時の特別な支出が有る時の財源の為に何時も計画的に飼って居ました。私達兄弟5人は全て学年が2年違いなので妙に兄弟が同じ年に大きな支出が重なって居たので此の豚さんの御蔭で事無きを得ました。


 猫は祖母が好きだったので何代も世代交代が有りましたが絶えず猫は居た記憶が有ります。子供達は皆犬の方が良かったのですが何故か申し出ても許可が下りなかったので親父が嫌いなのかと?思い込んで居ましたが祖父が亡くなったら親父が直ぐに犬を飼い始めたので聞いてみたら祖父が嫌いだったので飼えなかった様です。


 ヤギは近所では殆ど見掛けませんでしたが父親が子供達の栄養補給の為に飼って居り其の食事の世話と乳絞りは子供達の役目で結構楽しく遣って居ました。ヤギの乳は少し癖が有り生では飲めなかったので必ず暖めて飲んで居ましたが甘さを付けて飲み易いように当時「アマミゲン」と言う錠剤を入れて飲んで居ましたが後日、此れがチクロと言う発ガン性物質で有った事が大きく報道されましたが時既に遅し、それらが如何ほど私達の健康に影響が有るのか解りませんが後の祭りです。


 此の様に今振り返ると父親が子供の現状や将来を考えて日々の生活の中で如何に計画的に物事を進めて居たのかが良く解ります。御蔭さまで進学で困る事も無く私等は大病をする事無く此の年まで来ましたし、私の直ぐ上の兄は中学生の時、徳島県下の健康優良児コンクールで2位に成った事が有ります。此れはヤギの乳の御蔭かも知れません。


我家のルーツ (其の2)母の思い出

2015年07月27日 06時46分09秒 | その他

 私の母親は隣町の那賀郡那賀川町に7人兄弟の一番上の長女として生まれた。生家は江戸時代に始まり伊勢の国に国学の勉強に行った人が先生の娘と夫婦に成り阿波に帰って国学者として寺子屋を開き奥さんは近在の娘に行儀見習いを教えて居たと言う。阿波藩内では其れ成りの知識人だったらしく苗字帯刀を許され、母の話に寄ると生家の二階には時代劇で見る様な駕籠や鎧兜に槍、刀が有ったと言う。此れだけを考えたら如何も我家との釣り合いが取れて居ない感じなのだが?父親の時代の結婚は殆どが見合い結婚で普通、女性は自分の生家より良い家に嫁げるが男側は自分の生家同等との婚儀が一般的で有ったと聞く、お互いの父親が酒飲みで、しかも隣町なので酒を飲んで遊ぶ所は同じ様な場所、私の爺さんが遊び呆けて居た時なので(母方の叔父さんの話では私の爺さんの遊びは旦那の遊びで豪快だったらしい)御互いが顔見知りだったのだろう。其処で御見合いと成って父が帰ろうとすると母の父親が「娘は如何な?」と聞いたらしく親父は「気に入るもいらんも一回では解らん」と答えたら「ハッキリ気に入らんと思わぬなら貰っとけ!」と押し切られたらしい。


 母親は母親で父親が進める話は断れぬし何よりも私の父親が酒を飲まぬ事は唯一の母の結婚相手に対する望みだったので嫁いで来たと言う。其れに7人兄弟の一番上だったので少しでも早く嫁いで親を楽にさせたいとの思いも有った様だ。母親は口数の少ない女性で有ったが仕事だけは手早かった。私の祖母も仕事師で結構口煩かったが農作業を含め諸事一般で母には敵わ無かったので揉める事は無かったが母親の実家は神道、我家は仏教なので先祖のまつり方で慣れない母親に婆さんが愚痴る事が時々有った。


 私と母の思い出で一番古いのは母親の乳首に吸付いて母乳を飲んで居る情景、私は乳離れが遅かったらしく乳首に幼児が嫌がる様な味が有る物を塗り付けられ「此れは敵わんなぁ~?」と思った事はハッキリと憶えている。其の次に憶えて居るのが田んぼのあぜ道でむづがって居ると盥(たらい)の中に寝かされて盥に付けられたロープは母親の腰に結わえられ母親が田植をしながら移動すると引っ張られ水田の中を揺れながら移動する不思議な感覚が何処か記憶の片隅に残っていたが夢かも知れないと?或る日、母親に聞いたら「2歳位までは幾らむずかって居ても直ぐに機嫌が直るので良く遣っていた そんな事を憶えている?」と笑っていた。


 私の父親は母の望みの酒こそ飲まなかったが若い頃は結構尖って居た様に子供心に感じたので結構な気苦労が有ったのでは無いかと思う。当時の農家は機械化が遅れて居たので農家の長男は作付面積にも寄るが農繁期が長いので会社勤めをしながらの農業は無理で殆どが専業農家で有った。当時のお米は現在とは違い食糧難の時代で現在と比較すると格段に値打ちが有ったので父親も専業で農業を遣っていたが毎月の定期的な収入が有る訳でなく、しかも今では考えられない事だが農業での収入は全て爺さんの懐に入る封建的な社会で有った。


