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黄昏叔父さんの独り言

 アマチュア無線と何でも有りのブログ

 本日、高知県内の札所の半分が終了

2019年03月08日 | 四国88箇所霊場

 今朝は06時に我家を出発し国道55号線を南下し室戸岬近くにある四国八十八箇所霊場の第24番札所の最御崎寺から高知市内の第34番札所の種間寺まで回って先ほど我家に辿り着きました。走行距離は350Kmを駆け抜けたので先ほど夕食を終えたら疲れで眠くなり此れから寝床に入ります。
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 明後日辺りから高知県内の遍路旅を始める予定

2019年03月06日 | 四国88箇所霊場

   


 今日は終日天気が悪かったので四国巡礼の高知県内の札所を巡る計画を彼是と考えて居ました。高知県は東西に距離が有るので如何しても途中で一泊の必要が在り、取敢えず最初は順番通りの我家から距離の近い室戸市~南国市辺りまでを日帰りで回る予定でコースを考えてみました。予定としては明日から始めようと思って居たのですが明日は未だ日中に雨が降る様な予報なので一応の予定として金曜日に天気が良ければ出掛けてみようと考えて居ます。


 今日も其の行程を彼是と検討しながらBGMとして無線を流して聞いて居ましたが日中の7MHzの国内コンディションも本当に悪く如何しようも無い感じ、夜に成って20時頃から3.5MHz帯で「阿波3コンテスト」に参加して居る県内局の周波数を聞いて居ますが徳島県内局の信号さえノイズに押されて受信出来なく成る状況に驚いて仕舞います。最近は早朝のLow Bandワッチは全く遣って居ませんが其の代わり昼間の7MHz帯や夜の時間帯の3.5MHz帯は結構聞いて居るのですが交信実績は相変らず2月17日から「ゼロ行進」が続いた状態と成っています。
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四国霊場八十八箇所 第23番札所「薬王寺」

2019年03月02日 | 四国88箇所霊場

         


    薬王寺の歴史・由来


 四国霊場 第23番札所「薬王寺」は「発心の道場」といわれる阿波最後の霊場。高野山真言宗の別格本山でもある。厄除けの寺院としては全国的に有名で「やくよけばし」を渡って本堂に向かう最後の石段は「女厄坂」と言われる33段、続く急勾配の石段「男厄坂」が42段で、各石段の下には「薬師本願経」の経文が書かれた小石が埋め込まれており、参拝者は1段毎にお賽銭をあげながら登る光景が見られる。縁起に寄ると、聖武天皇(在位724~49)の勅願に寄って行基菩薩が開創したとされている。弘仁6年(815)弘法大師が42歳のとき自分と衆生の厄除けを祈願して一刀三礼し、厄除薬師如来坐像を彫造して本尊とされ、厄除けの根本祈願寺とした。大師は、此の厄除け本尊の功徳を平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇の三代に相次いで奏上したところ、各天皇は厚く帰依し、厄除けの勅使を下して官寺とされて居る。


 文治四年(1188)の火災で諸堂を焼失しているが、此の時、厄除け本尊は光を放ちながら飛び去り、奥の院・玉厨子山に自ら避難した。後に嵯峨天皇が伽藍を再建し新しい薬師如来像を開眼供養すると、非難して居た本尊が再び光を放って戻り、後ろ向きに厨子に入られた伝えられる。以来、「後ろ向き薬師」として秘仏にされて居る。


 私は3歳くらいの頃か?母親の厄年に此の薬王寺に同行し母親が女厄坂を一段ずつお賽銭を置きながら登っている後を、おぼつかぬ足で石段上に置かれた、お賽銭を一生懸命に集めながらよじ登って居たそうで母親が慌てて、お返ししたが其の時に他の人が捨てた厄を3歳にして一手にお引き受けしたのか?其の後は大した人生は歩めて居ない。其の時の事かどうかは解からないのだが幼児の頃に初めて汽車に乗って薬王寺に出向いた時に客車で無く暗い椅子の無い貨車に何故か乗った思い出と薬王寺の本堂の姿を覚えているが懐かしい薬王寺での思い出と成って居る。


 
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四国霊場八十八箇所 第22番札所「平等寺」

2019年03月01日 | 四国88箇所霊場

        


