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黄昏叔父さんの独り言

 アマチュア無線と何でも有りのブログ

四国八十八箇所霊場 第57番札所「栄福寺」

2019年03月25日 | 四国88箇所霊場

        


     栄福寺の歴史・由来


 栄福寺のある瀬戸内海沿岸の此の近海では海難事故が絶えなかった。栄福寺は弘法大師が海神供養を修した事から、海陸安全、福寿増長の祈願寺として往古から信仰されていた。


 縁起に寄ると嵯峨天皇(在位809~23)の勅願により、大師が此の地を巡教したのは弘仁年間であった。内海の風波、海難の事故の平易を祈って府頭山の山頂で護摩供を修法された。その満願の日、風波はおさまり、海上には阿弥陀如来の影向が漂った。此の阿弥陀如来の尊像を府頭山頂まで引き揚げて堂宇を建て、本尊として安置したのが創建といわれ、勅願寺とされた。


 栄福寺には神仏混合の歴史もあり、その由来も平安時代に遡る。定観元年(859)大和・大安寺の行教上人が宇佐八幡(大分)の霊告を受けて、その分社を山城(京都)の男山八幡(石清水八幡)として創建する為、近海を航行中に暴風雨に遭い此の地に漂着した。ところが府頭山の山容が山城の男山に似ており、しかも本尊の阿弥陀如来は八幡大菩薩の本地仏でもある事から、境内に八幡明神を勧請して社殿を造営、神仏合体の勝岡八幡宮を創建したと伝えられる。此の八幡宮は「伊予の石清水八幡宮」とも呼ばれ「四国五十七番」と仲良く寺社名を刻んだ石塔の道標が立って居る。明治新政府の神仏分離令により、寺は旧地から山の中腹になる現在地に移転し、神社と寺は其々に独立した。三番目の大師堂は山頂にあった堂舎を移築した由緒がある。


 此の寺に到着したのは3月15日の納経所の締め切り少し前の時間帯で他のお遍路の姿は無く、私達の様なお遍路の初心者でも周囲に気兼ねする事無くゆっくりと納経する事が出来た。何せ、たどたどしい私達の般若心経では一寸肩身の狭い状態なのだが他の人が居なければ安心して行う事が出来る。


 


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四国八十八箇所霊場 第56番札所「泰山寺」

2019年03月24日 | 四国88箇所霊場

         


    泰山寺の歴史・縁起


 泰山寺には水難で人命を失う悪霊のたたりを鎮めた伝説が根強く残って居る。弘法大師が此の地を訪れたのは弘仁6年の頃、蒼社川と云う川が此の地方を流れており毎年梅雨の季節に成ると氾濫して田地や家屋を流し人命を奪っていた為、村人は恐れ苦しみ、人取川といって悪霊の仕業と信じ込んでいた。此の事情を聞いた大師は村人達と堤防を築いて「土砂加持」の秘法を七座にわたり修法したところ、満願の日に延命地蔵菩薩を空中に感得し治水祈願が成就した事を告げた。


 大師は此の修法の地に「不忘の松」を植えて、感得した地蔵菩薩の尊像を彫造して堂舎を建てて「泰山寺」と名付けた。此の寺名は「延命地蔵経」の十大願の第一「女人泰産」から取ったと伝えられ「泰山」にはまた寺があった裏山の金輪山を死霊が集まる泰山になぞらえ、亡者の安息を祈り、死霊を救済する意味もあるという。


 寺は其の後、淳和天皇(在位823~33)の勅願所と成り、七堂伽藍を備えて、塔頭に地蔵坊、不動坊などの10坊を構える程の巨刹として栄えた。だが度重なる兵火に寄り寺の規模は縮小し、金輪山の山頂にあった境内が麓の現在地、大師のお手植えの「不忘の松」の在った所に移ったと伝えられて居る。



         