 普通で有れば世代交代の時期で有ったが財政を息子に任すと祖父としては息子から小遣いを貰う状態に成ると好きな酒を自由に飲めなくなる事情が有った様だが父親もよく辛抱して居たと思うし此処等の遣る瀬無さが生活上の尖りの根源でだった様に思う。しかし父親と祖父の争いは私の知る限り一度も無かった。其の様な事情により全て日常生活の費用は祖父から出るのだが両親は自分が自由に出来る収入は無い為に子供にして遣りたい事が有っても何も出来ないので先日に書いた様に両親は毎晩裸電球の元で夜遅くまで夜なべのムシロ作りに精を出していた。


 然し所詮此れ等の収入では子育てが出来ぬと感じた両親は可也大きい和船を作り近くの那賀川の川砂と砂利を取って販売と配達を始めた。此れは材料費が要らない為に先ず先ずの収入が有ったが荷車での配達で採取から配達までが全て人力に寄る物で大変な仕事で有った。しかし此の良い時代も長くは続かずやがて大手業者に寄る採取が河川の流れを変え洪水の原因に成ると河川による砂、砂利の採取が自由に出来なくなり廃業を余儀なくされ両親は考えた末に其の延長線上に有った砂、砂利を原料としたセメント二次商品を製造、販売する商売を始めた。


 此れは炎天下の作業でセメント練りも全て手作業、母親には大変な仕事で有ったが私が一番可哀想に思ったのは型枠に重油や廃油を塗り型枠とセメントの固着を和らげるのだがセメントを扱うと直ぐに手が荒れひび割れが入り其の傷口に黒い油が浸み込み手が汚れてしまい手を洗っても毎日の事なので汚れが落ちなく人前で手を見せられない事、其れは仕事人の証と思うのだが矢張り母は女性、学校の参観日等の公の場では手を出さない様に何時も手を隠して居た事が気持ちが解かるだけに子供心に悲しかった。子供が段々大きく成ると其の家業だけでは間に合わなく成り父親は40代から10年位は土木関係の出稼ぎに県外に母親は一人で家業を守った。親爺も単なる作業員では「うだつ」が上がらないと独学で勉強して制限の無いダイナマイトの資格と此れ又制限の無い起重機の最上の免許を取得している。此れ等は上の兄二人の高校の土木課への進学に繋がり私以外は土木の技術者に成った。


 私が社会人に成った頃、両親に漸く安定した生活が訪れやがて結婚50年の金婚式を無事向かえ二人で始まった所帯が5人の子供に其々の伴侶が決まり10人そして孫の数は12人に成った。両親は最後まで現役を貫き二人で始めた「巴商店」(母親の名前)は長男の手で小さいながらも株式会社に成り兄の計らいで親爺は初代の社長職に就任、嬉しそうに私に其の名刺を見せてくれた。母は不幸にも突然の交通事故で天国に召されたが父親は後に農業委員や地域の役員で地域に恩返しした後、90歳の天寿を全うして「お前には世話に成ったなぁ~」と兄に言って天国へと旅立って行った。


 

今日の50MHz帯

2015年07月26日 17時13分55秒 | アマチュア無線


 今日も5時前に起き出して各バンドを聞いたが相変わらずコンディションは極めて悪い。7MHz帯も一応チェックしてみたが時間帯が悪かったのか?国内の移動局ですら強く入感する局は無かった。一旦閉局してから10:20JST頃から50MHz帯を聞き始めたが昨日は聞えていた8エリア方面の信号さえ聞えない状態・・・・


 反面3エリアや5エリアの移動局は強く入って居たので50.215MHzでCQを出すと浜松天竜区の青柳さん(JI2HXU)からの呼掛けが有り55-55で交信する事が出来たがパスは電離層反射では無くGWの様に思えた。交信が終わった所で浜松西区の太田さん(JH2TQH)から声が掛かり59-59で交信が始まったが信号が強かったのでアンテナ・システムを聞くと5エレ・スタックの八木と言う。道理で信号が強い訳だ。此のシーズンに成ってスタック八木の局とは始めての交信であった。此の交信が終わった時に複数局から呼掛けられたが其の中に海外の局が居た様だったが信号が弱くコピー出来ない。コールサインの再送を御願いすると北海道函館市の兜屋さん(JA8DHR)から呼掛けられ最初は59-59で交信が始まったが先日に御会いした時よりは少し信号が弱い、そして途中から深いQSBを伴いだしたので向こうからファイナルを送ってくれたが最後はSメーターも振れる事無く辛うじて送信内容が了解出来る状態で信号は落ちて行った。


 其の後 此れでは国内は無理と判断、ヒョットすると近隣の国が聞えるかも?と判断して可能性の有る50.050~50.130MHzを丹念に聞いて居ると50.120MHzでBV3CEのCQを連呼する信号を捉えた。呼掛けると直ぐに応答が有り「ハイ Tonyさん 59」と返って来た。私は初めてのQSOと思って居たので驚いたが業務日誌に打込むと昨年にも交信していた。Tomさんに此方から58を送って交信成立、其の後に近辺を探って居ると下の方でBV9AのCQが59プラスで聞えたので呼掛けたら応答が有り59-59で交信する事が出来た。ついでに電信の周波数も念の為に聞いてみたが此方の方は全く入感無しの状態、其の後、周波数を上の方に上げる時に再びBV3CEの信号が聞えたがアンテナをJA方面に向けたのか今度は59プラスで聞えて居た。