    平等寺の歴史・由来


 弘法大師が此の地で修行のみぎり空中に5色の霊雲がたなびき、其の中に黄金の梵字が現れました。大師が歓喜して加持されると薬師如来の尊像が現れて光明が四方に輝き、大師がさっそく加持水を求め杖で井戸を掘られたところ、乳の如き白い水が湧き溢れました。其の霊水で身を清められた大師は100日の修行の後に薬師如来像を刻み本尊として安置し、人々が平等に救済される様にとの願いを込められて山号を白水山、寺名を平等寺と定められたのです。


 以後、寺は大規模に栄えましたが天正年間の長宗我部の兵火に寄って焼失し、其の後の江戸時代中期に再興されて現在に至っています。大師が杖で掘られた霊水は男坂の左下に在り、(下段3枚目の写真の石段下の建物部分)どんな日照りにも枯れる事無く、滾々と水は湧き出ております。現在は無色透明で万病に効く「弘法の霊水」として全国に知られて居ます。




        
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四国霊場八十八箇所 第21番札所「太龍寺」

2019年03月01日 | 四国88箇所霊場

         


   太龍寺の歴史・由来


 四国霊場 第21番札所の「太龍寺」は「西の高野」とも称される。四国山脈の東南端、標高618メートルの太龍寺山の山頂近くにある。樹齢数百年余の老杉の並木が天空にそびえ、境内には古刹の霊気が漂う。太龍寺は弘法大師が19歳のころ此の深奥の境内から南西に約600メートルの「舎心嶽」という岩上で、100日間の虚空蔵求聞持法を修行されたという伝えは、大師が24歳の時の著作「三教指帰」に記されて居り良く知られている。虚空蔵求聞持法は、真言を百万遍となえる最も難行とされる修法で、大師青年期の思想形成に大きな影響を及ぼしている。縁起に寄ると延暦12年、桓武天皇(在位781~86)の勅願に寄り堂塔が建立され、弘法大師が本尊の虚空蔵菩薩像をはじめ諸尊を造像して安置し、開創した。山号は修行地の舎心嶽から、また寺名は修行中の大師を守護した大龍(龍神)にちなんで舎心山・常住院・太龍寺と名付けられた。


 此の太龍寺は皇室や武家の尊信が厚く、平安時代の後期には子院12ヶ寺を持つほどに栄えて居た。だが「天正(1573~92)の兵火」からは逃れられなかった。また、江戸時代に成っても幾たびか罹災し、荒廃の途を余儀なくされて居るが、其の都度、時の阿波藩主の保護を受け再建されている。一番最初の写真の仁王門は鎌倉時代の建立で、他の堂塔は江戸時代以降に復興して居る。此の太龍寺は四国巡礼者にとっては屈指の難所であった。この山岳寺院にロープウエーが平成4年に開通し其れまでは中腹の駐車場から本殿までの坂道を登るのに30分以上を要したが最近は直ぐ近くまでロープウエーで結ばれて非常に便利に成って居る。



        


 此の「太龍寺」は我家から偶々、距離的に近い事から今までに数え切れない程、訪れたが行く度事に此の山深い交通の便が悪い場所にどの様にして建立に必要な部材や機材を運び上げたのか?想像するだけでも大変だが人の心の中に生じる信仰心と其の強さに、ただただ驚くばかりである。
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四国霊場八十八箇所 第20番札所「鶴林寺」

2019年02月28日 | 四国88箇所霊場

        


    鶴林寺の歴史・由来


 第20番札所「鶴林寺」は徳島県勝浦町の標高550メートルの鷲が尾の山頂にあり、遠く紀州や淡路の山峰、遥かに太平洋を眺望出来る風光明媚な霊山が境内である。此の付近には樹齢千年を越すような老杉、檜や松の巨木が参道を覆っており、寺門は静かな参道に建ち其の姿は隆盛の面影をしのばせる。寺伝に寄ると延暦17年、桓武天皇(在位781?~806)の勅願に寄り、弘法大師に寄って開創された。大師が此の山で修行して居た時、雌雄二羽の白鳥が、かわるがわる翼を広げて老杉のこずえに舞い降り、小さな黄金のお地蔵さんを守護して居た。此の情景を見て歓喜した大師は、近くにあった霊木で高さ90センチ程の地蔵菩薩像を彫造し、其の胎内に5.5センチくらいの黄金の地蔵さんを納めて本尊とし、寺名を「鶴林寺」にしたという。