 今回の巡礼は15日に第59番札所「国分寺」~第57番札所「栄福寺」を巡り西条市で一泊し翌朝の朝一番に此の泰山寺からスタートした。天気は上々で抜ける様な青空に菜の花や梅の花や早咲きの桜がチラホラと咲き始め春の陽気の中でのお遍路旅と成ったが気候が良く成った性か?道中に歩いてのお遍路旅の方々の姿が多く見られた。此処から此の後の第50番札所「繁多寺」までは逆回りと成ったのでブログでは時間の経過が逆に成っています。
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四国八十八箇所霊場 第55番札所「南光坊」

2019年03月23日 | 四国88箇所霊場

        


    南光坊の歴史・縁起


 四国霊場の中で寺名に「号」がつく寺院は此の南光坊だけで、正式には光明寺金剛院南光坊という。今治市の中心街にあるが起源は古く、航海の神、総鎮守・伊予一の宮の大山祇神社と深く関わる歴史があるという。


 縁起によると、大宝3年、伊予水軍の祖といわれた国主・越智玉澄公が、文武天皇(在位697?~707)の勅をうけて大山積明神を大三島に勧請し、大山祇神社を建てた際に法楽所として24坊の別当時を建立した事が創始といわれる。此れ等の別当院は翌々年、海を渡っての参拝が不便な事から現在の今治市に移されているが、和銅元年(708)に行基菩薩が24坊の内の8坊を「日本総鎮守三島の御前」と称して奉祭した。更に弘法大師が此の別当寺で法楽(お釈迦様が悟りを開いた後で1週間、自分の悟った法を回想して楽しんだ事が原義で仏の教えを信受する喜び)をあげて修法され、霊場に定められた。


 後に、伊予全土に及んだ「天正の兵火」に寄り、社殿・伽藍はことごとく焼失したが南光坊だけが別宮の別当寺として再興された。慶長5年(1600)には藤堂高虎の祈願所として薬師堂を再建、また江戸時代には藩主・久松公も祈祷所にして信仰し、際祀料を奉納している。更に時代が下がり、明治初年の廃仏毀釈(明治で起こった神仏分離で仏教を排除しようとする運動)本地仏として社殿に奉安していた大通智勝如来と脇侍の弥勒菩薩像、観音菩薩像を南光坊薬師堂に遷座し、別宮大山祇神社と明確に分離した。


 太平洋戦争の最末期の昭和20年8月の空襲に寄り大師堂と金比羅堂を残し罹災した。現在の本堂は昭和56年秋、薬師堂は平成3年春に、山門は同10年に再建されている。


 写真は山門、本堂、大師堂、金比羅堂(讃岐の金比羅宮から歓請している金比羅大権現を祀る堂)


 

        


 四国霊場の山門や仁王門などの各像は国宝や重要文化財に指定されている物が多く色んなトラブルから守る為に各種対策がとられ殆どの場合、直接に像を写真に撮る事は難しいのだが此の南光坊は其れが出来たし、山門に四天王の持国天・多聞天・広目天・増長天像があった。


 持国天は梵語でドリタラーシュトラ(国を支える者)の意味で大威徳を持ち帝釈天の配下であり四天王の一体で東方を護る守護神です。


 多聞天は梵語でヴィイシュラヴィアナと云われ我々には毘沙門天と云う方が馴染みがあり多聞天は北方を護る守護神で此の北方は仏教では鬼門でであり其の重要な北方を担う事からインドでは守護神のリーダーとして任命されていた模様、



 広目天は梵語でヴィルーバークシャと言われ「尋常でない眼、特殊な力を持った眼」の意味で「千里眼」と拡大解釈され其れを広目と漢約された四天王の一体で西方を護る守護神とされる。


 増長天は梵語でゾウチヤウーと云われ「増大したもの・成長したもの」と云う意味の言葉でその意味から「増長天」と漢訳され四天王の一体で主に南方世界の守護神で像は赤色で甲冑を着け普通は右手に鉾を持ち左手は腰に当てる姿をして居る。
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四国八十八箇所霊場 第54番札所「延命寺」

2019年03月22日 | 四国88箇所霊場

         