 当局のアンテナ・システムでグランド・ウェーブでの交信範囲は西は下関市辺り、東は静岡市内までは何とか可能だが箱根の山を越える事は無理な様で関東エリアとは時々設備の良い局から声が掛かると年に数局は交信出来るが非常に珍しい。反して西側は通常はアンテナが殆ど北東に向いて居るのでコンテストに参加して居る時で無いとアンテナを振る事が無いので交信するチャンスは殆ど無いが相手方向に振りさえすれば交信は可能と成る。


  BV3CE  11:00JST  50MHz   SSB   566A

  BV9A   11:47JST  50MHz   SSB   566A

 


今日の実績とアンテナ修理部品が到着 (2015/07/25)

2015年07月25日 18時47分31秒 | アマチュア無線


 今朝は03時前に目覚め4~5日目位だろうか?早朝から無線機の前に座った。現在14MHz帯のアンテナはトラップ部分の接触不良か?此処2年前からの時々の動作不良に悩まされ(CWモードの運用時は問題無いのだがSSBモードの場合は接触不良の様子)先日から輻射器を下ろして点検して居たが思い切って14MHzのトラップエレメントを外しメーカーに点検に出して居るので14MHz帯は運用する事が出来ない。此の時間では21~24MHz帯は全く聞えないので7MHz帯の逆Vアンテナで7MHz帯のCWを聞いて居たがバンドノイズが低いので弱いながらも十分に聞えて居た。


 例に寄って7MHz帯で聞える局は片っ端から呼掛けたが全く電波は届いて居ない様で大半の局が応答なし、交信出来たのは03:38JSTのJT3USAと04:55JSTのRI0NZのみJAからは近距離の海外だけが如何にか交信する事が出来た。其の後に05:45JST位に7.003MHz辺りにA61QAが出て来て目敏く見付けたJA各局が呼び倒して嫌気がさしたのか突然電波が止まった。2分間程沈黙が続いたので其の周波数を諦めて少し上に上がり掛けたら4kHz上でA61QAのCQが聞きえて「あれ?」と躊躇した分だけ呼び遅れて2番目に成ったが599-599で交信する事が出来た。


 今日は土曜日と言う事も有り50MHz帯で10時頃から待受け受信に入ったが10時15分頃から8エリアが開け始め富良野市の斉藤さん(JA8IIF)苫小牧市の清水さん(JH8CGU)北見市の菊池さん(JR8NSD)札幌市手稲区の大和田さん(JA8KGG)と其々30分間程のユックリとした会話を楽しんだが最後まで他のエリアの局とは一局も交信する事は出来なかった。其の後24MHz帯にQSYしたら埼玉県越谷市の小沢さん(JK1NAF)東京都立川市の斉藤さん(JA1WOB)と交信して13時前にQRTした。


 遅めの食事をしていたら宅急便の係りの人から電話が入り「荷物が着払いで来て居ますが今から良いですか?」との事、「何ですか?」と聞いたら「アンテナ部品の様です」との事、そんなに早く届くと思って居なかったので驚いたが10分程したら到着して現物を受け取る事が出来た。私の予想では早くて1週間後と思って居たが見積もりの電話が掛かったのが確か昨日と?思ったのだが「幾ら掛かっても直す。」と言ったので直ぐ対応してくれたのだろう。

 

 結構良い値段であっと言う間に1万円札が2枚近く飛んで行ったが早く対応してくれたので満足している。此処のブログにも何回か書き込んで居るがトラップ部分の給電部側の方にトラップの円筒部分の金属がリベットでエレメントに接続されて居るのだが此の部分のアルミが金属疲労で破断していたので2mmφ程度の銅線で代用したのだが表皮効果なのだろうか?リベット加工の面接触と違い点接触に近い処置が悪いのか?良く解らないがCWの様なキャリアの時は症状が出ないのだがSSBの場合だと送信中の信号が断続的に成って居るリポートを時々貰って居たので(SWRは1.2が1.5~2.0に変化する)給電側のエレメントとアルミの円筒間が電気的にオープンに成る為にトラップコイルと円筒の間のC(容量が変化)結果的にトラップ内の設計された共振周波数がずれる様なのだが足掛け2年以上彼是と何回も自分でアマチュア的に対応していたが辛抱が出来なく成ったので今回思い切ってメーカーで一部新しい部材に交換して貰った。出来るだけ早い段階で対応して状況を確認したいと思って居る。


 我家のルーツ (其の一)

2015年07月25日 06時30分45秒 | その他


 最近はブログの題材にも困るように成って来た。つい最近までは他人のブログを覗くと成るとアマチュア無線関係のブログだったが私自身のブログもアマチュア無線に拘らず「何でも有り」に変えた事も有って最近は色んなジャンルのブログを参考の為に覗く様に成ったが 或る日ある方のブログを見て育った時代や周りの環境などに多くの共通点を感じ無性に懐かしく感じて私が幼かった頃の事を思い出して書いてみる事にした。