 また此の寺の境内の山容がインドで釈迦が説法をしたと伝えられる霊鷲山に似ている事から、山号は「霊鷲山」と定められた。以来、次の平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇と歴代天皇の帰依が篤く、また源頼朝、や義経、三次長治、蜂須賀家政など武将にも深く信仰されて、七堂伽藍の修築や寺領の寄進を受けるなど寺運は大きく栄えた。阿波一体の寺が兵火に遭遇した「天正の兵火」にも山頂の難所に寺があった為か此の難を免れている。




                


 此の「鶴林寺」は我家から可也近く山の麓までは車で8分程の距離に在り年に1~2回は必ず訪れるが険しい山道を登り駐車場で車を降りると200メートルの歩きが有るが途中の山門をくぐると境内は綺麗に掃き清められ然も辺りの凛とした空気に触れると自然に心が清められる感じに成り私の好きな場所である。此の「鶴林寺」と次の札所の「太龍寺」は何時も身近に感じながらもお遍路として納経に改めて訪れたのは初めての事であった。     
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四国八十八箇所霊場 第19番札所「立江寺」

2019年02月28日 | 四国88箇所霊場

        


  立江寺の歴史・由来


 立江寺は高野山真言宗の別格本山「四国の総関所」として四国八十八箇所の根本道場といわれ、また「阿波の関所」としても知られている。縁起に寄ると聖武天皇(在位724~49)の勅願で行基菩薩に寄って創建された。勅命に寄り行基菩薩が光明皇后の安産を祈るため、念持仏として5.5
センチ程の小さな黄金の「子安の地蔵さん」を彫造した。此れを「延命地蔵菩薩」と名付けて本尊にし、堂塔を建立したと伝えられて居る。弘仁6年(815)弘法大師が此の寺を訪れ此のご本尊を拝した時、大師は余りにも小さなご本尊なので、後世に成って失われる恐れが有ると、自ら一刀三礼をして新たに1.9メートルある大きな延命地蔵像を彫造され、其の胎内に行基菩薩が彫ったご本尊を納められた。此の時に寺名を「立江寺」と号した。当時の寺は現在地より西へ400メートル程の山寄りの景勝地にあって七堂伽藍を備えた巨刹で在ったと言われて居る。


 此の立江寺も「天正の兵火」を逃れられず、壊滅的な打撃を受けた。だが本尊だけは奇しくも難を免れている。阿波藩初代藩主・蜂須賀家政公の篤い帰依を受け現在の地に移って再建された。また昭和49年の祝融の災いにもご本尊は救い出されている。昭和52年に再建された本堂の格天井画(286枚)は、東京芸術大学の教授に寄り花鳥風月などが描かれて居り、観音堂の絵天井とともに昭和の日本画を代表する文化財と高く評価されて居る。寺伝の「釈迦三尊図」は国の重要文化財指定品で邪悪な心を裁く関所寺の半面、「子安の地蔵」「立江の地蔵さん」と親しまれ今日に至って居る格式高い寺と成って居る。


 此の立江寺のある立江町は近在では珍しい門前町で毎年2月の後半(今年は23~25日)に開かれる初会式・大植木市は近在の行事としては最大の物で私の実家からは4Kmも離れて居たが小さい子供が此の距離を厭わず100円札を握り締め行きは「何を買おうか?」の楽しみで意気揚々なのだが目的を達した後の帰り道は疲れて長かった事など、懐かしい思い出が沢山残って居る。当時(昭和30年頃か?)は余り楽しみの無い時代であったが人家が無い山際の田んぼ道を通り立江寺に入る数百メートル手前から今は余り見ることの無い「芋飴」「板飴」の露店が沢山並び、他に玩具の露店や、覗き窓や、大きい球状の網の中でオートバイの曲芸が行われたりして大変賑わって居た。此の歳に成っても其の時以上の露店の賑わいを見る事は無く、子供にも大人にも此の「立江のお地蔵さん」は当時では一大イベントであった。



        


 其の後の火災で立江寺の境内の様子は私が子供の頃の立江寺の印象とは少し違うが幼児の頃に婆さんに手を引かれて写真の山門を潜った時に「賢い子にしていなかったら仁王さんに怒って貰うよ!」と言われ顔を覗き込んで其の怖さにビビッテ仕舞った事や少し改修されたのか?綺麗に成った多宝堂だけは昔と同じ場所に在り小さい頃に見た印象と一致して居た。然し当然と言えば当然だが此の頃の懐かしい思い出は立江寺に行く事では無く、非常に賑やかだった露店での楽しい買い物の思い出である。