    延命寺の歴史・縁起


 今治の市街地から西北へ6Km程のところに、延命寺の山号にも成って居る近見山という標高244mの山がある。此の山頂一帯に七堂伽藍を連ね谷々には100坊を数えていたのが延命寺であったと伝えられている。


 縁起に寄ると、養老4年に聖武天皇8在位724~49)の勅願により行基菩薩が大日如来の化身とされる不動明王を彫造して本尊とし、伽藍を建立して開創した。弘仁年間(810~24)に成って弘法大師が嵯峨天皇(在位809~23)の勅命をうけ、伽藍を信仰と学問の中心道場として再興、勅願書とした。此の寺名は第53札所の円明寺と同じであった為に間違いが多く、江戸時代から俗称として来た「延命寺」に改めている。


 其の後、再三火災に遭い堂宇を焼失して居るが、再興を繰り返し、享保12年(1727)に難を免れた本尊とともに現在の近見山麓へ移転した。此の間、鎌倉時代の文永5年(1268)華厳宗の学僧・凝然(1240~1321)が寺の西谷の坊に籠り、初学者の仏教入門書といわれる「八宗綱要」を著述した。「八宗」とは倶舎・成実・、律・法相・三論・天台・華厳の各宗と新しく興った浄土宗で、上下2巻に記されて居る。寺には四国で2番目に古い真念の道標が残されており、境内に馬酔木の木があり春の彼岸ごろから1ヶ月ほど可憐な白い花をつけている。  


      
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四国八十八箇所霊場 第53番札所「円明寺」

2019年03月21日 | 四国88箇所霊場

        



        



      円明寺の歴史・縁起


 円明寺にはアメリカ人巡礼者が発見した四国霊場最古の銅板納札が保存されて居る。大正13年3月、シカゴ大学のスタール博士が四国遍路をして居る途次、寺の本尊・阿弥陀如来像を安置している厨子に打ち付けてあったのを見付けた。江戸時代の初期にあたる慶安3年(1650)の銘があり、たて24cm、幅が9.7cm、厚さ薬1mmで破損の無い納札としては、現在最古で例のない銅版製である。奉納者の樋口平人家次は、京都・五智山蓮華寺の伽藍を再興して、五智如来石仏を造立した事などで知られるが、此の納札で特に注目されるのは初めて「遍路」の文字が記入されて居ることでもある。



 縁起によると天平勝宝元年、聖武天皇(在位724~49)の勅願により、行基菩薩が本尊の阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩、勢至菩薩像を彫造して安置、七堂伽藍を備えた大寺として建立したのが創建とされて居る。当時は和気浜の西山と云う海岸にあり「海岸山・円明密寺」(円の字はくにがまえの古い漢字を使用、漢字変換出来なかった)と称したという。のちに弘法大師が荒廃した諸堂を整備し、霊場の札所として再興したが、鎌倉時代に度重なる兵火で衰微、元和年間(1615~24)に土地の豪族・須賀重久によって現在地に移された。さらに寛永13年(1636)京都・御室の覚深法親王からの令旨により仁和寺の直末として再建され、寺号も其の時に現在の様に改められている。此の寺には聖母マリア像を浮き彫りにしたキリシタン灯篭がありキリシタン禁制の時代、此の地方には信者が多く居て寺では隠れ信者の礼拝を黙認して居た事を伺わせている。 (下段3番目の写真)また本堂の右上の鴨居には左甚五郎作の龍の彫り物があり行いが悪い人が此の龍を見ると目が光ると云われて居る。


 此の日のお遍路は実は今治市の第56番札所の「泰山寺」ら始まり当初は予定に無かった松山市内の札所を逆に回る事に成りカーナビの検索に使う電話番号を事前に調べてメモして居なかった。(予定は今治市から伊予、西条市の札所を順に回る予定であった)私は円明寺を(えんめいじ)と読んでカーナビに名称検索で入れて高速道路優先でガイド案内を開始してスタートし暫くして高速道路に入ったら、やがて高い橋脚が見えて来たので「あれ?しまなみ街道(本四橋)に入って仕舞った!」とビックラコン状態に・・・・・・・