 私は昭和23年8月12日(1948年)に徳島県那賀郡羽ノ浦町(現在の阿南市羽ノ浦町)の片田舎で産声を上げた。上には兄が二人と姉が2人いて5人兄弟の末っ子として生まれたのに何故か?名前は家の長男名の「太郎」と名付けられた。長男が晴久、長女がクニエ、次男が「忍」次女が「環(タマキ)」である。次男と次女の名前は当時としては可也、斬新な名付け、此の辺に親父の真骨頂を感じる。長女の名前だけは少し歪(イビツ)な感じがするが此れは親父が戦争前に支那(今の中国)の北支鉄道に勤務して内地に居なかったので私の祖父が名付けたもの、何せ明治生まれなので此の時代の女性はカタカナ名が多かった事の名残か?上の姉から直接に聞いた事は無いが此の名前には姉自身には少し不満が有った様だ。


 私の生家は農家で耕作面積では近所の大地主に次いで2番目だったが戦後の農地解放で農地を得た小作人、其の当時、何処の家を見ても生活は楽では無かった様だが我家は5人兄弟の子沢山、家族が一番多い時には11人家族で隣近所と比較すると経済的には少し劣って居た様に思う。私の家の初代の曾祖父は「質素倹約を」旨とし可也の小金を貯めて居て孫である私の父には「お前が嫁を貰う時には此の辺で一番の家を建てれるお金を用意してあるから安心せぇ~」と常々言って居たらしいが其の曽祖父が若くして逝くと20歳の前半で後を継いだ祖父は有頂天に成ったのだろう?飲む、打つ、・・・?に夢中に成り数年で其れを使い果たした様だ。


 祖父は明治の初めの生まれだが頭を七三に分けて当時に頭にポマードを付けて芸者集を携えて豪遊する伊達男だったらしいが?私の知る爺さんは酒の飲み過ぎで中風に成った其処辺の唯の爺さんだったが少し違って居たのは貧農の爺さんが地元新聞と産業経済新聞とを朝から全て目を通し其れが終われば昼寝をし、起きると近所の銭湯の一番風呂に入り、帰り掛けに一杯飲み屋でキューと遣っていた。若い頃は近所でも指折りの働き者だったらしいが反動か?私が物心付いた時は既に仕事は全くしていなかった。親父の話では散財した金額は当時で4000円、当時、近所で一番立派な家が「1000円普請」と言われ近在の人が手弁当を持って見学に来る程で有ったそうな・・・・そりゃ豪遊出来る筈だ!ただ祖父の名誉の為に書いて置くが祖父が買った田畑や山が現在でも財産としては残って居る事と博識で親父とは違い私達孫には実に寛大な彼是言わぬ物分かりの良い爺さんで有ったし此の時代はこの様な事は良く有ったらしい。


 前にも書いたが其の飛ばっちりを受けたのは私の父親で若い頃は美術大学を目指して居たらしく将来は画家に成る事が夢だったと言う。父親の祖父は事の外、孫である長男の父を可愛がって居た様なので其の様な夢を持てたのだろうが?家が傾きかけては夢を諦めるしか無かったらしい。私は父親が描いた絵は子供の頃に一度だけ見た事が有ったが非常に上手だったが無念の思いか?父は其の後、筆は握らないと決心した事を母親から聞かされた事がある。


 それ以外では矢張り書の才能だろうか?絵と書は共通点が多いが絵を描く事と違い文字を書く事は実社会に直接繋がって居るし父親の字を見る機会は多かった。何か影響を受けたのだろうか?私も成人してから書道に興味を持ち書家に成る事を夢見て20年近く頑張った時代が有り其れ成りに精進したので親父の書いた字をある程度、正確に評価出来ると思うのだが其の経験の中で感じるのだが私が師と仰いだ東京の先生以外で楷書部門で父親を凌ぐ人は見当らなかった。正確に言うと父親の字は書道では無く、どしらかと言えば習字に近い存在では有るが単なる習字其の物では無い。


 習字は読んで字の如く限り無く御手本に忠実に写生して書く事だが書道と「道」が入ると其の世界はガラリと変わる。其処には芸術性が無ければ成らない。私流に平たく言えば「其の作品に魂の存在と其の躍動が字から感じ取れるか如何か?」と言う事と理解して居るのだが?しかし書道も基本は習字からスタートしているので其の存在は大きい。父親の作品としての字を見た事が無いので残されているのは普通の毛筆で書いた誰もが読める楷書の文字だが此れは田舎の爺さんが書いた字とはとても思えない。其処には俄仕立ての成人から修行した者と物心が付いて毛筆で文字を書き始めた世代の鍛錬の差だと思うのだが?とにかく楷書では私が遠く及ばない親父の存在があった。