        
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四国八十八箇所霊場 第18番札所「恩山寺」

2019年02月28日 | 四国88箇所霊場

          


   恩山寺の歴史・由来


 恩山寺は小松島市郊外の小高い山の樹林が心地良い、県指定の風致地区にある。縁起を辿ると、創建は聖武天皇(在位724~49)の勅願に寄り、行基菩薩が草創して、当時は「大日山福生院密厳寺」と号した。本尊は行基菩薩が薬師如来像を彫造して安置し、災厄悪疫を救う女人禁制の道場であった。当時、十九番霊場に向かって下る「花折り坂」と云う坂から上には、女性が入る事は許されて居なかった。延暦年間になって、弘法大師が此の寺で修行して居た頃、大師の生母・玉依御前が讃岐の善通寺から尋ねて来た。だが寺は女人禁制、大師は山門近くの瀧にうたれて17日間の秘法を修し、女人解禁の祈願を成就して母君を迎える事が出来た。やがて母君は剃髪をして、其の髪を奉納されたので、大師は山号寺名を「母養山恩山寺」と改め自像を彫造して安置され「我が願いは末世薄福の衆生の難厄を除かん」と誓われた。弘仁5年(814)頃の事と伝えられて居る。


 寺は「天正の兵火」で焼失して居るが、江戸時代に成って阿波藩主の庇護を受けて繁栄し、現在の本堂や大師堂は文化・文政年間(1804~30)頃に建立された由緒ある建造物で、境内には玉依御前を祀る小堂があり、母君に孝養をつくして、大師が植樹した「びらんじゅ」は県の天然記念物に成って居る。


 第13番札所の「大日寺」から第17番札所の「井戸寺」までは徳島市の街中に寺院が建っていたが此の恩山寺は小松島市内の静寂な山間に在って落ちついた雰囲気の中に私達は佇む事が出来た。
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四国霊場八十八箇所霊場 第17番札所「井戸寺」

2019年02月27日 | 四国88箇所霊場

        

 井戸寺の歴史・由来


 7世紀後半の白鳳時代は、清楚な日本文化が創造された時代で、律令制が漸く芽生えて、阿波の国にも国司がおかれた。此の国司に隣接して、天武天皇(在位673~86)が勅願道場として建立したのが井戸寺であり、当時の寺名は「妙照寺」であった。寺域は広く八町四方、此処に七堂伽藍の他に末寺十二坊を誇る壮大な寺院があり隆盛を極めたと伝えられて居る。本尊は、薬師瑠璃光如来を主尊とする七仏の薬師如来坐像で、聖徳大使の作と伝えられ、また脇仏の日光・月光菩薩は行基菩薩の彫造と伝えられる。後の弘仁6年(815年)に弘法大師が此れ等の尊像を拝む為に訪れた時に檜に像高1.9メートルの十一面観音像を彫って安置されて居る。此の像は右手に錫杖、左手に蓮華を挿した水瓶を持った姿形で、現在、国の重要文化財に指定されて居る。大師はまた、此の村が水不足や濁り水に悩んでいるのを哀れみ、自らの錫杖で井戸を掘ったところ、一夜にして清水が湧き出した。其処で付近を「井戸村」と名付け、寺名も「井戸寺」に改めたという。


 ただ南北朝時代以降の寺史は激変し、先ず貞治元年(1362年)、細川頼之の兵乱で堂宇を焼失し、次いで天正10年(1852年)には三次存保と長宗我部元親との戦いでも罹災して居る。本堂が再建されたのは江戸時代の万治4年(1661年)であった。七仏薬師如来は全国的にも珍しく、七難即滅、七福即生などの開運に信仰が多い。


        



                


 此の寺は付近に人家が在りながらも広大な境内に仁王門、本堂、大師堂、鐘楼堂と何れをとっても堂々とした立派な建物で此の日に訪れた札所の中では随一であった。


 此処まで第1番札所から第16番札所まで巡礼した寺の中で可也の数の寺が戦国時代に四国を統一しようとした土佐の長宗我部氏に寄って戦火に巻き込まれて寺院を含む大変貴重な文化遺産が多数焼失して仕舞って居る。戦は致し方が無いにしても寺を焼き討ちにする必要が在ったのか?私感だが仏罰が当たったのか?良い最後は迎えられなかった様である。
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四国88箇所霊場 第16番札所「観音寺」