 こうなると如何する事も出来ずに最初の馬島で高速道路を降りて直ぐに今治方面に引き返す事に成ったが往復で高速料金の1960円がパァ~と成って仕舞った。今治で高速を降り、カーナビの電話番号検索を利用して円明寺に向かう為に番号案内の104に電話を入れ愛媛県の53番札所の円明寺(えんめいじ)の電話番号を教えて貰おうとしたらオペレーター(全国対応の為か?)が「松山市の詳しい住所は?」と聞いて来たので「其れが解かってたら番号案内などに電話入れへんわ!」と心で思いながらも大人しく「四国霊場第53番札所で解からないですか?」と聞き返したら「円明寺(えんめいじ)では在りませんが、えんみょうじ、なら御座います。」と返って来て重なる失敗に「アリャリャ~の巻」と成った。


 電話番号が解かれば此方のもの、直ぐにカーナビに電話番号を打ち込んで出発、今度は高速道路利用で無い下道のコース案内が始まり、少しは無駄な料金の取り返しと此のルートに「道の駅 ふわり」があった為に、何せ道の駅が大好きな女性陣は大喜び!早速に物産売り場に直行し色んな買い物と昼食が出来た事で私の失敗は幾分帳消しには成ったが肝心要の札所の読み方を間違える等、お遍路をする身としては在っては成らない大失敗を遣らかして仕舞った。


 

 
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四国八十八箇所霊場 第52番札所「太山寺」

2019年03月20日 | 四国88箇所霊場
 
        


     太山寺の歴史・由来


 太山寺の開基とされる真野長者が一夜にして御堂を建てたという縁起は興味深い。長者は豊後(大分)で「ふいごの炭焼き」をしていたが、神のお告げで久我大臣の娘、玉津姫と結婚、以来、運が開けて大富豪となった。用明2年(587)商いの為に船で大阪に向かう時に大暴風雨に遭い、観音さまに無事を祈願したところ、高浜の岸で救われた。此の報恩にと一宇の建立を大願し、豊後の工匠を集めて間口66尺、奥行き88尺の本堂を建てる木組みを整えて船積みした。順風を受けて高浜に到着、夜を徹して組み上げ、燦然と朝日が輝く頃に本堂は建ち上がった。以来「一夜建立の御堂」と伝えられて居る。


 其の後、天平11年(739)に聖武天皇(在位724~49)の勅願を受けて、行基菩薩が十一面観音像を彫造し、其の胎内に真野長者が瀧雲山で見付けた小さな観音像を納めて本尊にしたという。寺が隆盛したのは孝謙天皇(在位749~58)の頃で、七堂伽藍と66坊を数えるほど壮観であった。弘法大師は晩年の天長年間(824~34)に訪れ、護摩供の修法をされて、それまでの法相宗から真言宗に改宗している。


 後の後冷泉天皇(在位1045~68)をはじめ、御三条、堀川、鳥羽、嵩徳、近衛の6代に渡る各天皇が、十一面観音像を奉納されて居る。何れも像高は150cm前後で、本尊の十一面観音像と共に国の重要文化財、本堂内陣の厨子に安置されて居る。境内の現本堂は長者の建立から3度目だが、真言密教では最大規模を誇り国宝である。



          


 私達は仁王門を少し過ぎた駐車場に車を入れ引き返して仁王門から入って本堂方面へと進んだが此れが勾配のある坂道で結構大変であった。大日如来の石像の辺りで遅れた家内達を待って最後の急な石段を上り山門をくぐると正面に今までの札所では見た事の無い様な大きな本堂が正面に現れた。上段の写真を見れば解かる様に横幅、奥行き共にあり流石に国宝に成って居る事が理解出来る。また本堂内には6代に渡る天皇から奉納された貴重な十一面観音像がある為か?其の為の対策が十分されてる為に中に入る事は出来なかったが此れは致し方ない。一つ手前の札所の第51番札所の「石手寺」も大きい規模の寺院であったが「太山寺」は山自体が寺所か?其の境内は広く立並ぶ御堂はすべて壮観で印象に残る寺院であった。 