 親父は酒もタバコも飲まない堅物で有ったがそれ故に何事も正面から取組む性格で物事の白黒をハッキリさせる性格で有った為に若い頃は世間から随分と尖った性格の様に思われて居たし事実、子供の私から見ても其の様に思えた。取分け子供の躾には厳しく近所の子供達には「原爆親父」と恐れられていた。従って自分の子供に対して遠慮する事は無く私も竹箒で叩かれた事も何回も有ったし親父の原爆と呼ばれるカミナリが落ちると便所に逃げ込みトイレ用の紙を入れた丈夫な箱を横向きにして腰掛けてカミナリが治まるのを只管待った経験が何度かある。流石に厳しい親父でも便所までは追い駆けて来なかったので子供心に其処は最後の避難場所であった。


 日頃の生活態度もしかり箸の上げ下げから他所で食事を御馳走に成る時は絶対に好き嫌いを言わず残すな!特に厳しかったのは魚の煮物や焼き物が出た時には箸捌きをどのようにして骨だけにして食べるか?特に私には「お前は何時かは家を出て行く身、何処へ行っても作法で恥をかかぬ様に」と厳しく教えられた。


 然し私に対する親父の対応は序の口で長男の兄に対する躾は其れ処では無く当時農家の副収入で有った「筵(ムシロ)」を編むために親父は縄を編み母親は筵を織って居たと言うか編んで居た横で兄は親父の言った漢字を毎晩、両親が夜なべをしている横の納屋の板に書かされたらしい。私と兄は8歳違いなので其の情景は私には記憶に全く無いが可也厳しかったらしく父親が亡くなった時に兄から思い出話で其の事を聞かされたが其の文字の跡はその納屋が取り壊されるまで残って居た。


 其の当時、其の内職が如何ほどの収入が有ったのか?今の私には知るべしも無いが今から60年前に60Wの裸電球一灯の元で両親が何を思い夕食後から22時頃まで毎晩、夜なべをして居たのか?と思う時、自然に目頭が熱く成って来る。親父は「何事も人に負けるな!」等とは生前一言も言わなかったが傾き掛けた家を建て直すのは子供への出来るだけの教育しか無いと思ったのだろう。自分の遣りたい事も諦めて其の後ろ姿で私達子供を導いてくれた様に思う。其の家の浮沈は三代目に掛かっていると良く言われるが親父は正に其の三代目、苦労の末に四代目の兄に引き継がれたが果たして? 次に続く


 全く聞えないコンディション

2015年07月24日 17時49分34秒 | その他

 今朝は起きると相変わらずの厚い雲に覆われた曇り空、今年は中々スッキリした青空に成らないなぁ~と思っていたら8時過ぎには急に雲が飛び久振りに青空が広がった。此処1週間位は洗濯物を干しても何時雨が振るかも解らない状態で家に居ても絶えずお空と睨めっこをしていないといけない常態が続いた。朝干した洗濯物を一寸した油断でにわか雨に気付くのが遅れ乾き掛けている洗濯物を濡らしてしまい電気乾燥機で乾かさねば成らない日が何日も有った。


 今日の8時以降は安心して洗濯物を干せる天気だったので気分が良く何時もの家内に替わって私が大型の洗濯機で2回に分けて洗濯し物干しに掛けた。外に出て作業をして居ると今年一番の蝉の音が聞えて来て漸く本格的な夏の到来を実感した。今年の徳島は5月にも長雨があり6月に入ると直ぐに例年よりも早い入梅、曇天の日が多かった割には雨が少なく九州方面の大雨と比較すると少ない様に思えたが先日に四国に上陸した台風の前後は大雨が続き大変鬱陶しかった。布団類も此処10日間で2回程外に干したが一時的には晴れて居ても突如として天候が変化し危うく雨に濡らしそうに成ったので今日は絶好の天気なのでタワーから玄関前の電柱にロープを張り全ての布団類を天日干しした。先程、其れ等を取り入れたがフワフワに成り可也軽く成った感じで今晩は良い夢が見られそうだ。


 最近は朝のコンディションが悪いので朝起が遅く成り早くても5時前後、従って7~14MHzz帯でのDXとの交信は7月15日から途切れた侭、昨日偶々50MHz帯で中国と交信出来たが丸一週間交信が無かった事に成る。今朝も起きた時間ではハイバンドは何も聞えなかった。従って聞く周波数は7MHz帯に成ったが此方も頗るコンディションが悪く北海道方面を移動している局も何時もの様には聞えない。今朝も1時間半近く聞いたが結局誰とも交信せずに終わった。

 昼前と昼過ぎに21,24,50MHz帯を其々に聞いてみたが信号が聞こえたのは50MHz帯のみ8エリアの局が59で2局程聞えてたが2局とも交信済みで聞くだけで終わったが余程良い設備なのだろう結構長いラグチューをして居たが当局では相手の九州や沖縄の局は聞こえ無かった。

 現在ブログを書き込みながら7Mhz帯を聞いて居るが(18:58JST)30分くらい前まではノイズレベルが高く聞きづらかったが突然バンド内のノイズが無く成り良く聞える様に成って来た。今日のSSNは30台を割って27程度、各バンドのコンディションは完全に夏枯れ状態で芳しく無い状態で暫くは辛抱が要りそうだ。