2019年02月27日 | 四国88箇所霊場

        


 四国霊場第16番札所「観音寺」此の寺の縁起によれば観音寺が弘法大師によって創建され、大師自ら千手観音像を彫造して本尊にした事、また脇像に悪魔を降伏する不動明王像、鎮護国家の毘沙門天像を刻んだ事や、阿波藩主の蜂須賀綱矩公が新築、移転に協力した事などが詳しく記されている。此の縁起とは別に、寺伝では聖武天皇(在位724~49)が天平13年、全国68箇所に国分寺・国分尼寺を創建した時に、行基菩薩に命じて勅願道場として建立した由緒ある古刹とされて居る。弘法大師が此の地を訪ねているのは弘仁7年(816年)の頃で本尊などを彫造し再興し現在の寺名を定めたとされている。


 其の後、他の阿波各地の霊場と同じ様に栄枯盛衰の運命を歩み「天正の兵火」(1573~92)にも罹災、蜂須賀家の帰依を受けて万治2年(1659年)に再建、現在に至り遍路道に面した和様重層の鐘楼門は(最初の写真)昔の面影を残し堂々とした風格がある。現在は近隣に人家が建ち並び駐車場に苦労すると思ったが直ぐ東隣に駐車場があり安心してゆっくりと納経をする事が出来た。
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四国霊場八十八箇所 第15番札所「國分寺」

2019年02月25日 | 四国88箇所霊場

      


 四国霊場には四県に国分寺があり、其の最初の札所が「阿波国分寺」である。仏教に篤く帰依した聖武天皇(在位724~49)は、天平13年に国家の安穏や五穀豊穣、政教一致、地方文化の向上などを祈って、勅命に寄り全国68箇所に国分寺、国分尼寺を創建した。奈良・東大寺は其の総国分寺とも言われている。


 縁起によると、阿波国分寺には聖武天皇から釈迦如来の尊像と「大般若経」が納められ、本堂には光明皇后のご位牌厨子を奉祀されたと伝えられて居る。開基は行基菩薩で、自ら薬師如来を彫造し本尊としている。創建当時は奈良の法隆寺や薬師寺、興福寺と同じ南都の学派に属する法相宗であり、寺領は二町四方で、此処に金堂を中心に七重塔も建つ壮大な七塔伽藍が整って居たといわれている。


 弘法大師が弘仁年間(810~24)に四国霊場の開創のために巡教された際に、宗派を真言宗に改めている。其の後に「天正の兵火」に寄って境内は相当に衰微したが寛保元年(1741年)に阿波藩郡奉行、速水角五郎に寄って伽藍が再建されて以来、現在の禅宗・曹洞宗寺院となっている。


      


 私達が訪れた時は本堂の工事中で三番目の写真の仮納経所での納経となったが境内は綺麗に掃き清められて塵一つ落ちていなかったし写真の様に木々も綺麗に剪定されていた。此の寺の本堂の左右には桃山時代(1573~98)の作庭と言われる築山、泉水、枯れ山水が在るらしいが(平成12年に国の名勝に指定された)非公開で見られないのが残念で成らない。
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 四国88箇所霊場 第14番札所「常楽寺」

2019年02月24日 | 四国88箇所霊場

            


 四国霊場第14番札所の「常楽寺」は四国霊場の中で唯一、弥勒菩薩を本尊として居る。弥勒菩薩は56億7千万年の後まで、衆生の救済を考え続けて出現するといわれる未来仏である。特に京都・広隆寺の国宝で、片膝を立てて頬を右手で支えて考えて居るお姿の弥勒像は、其の優しいお顔の表情が美しく、お大師様とともに光明を授けてくれる様な仏といえよう。


 此の寺の縁起では、弘法大師が42歳の厄年の頃、此の地で真言の秘法を修行して居た時に、多くの菩薩を従えて化身した弥勒さまが来迎されたという。大師は直ぐに感得し、そばの霊木に其の尊像を彫造し、堂宇を建立して本尊にした。此の本尊について大師は、御遺告の一説に「吾れ閉眼の後、兜率天に往生し弥勒慈尊の御前に侍すべし、56億余の後、必ず慈尊と御共に下生し、吾が先跡を問うべし・・・」と触れられて居る事からも、常楽寺への篤い思いが偲ばれる。