 


        
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四国八十八箇所霊場 第51番札所「石手寺」

2019年03月19日 | 四国88箇所霊場

        


    石手寺の歴史・由来


 石手寺は日本最古と云われる道後温泉の近く。参道が回廊形式となり仲見世の土産店が並ぶ。境内は、巡礼者よりも地元のお大師さん信者や観光客が多い霊場である。


 其のもう一つの要因は、境内の殆どの堂塔が国宝、国の重要文化財に指定されて居る壮観さで、其れに寺宝を常時展示している宝物館を備えており、四国霊場では随一とも言える文化財の寺院である。先ず仁王門は国宝で高さ7m、間口は三間、横4m、文保2年(1318)の建立、二層入母屋造り本瓦葺。重要文化財には本堂、三重塔、鐘楼、五輪塔、詞梨帝母天堂、護摩堂の建造物と「建長3年」(1251)の銘が刻まれた愛媛県最古の銅鐘がある。


 縁起に寄ると、神亀5年(728)に伊予の豪族、越智玉純が霊夢に二十五菩薩の降臨を見て、此の地が霊地であると感得、熊野12社権現を祀ったのを機に鎮護国家の道場を建立し、聖武天皇(在位724~49)の勅願所と成り翌年の天平元年に行基菩薩が薬師如来像を彫造して本尊に祀って開基し、法相宗の「安養寺」と称した。「石手寺」と改称したのは、寛平四年(892)の右衛門三郎、再来の説話に寄るとされて居る。


 鎌倉時代の風格を備え、立体的な曼荼羅形式の伽藍配置を現代に伝える名刹と成って居る。境内から出土された瓦により、石手寺の前身は680年(白鳳時代)頃の奈良・法隆寺系列の荘園を基盤として建てられたとの考証もある。




            


 此の「石手寺」は街中にあり、直ぐ隣の駐車場は満車状態で直ぐに駐車する事が出来ずに待ち時間が必要だった。其れだけ大勢の方々が訪れて居たがお遍路姿の人は此の時は意外と少なく、平日にも関わらず若い人の姿が見られた。山門から仁王門までには仲見世が何軒か見られたが常時、開いて居る店が有る事は此の寺を訪れる人々が如何に多いかを物語って居るが、半面、全体的に老朽化し寂れて居る感は否めなかった。然し私達が今までに訪れた(四国霊場中、44箇所)札所の中で仲見世があったのは此処だけであった。


 境内の仁王門、三重塔、鐘楼堂は流石に立派な造りで阿波の霊場の様に戦火に遭う事も無く現存し、寺院の規模や其の壮観さは他を圧するものであった。



        
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四国八十八箇所霊場 第50番札所「繁多寺」

2019年03月18日 | 四国88箇所霊場

        


      繁多寺の歴史・由来


 繁多寺は松山城をはじめ、松山の市街、瀬戸内海まで一望できる高台にあり、のどかな風情の境内周辺は、美しい自然の宝庫として景観樹林保護地区に指定されている。


 縁起に寄ると、天平勝宝年間に孝謙天皇(在位749~58)の勅願により、行基菩薩がおよそ90cmの薬師如来像を彫造して安置し、建立したと伝えられ「光明寺」と号された。弘仁年間(810~24)弘法大師が此の地を巡錫し、寺に逗留された際に「東山・繁多寺」と改め、霊場とされた。


 其の後、寺は衰微するが伊代の国司・源頼義や僧、焼蓮らの援助で再興、弘安2年(1279)には後宇多天皇(在位1274~87)の勅命を受け、此の寺で聞月上人が蒙古軍の撃退を祈祷して居る。また、時宗の開祖・一遍上人(1239~89)が青年期に、大宰府から伊予に帰郷した際、有縁の寺に参籠して修行した。上人は晩年の正応元年(1288)、亡父・如仏が所蔵して居た「浄土三部経」を此の寺に奉納されて居る。