 

 50Mhz帯で初めて海外から呼ばれた。

2015年07月23日 14時29分27秒 | アマチュア無線


 7月の21日~22日は其々に3~4時間聞いてみたのだが14~24MHz帯では殆ど信号が聞えず交信実績が途絶えて居た。この状態が3日連続で続くのは拙いと思い。今日は10時頃から21~24MHzを聞いてみたがハイバンドは何れのバンドもノイズレベルが低く殆どSメーターがS1のレベルまで下がりトランシーバーが壊れて居るのか?と思うぐらい静かな状態、SSN値は35を表示、此れでは駄目だろうと思いながらも太陽の黒点状態を確認すると僅かに薄い赤状のシミの様な物が見受けられるが黒点は全く見えない状況であった。そう言えば今朝の5時前後の7Mhz帯のコンディションも海外の信号は聞えるのに国内の移動局の信号は殆ど聞えず「おかしいなコンディションだなぁ~」とは思って居たのだが・・・・・


 昼前に偶々50MHzのスコープを見て居たら10:40分頃に何個か信号を確認したので聞いてみると北海道の信号だけは59~59プラスで入感している。最近は早いQSOは遣りたく無いので50.215MHzの周波数で当局からCQを出す事にした。2~3回のCQの空振りの後に渡辺さん(JA8QGF)北海道雨竜郡妹背牛町から声が掛かってQSOが始まったが信号が強かったので30分近くラグチューを楽しんだ。渡辺さんとは今回で3回目の交信で周波数は全て50MHz帯、しかし最後の交信から既に6年が経過して居たので本当に御久し振りと成り渡辺さんが3年前に四国に来られて外周を一周した事や私が2010年の北海道旅行で妹背牛町での運用場所が旨く見付からず仕方なく町外れの大きい墓地の駐車場で運用した事を話すと良く御存知でユックリとラグチューを楽しむ事が出来た。


 交信が終了した所で何方か声掛けが有ったが信号が弱かったので「如何かなぁ~」と待機していたら再度呼掛けが有り応答するとBG4IJLと言って居る。アンテナは北東に向いて居るのでバック側「ほんまかいな?」と疑ったがコールサインも完全にコピー出来て最初33~34の信号強度がアンテナを合わせてくれたのか?次からは55まで上り十分の了解が出来るレベルに成った。相手からのRSは59であった。50MHz帯の運用を始めて距離的に近くとは言え外国の局から呼ばれたのは初めての経験で驚いてしまった。今日の様に可也コンディションが悪い中でも電波は飛んで行ってる事を実感したが相手局も可也ゲインのあるアンテナを使用して居るらしかったが?此方の設備を紹介しても 相手側のシステムの説明は無かった。最近は国内外共に局数が激減している性か?内外の其々のコンディションが開けて居ても気付かないケースも有るのかも知れない?事を感じる日で有った。


 ブログを始めて5年目を迎えて心機一転!

2015年07月22日 21時52分24秒 | その他


 早いものでブログを始めて満4年が経過し本日から5年目に入った。

 此のブログを開始したのは2011年の7月21日で有った。此の年は私が退職して前々から達成したかった「日本一周への旅」を始めて3年目で私が一番遣りたかった沖縄本島の全町村と沖縄から鹿児島までの間に並ぶ離島からの移動運用、其の後に九州本体の珍しい町村や島根県の隠岐の3町1村の移動運用を終えて徳島に帰って来た時期で有った。此の段階で近畿地方と関東地方を除けば保々移動運用は完了して全国の約70%近くの道府県からの移動運用しながらの車中泊に寄る旅は完成していた。


 3年も経つと最初に行った北海道への旅の事等は少しずつ記憶が薄れて行き、後に沢山撮って来た写真を見ても「はて 何処だったのか?」と思い出せない場所も有ったりして此れから先、益々歳を取ると更に記憶は薄れて行き折角の楽しい旅の思い出が消えて行くのでは?と考えると何かの形で残さねばと思った。そこで思い付いたのが此の「ブログ」の存在であった。

 
 ブログを始めるに辺り沢山の無料のブログサイトを調べたが最終的に此のブログ・サイトに決めたのは有料の方に移行すれば画像等の容量アップや私の一番気に入った「ブック機能」が付いて居た事、此の機能は書き込んだ記事を最終的に本にする機能が付いて居る。然し最初の内は何時まで継続出来るかも解らなかったので無料の方でスタートしたが数ヶ月で有料の方に移行した。すっかりブログに嵌まってしまったのだ。


 以前にも此のブログに書いたが私は小学校の5~6年生の時には放送部に在籍して居たので昼の食事の時間帯は2日交代で15~20分間程、自分で書いた原稿を元に流す曲の前説や物語の朗読等をしていたので上手下手は別にして放送用の原稿を書く事は余り苦に成る事は無かった。(時々調子に乗り過ぎて校長室に呼び付けられる失敗もしたが詳しくは此のブログの最初に書いてあるので興味が有ったら見て頂戴)然し今、冷静に振り返ると楽しい給食の時間に650人位の生徒に頭の上の方から強制的に面白くも無い内容の放送を押し付けたのだから本当に申し訳なかったと思って居る。当然ファンレターは1通も貰う事無く卒業した。