 後に大師の甥・真然僧正が金堂を建て、また高野山の再興で知られる祈親上人に寄って講堂や三重の塔、仁王門などが建立されて七堂伽藍がそびえる大寺院となった。室町時代には阿波守護大名の祈願所にも成って居るが「天正の兵火」により焼失して居る。だが江戸時代初期には復興、後期の文化15年(1818年)に低地の谷地から石段を約50段のぼった現在地の「流水岩の庭」近くに移っている。本堂前の境内は奇形な岩盤の断層が重なる「流水岩の庭」があり他には無い様式で自然な美しさに溶け込む魅力を醸し出していた。


 私達は此の日は第13番札所「大日寺」を出て鮎喰川南岸に沿って1Km程、東に向かって走り左に見えた一宮大橋を渡り北岸側を少し東に走ったらナビ画面は左折して北方向の細い道を指示したので車を進めたが私達の不注意で常楽寺の直ぐ傍まで行きながら左折して寺の駐車場に向かう所を直進して仕舞った為に少し道に迷った結果、本来の進入路の反対側から寺に向かって進んだので奥手側の写真の「放生の池」の横に車を停車して池をゆったりと泳ぐ水鳥を見る事が出来た。此処でも遍路姿の人は全く見掛け無かったので「焼山寺」「大日寺」に続き此の寺でも此の日一番の納経に成ったのではないか?と思う。此の日は朝の出発が早かったので本堂で納経の際にも人が居なかったので他の人達を気にする事無くゆっくりと納経を済ませる事が出来た。



    
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四国八十八箇所霊場 第13番札所「大日寺」

2019年02月24日 | 四国88箇所霊場

    


 早朝の「焼山寺」の納経が終わって名西郡神山町から鮎喰川に沿って可也の距離を東進して漸く徳島市に入った。此の徳島市内には5箇所の霊場があり其の中で鮎喰川を渡った平地に第13番札所の「大日寺」がある。車の往来が激しい県道の反対側が、かつての阿波の総鎮守で在った一の宮神社と成って居る。開基は弘法大師とされ、縁起に寄ると「大師が森」と云う此の地で護摩修法をされていた際に空中から大日如来が紫雲と供に舞い降り「此の地は霊地なり 心あらば一宇を建立すべし」と告げられた。大師は早速に大日如来像を彫造して本尊とし、堂宇を建立し安置したと伝えられている。寺名の由来も此の縁起による。境内は老樹に覆われ密教寺院の雰囲気を漂わせて居るが、戦国時代には「天正の兵火」により堂塔は全て罹災している。其の後、江戸時代の前期に阿波3代藩主、蜂須賀光隆公に寄り本道が再建され、諸国に国の総鎮守、一の宮が建立された時には、其の別当寺として同じ境内にあり管理に当たっていた。ただ一の宮の本地物は行基菩薩作の十一面観音像とされており、同じ境内であった為に江戸時代には一の宮神社が札所であり、納経所として参拝されて居た様である。


 其の後、明治の神仏分離令により神社は独立し、一宮寺は大日寺と元の寺名に変えたが、元々、此の寺にあった大日如来像は脇仏となり、十一面観音像が本尊として祀られている。宗教的に考えると少し不思議な感じもするが?何れの地を訪れても神社と寺院が同じ場所に隣同士に建って居る事は子供の頃から見慣れて居る事で違和感は全く感じない。日本人の心には仏と神が融和して居る。


 私が此の寺に訪れたのは初めてであったが仕事柄、此の寺の前の道路を通る事は結構多くて私が自動車免許を取り立ての20歳に(50年前)寺の前でダンプカーと思わず正面衝突を仕掛け、僅か残り1m以内の処で双方のブレーキが効き車が止まって事無きを得た事があった。此れは私の長い運転歴の中でも一歩間違って居たら死亡して居たかも知れない一番恐ろしい思い出だが、神仏の御蔭で助かったと思った。其の後に何回と無く此処を通過する度に心の中では何時も感謝して居たが50年後の今回、70歳に成って漸く納経と助けられた事のお礼に行く事が出来た。
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 四国八十八箇所霊場 第12番札所「焼山寺」

2019年02月23日 | 四国88箇所霊場

        