 中学校に進み放送部に在籍したが此方は毎日の放送は無かったし何かの行事の時に活躍する程度で小学校時代の様にスタジオが有った訳では無く、放送原稿も全て先生が手書きした物を読み上げるだけで終わって居た。担当は地元放送局でアナウンサーを務めて居た方が先生に転職したので発声方法や早口言葉などを結構、本格的な訓練を遣らされたが其の様な練習は私は好きでは無かったが、せめてもの救いは小学校の男所帯の放送部とは違い、男は私と小学校からの放送部仲間の二人だけ逆に今度は同学年の綺麗処が沢山居たので其の点では部活は華やかで楽しかった様に思う。又もう一方では動機は何で有ったか?今は思い出せないが何故か学校新聞にも携わり今思い出しても先輩や後輩が居た事を思い出せないのだが?諸中、職員室に入り浸り学校新聞の記事を書いたりガリ版印刷をして居た記憶が有る。其の時の記事の題材や内容に関して学校側から何も干渉が無かったが最終的な仕上がり原稿を担当の先生(国語)に見て貰うのだが其の時に付けられた仇名が「散文の日下」で有った。其の当時から上手下手は別にして与えられた題材に膨らし粉をタップリ入れての作文の書き上げ速度等は誰にも負けなかった記憶が有る。今思い返すと小学校時代に必要に迫れて放送用原稿を書き殴って居た事が自然に訓練と成って居たのだろう。


 此の様な事を書きながら相変わらず「散文の日下」は健在だと思うのだが?兎に角、好き勝手な事を書く事は嫌いでは無かったし苦に成る事は無かった事がブログの継続に一番役立って居る様に思える。此のブログを始めた頃は全体で198万人位が当ブログに其々のブログサイトを持って居りトップから10000位までの毎日のアクセス数が多い順にランキングが発表されていた。勿論、私がブログを開始してから1年過ぎまでは全く此のランキングに登場する事は無かったが2年目を過ぎた辺りから毎日の訪問者が平均で150人位に維持出来る様に成るとランキングで5000番台をキープ出来る様に成ったが昨年の「北海道の旅」約1ヶ月半を終えて帰って来たら(旅の間はインターネットにアクセスできる環境が無いのでブログは休止状態)日々の訪問件数が100から多い時で150人前後にガタ落ちと成って其の後、1年を経過しても其の数字が旅立つ前の状態に返り咲く事は無く低迷している。


 ブログを開始して丸4年で訪問者数は実績は208000(毎日の訪問者数の合計なので当ブログに訪問した本当の人の数は最大でも250~300人くらいと思える)閲覧数は700025ページと成って居り訪問者数は保々予想通りで有ったが閲覧数は目標値の750000ページには遠く及ばなかった。一番の原因はアマチュア無線と言う特殊なジャンルのブログと言う事も有るが其れでも同じ此のブログサイト・ランキングで絶えず1000番台の前半をキープしているアマチュア局のブログ・サイトも有る現実を見ると矢張り書き込み内容が面白く無いか?何か本質的な物が足りないのだろう。


 其れが何かは?今の所解らないし其れを見付ける事が此れからの大きな課題だろうと思い切ってアマチュア無線と言うジャンルの看板を最近に外して再出発をする事を決めた。勿論、私の趣味の中や日常生活の中でのアマチュア無線が占める存在は大きいので記事の内容はアマチュア無線が占めるウエイトは相変わらず高いと思うが他のジャンルにも果敢に挑戦しようと思って居ますので興味が有れば時々此のブログを覗いて貰えれば有難いです。


 現在の此のブログサイトに登録された会員数は既に2200000人強の数字と成っており其の競争率はアマチュア無線の競合どころでは無くまさに熾烈で有る。一年後の訪問者数7万人、閲覧数を25万ページに目標を設定し此れから日々取組んで行こうと気持ちを新たにした。


シュークリームの上手な食べ方話(発想の転換)

2015年07月22日 19時57分34秒 | その他

 私の家内は甘い物も大好き、一番の好物はショート・ケーキなのだが此方は阿南市の中心まで行かないと良い物が手に入らない。家内はコンビニ成る物に最近まで全く立入る事は無かったのだが少し前から青色LEDで有名に成った日亜化学工業の本社前に大きいローソンが出店し(家から500m位)家内の通勤の行き帰りに直ぐ横を通る為に気に成っていたらしい。


 我が息子は此の会社に勤務しているので月に1~2回程、会社の帰り道に母親の御機嫌伺いにスィーツを買って来るのだが結構高額な物を買って家内を喜ばしている。其処で家内はローソンのスィーツは結構美味しい事に気付いた様である。其れまでコンビニ等へは全く足を向けなかったのだが最近は帰り道に時々立寄って息子が買って帰る様な高い物は買わないが手頃なシュークリームを買って帰る様に成った。


 私も甘い物は大好きなので喜んで食べて居るが此のシュークリーム食べ始めの頃は良いのだが半分近くまで食べ進むと中のクリームが皮の外に出て来て口の周りに纏わり付いて食べ難かったり偶にはポトリと落としてしまう事が有って「しまった勿体無い」と思う事が時々ある。此れは誰しも経験ある事と思うが?


 最近、私は家内から其の様に成らない「目から鱗の食べ方」を教えて貰った。其の方法とは?御存知の様にシュークリームの下側は比較的皮が厚く仕上がっている反面上側の皮は焦げ目も少なく薄皮に成って居る。従って通常はシュークリームの上側を上にして食べるのが一般的なのだが其の食べ方を逆に、即ちシュークリーム底の部分(下側)を上に向け上側の皮の部分を下側にして口に運ぶと中身が薄皮の外に出る事無く上手に食べる事が出来る。


 言うまでも無いがシュークリームの形は下側はフラット面で上側は丸みを持って湾曲している。普通に食べると端の方はクリームの量が少ないので問題は無いのだが真ん中程まで食べ進むと量の多いクリームは低い底のフラット部分に向かい流れ出す。此れとは反対に上下を逆にして食べると下側に成った(上側)皮は上に向いた皿状態に成り更に食べ進んでもクリームは外側に向いて流れずに絶えず中央部の凹みの部分に集まるのでクリームを不用意に落とす事無く食べれるし手にクリームが纏わり付く確率も少なく成る。


 シュークリームを見た場合 如何にも上側の皮は薄く反面下側は厚く上側と比較して随分丈夫そうに見えるので人間の心理として薄い上側の皮を下にする事は「破れないだろうか?」と心配するが私が此の方法で食べた時には一度も其の様な失敗は無かった。(結構上側の皮は強い)


 ただ問題なのは此の食べ方は人に寄っては「下品な食べ方」と捉える人が居るかも知れない事と、そうで無くとも一見した所、変った食べ方をしていると思われるかも知れない。

牛歩の歩み(英会話)

2015年07月21日 17時21分39秒 | その他

 今年の正月明けに以前から何十回と「一念発起」しながら途中で毎回挫折を繰り返していた英会話の勉強を始めた。若い頃はレコード盤で始まり其の次はテープでのリスニングに其の後CDに変り最近は超小型のDigital Media Playerを利用すると英会話のCD(再生時間30分程度)が32枚程簡単に録音する事が出来る様に成った。レコード盤やテープの教材等は既に何処に行ったのか?解らない状態に成って居るしラジカセやCD Playerで聞く構えた様な学習方法も煩わしい感じで長続きする事は無かった。


 然し退職して体を動かさ無く成ると激太り解消と健康維持の為に数年前から最低でも5Km程の土手や河川敷を散歩をすると其の時間は約1時間程掛かる。最初は漠然と歩くだけであったが歩く事ばかりに集中して居ると段々と早足に成ったり何かスポーツをして居た時の様に昨日は・・分で歩けたので今日はもう少し時間短縮を計ろうとの思いが段々と強くなり結果として散歩が散歩で無くなって来た感じ、此の歳でいまさら体力や筋力を付ける必要は無く、気晴らしと現在の体力や健康を出来るだけ落とさない様に維持出来れば良いと思って始めた散歩が楽しく無い。


 其処で最初に始めたのは小型のラジオを持ち歩いて聞き始めると此れは此れで楽しかったが或る日「英会話の聞き流しを散歩を利用して遣ってみたら如何だろうか?」と思いついた。何せ散歩の時間は最低でも1時間は掛かるので調度2単位を十分に聞く事が出来るし歩く場所は河川敷で幾ら大声を出しても聞かれる可能性は少ないし同じ散歩中の人と出くわす事が合っても障害物が無いので500m以上前から気付いて対応出来るし、何処かで知った英会話の上達の一番早道は「大声で喋る事」らしが其の事でも幾ら大声を出しても誰からも文句を言われる事は無いので条件的にクリア出来るしそして散歩中は意外と英会話の学習に集中出来る事に気付いた。


 若い頃から何十回と一念発起をしては挫折を繰り返して来た私だったが今年の正月明けから始めた今回の試みは私の日常の行動パターンと旨く合致したのか今月で約7ヶ月間継続出来た。勿論70歳前の習い事、憶えては忘れ憶えては忘れの連続だが「継続は力なり」で効率は頗る悪いがマイナスに成る事は無い。何より毎日聞く習慣が身に付き長時間に渡り聞く事が嫌で無くなったし本当に牛歩の歩みだが最近は其の事が面白く成って来てインターネットに於ける無料の学習サイトを見付けては彼是と挑戦している。


 私が英会話に興味を持ったのは矢張りアマチュア無線で海外局と交信する場合に少し踏み込んだ会話が出来ればもっと世界が広がるのにと思った事、20代の前半から此の事は強く感じながらも怠慢で今日まで達成する事は出来なかった。今学習している段階は英会話では初歩中の初歩のレベルだが多分もう自ら挫折する事は無いと思うので3年後を楽しみに頑張ってみようと思って居る。