 焼山寺山は(標高938mH)の8合目付近にあり、四国霊場で2番目に高い山岳札所。剣山や白髪山などの四国山脈の山々が広がる眺望は素晴らしい。四国霊場には「遍路ころがし」といわれた札所が幾つかあるが、焼山寺も其の一つで、昔から険しい坂道の難所を辿る「修行の霊場」で在った様だ。現在は山上まで狭いが舗装された車道が通って居る。此の寺の縁起に寄ると飛鳥時代に役行者が山を開いて、蔵王権現を祀ったのが寺の始まりとされて居る。処が此の山には神通力を持った大蛇が棲んでおり、しばしば火を吐いて農産物や村人達を襲っていた。弘仁6年頃、弘法大師が此の地を巡られた時、一本杉で休んで居た処、阿弥陀様が現れた夢を見た。目を覚ますと目の前が火の海に成っている。其処で麓の垢取川で身を清めて山に登ると、大蛇は全山を火の海にして妨害した。大師は真言を唱えながら進んだら、大蛇は山頂近くの岩窟で姿を現した。大師は一心に祈願し、虚空菩薩の御加護のもと其の大蛇を岩窟に封じ込めた。そして自ら彫られた三面大黒天を安置し被害を受けて居た民家の大衆安楽と五穀豊穣を祈った。また山は焼山と成ってしまったので「焼山」の寺名と成ったと云う。其の後の鎌倉時代の後期には後醍醐天皇(在位138~39)の勅願書と成って居る。境内には樹齢数百年の杉の巨木(県の天然記念物)が並び巡礼者を迎えて居る。


 此の寺には2年位前に訪れた事があり急勾配の細い山道の途中で何回か送迎用のマイクロ・バスとの対向時に手間が掛かったので此の焼山寺に向かった日は朝の06時に起きて山頂の駐車場には07時過ぎ頃には到着した関係で途中での対向車は1台も居なかったが山頂の駐車場には県外の乗用車が既に1台停まっていた。如何やら皆さん考える事は同じ様だ。到着は向こうの方が早かったが休憩して居るのか周囲には人影は無かった。


 其れから良くは解からないが道幅の関係で大型観光バスは登れ無いのか?下の平地にマイクロバスが何台か居て其処で乗り換えている感じがする。従ってタイミングが悪いと此のマイクロバスと顔を付き合わせる事に成り多勢に無勢では此方がバックせねば成らないので結構面倒くさい事に成り、歩きで行くのも大変だが車を利用した遍路でも結構大変な場所である。此処は可也高い山なので道路の凍結や積雪がある事を心配して臨んだが此の日は其の心配は全く無かった。


 此処では家内と供に本堂で納経を済ませ納経所で掛軸と納経帳に納経した印を貰う心算で行ったら未だ準備中で納経所が開いて居らず暫く待って準備出来次第の一番乗りと成って四国霊場の12番目で初めて其の日の一番最初の納経と成った。


        















































































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四国八十八箇所霊場 第11番札所「藤井寺」

2019年02月16日 | 四国88箇所霊場

        


 四国88箇所霊場 第11番札所の「藤井寺」は三方を山に囲まれ渓流の清らかな場所にあり、此の仙境に心を惹かれた弘法大師は此の地で護摩修法をされたのは弘仁6年の事と伝えられて居る。此の年は大師42歳の厄年に当たり、自らの厄難を祓い、衆生の安寧を願って薬師如来像を彫造して堂宇を建立した。其の地から凡そ200メートル上の8畳岩に、金剛不壊と言われる堅固な護摩壇を築いて、一七日間の修法をされた。其の堂宇の前に5色の藤を植えたという由来から、金剛山藤井寺と称される様に成った。


 此の寺は、真言密教の道場として栄え、七堂伽藍を構える壮大な大寺院と発展したが天正年間(1573~1592年)の兵火に寄り全山を消失、江戸時代初期まで衰微した。其の後、延宝2年(1674年)に阿波藩主が帰依して居た臨済宗の南山国師が入山して再興し、其の折に宗派を臨済宗に改めている。天保3年(1832年)に再び火災にあい本尊以外の伽藍は全て焼失した。現在の伽藍は万延元年(1860年)に再建された物で本尊は「厄除け薬師」と親しまれており国の重要文化財に指定されて居る。


 阿波の霊場の第1番札所から此の第11番札所の藤井寺までは其々の寺と寺との距離が極端に離れていないが藤井寺と第12番札所の焼山寺への遍路道は細く険しい山道で約13Kmもあり男性の歩きで8時間、女性の歩きだと9時間掛かる程で「遍路ころがし」と言われる遍路の難所と成って居る。私達は車で廻ったが其れでも可也の時間が掛かる行程であった。
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