 また天皇家の菩提寺である京都・泉涌寺との縁も深く、応永2年(1395)には後小松天皇(在位1382~1412)の勅命により泉涌寺26世・快翁和尚が、繁多寺の第7世住職と成って居る。こうした縁から寺には16弁の御紋章がついた瓦が残って居る。さらに江戸時代には徳川家の帰依をうけ、四代将軍・家綱が念持仏としていた3体の内の歓喜天を祀るなど、寺運は36坊と末寺100数余を有する程の大寺として栄えた。


 今回は巡礼の旅では無く最初は単なる観光旅行で伊予方面に向かった私達旅グループであったが発案者の義姉(既に、お四国は3回廻って居る)が「お遍路旅でもよいよ」との申し出があり、其の言葉に甘えて伊予の霊場50番札所「繁多寺」から59番札所の「国分寺」までを巡る事が出来た。此の寺に行く途中の道が工事中で少し道に迷ってしまったが何とか寺に辿り着く事が出来たが非常に静かな場所に寺はあり、境内の右側には大きな池が在って素晴らしい自然環境に恵まれていた。納経の際に対応して頂いた住職にも親切な対応をいただき今回、訪れた伊予の霊場の中で一番印象に残るお寺であった。
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 先程、愛媛から無事帰り着きました。

2019年03月16日 | 四国88箇所霊場

 昨日の10時頃に徳島市を出発し国営「讃岐まんのう公園」を見学した後、西条市にある国民休暇村「東予」に宿泊して今日は今治市と松山市にある札所10箇所を巡礼して先程、我家に帰り着きました。此れで徳島、高知、愛媛県の札所を44箇所を回って調度半分の巡礼が終りましたが此れからが中々大変で先は長い様です。


 パソコンに向かってブログを書き込み始めましたが二日間に渡る見知らぬ土地での長時間の運転に疲れたのか?眠気に誘われ先程からブログへの書き込みが先に進まないので今日は休む事にします。
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四国八十八箇所霊場 第29番札所「国分寺」

2019年03月14日 | 四国88箇所霊場

        


    国分寺の歴史・由来


 土佐の国分寺の縁の人となると、平安中期の歌人、紀貫之(868~945)が浮かぶ、特に貫之が著した「土佐日記」は女性の筆に託して書かれた仮名日記である事は有名で、貫之が国司として四年間滞在した国府は、国分寺から北東に1Km程の近くで「土佐のまほろば」と呼ばれて土佐の政治・文化の中心であった。


 聖武天皇(在位724~49)「金光明最勝王経」を書写して納め、全国68箇所に国分寺を建立したのは天平13年の頃、土佐では行基菩薩が開山し、天下泰平と五穀豊穣、万民の豊楽を願う祈願所として開創された。歴代天皇からの尊信が厚く、加護を受けて来た。


 縁起に寄ると弘法大師が此の地を巡錫したのは弘仁6年(815)の頃で毘沙門天像を彫造して奥の院に安置された。其の際には本堂で真言八祖に相承される厄除けの「星供の秘法」を修められた。以来、土佐国分寺は「星供の根本道場」と成って居る。本尊千手観音菩薩を祀る国分寺の本堂は長宗我部元親が、永禄元年に再建、柿葺き、寄棟造りで外観は天平様式を伝え、内部の海老紅梁は土佐最古といわれ室町時代の特色が見られ国の重要文化財に指定されて居る。また一番最初の写真の仁王門は明暦元年(1655)土佐二代藩主、山内忠義公の寄進で豪壮な二層造りで1250年余の面影を残し境内地は、全域が国の史蹟に指定され、杉苔が美しい庭園で「土佐の苔寺」とも言われて居る。


(今までの四国八十八箇所霊場の各、寺の歴史・由来や其れに関係する宗教的内容は間違いがあると良く無いので四国八十八ヶ所霊場の公式ホーム・ページの内容を参照して居ます。)



      


 此の日に訪れた高知県の札所の中では初めての平地に建つ寺院で、流石に国分寺、格が少し違う様で境内も広く其の中にある庭園の美しさや、大師堂正面の彫刻も素晴らしいものであった。次の札所は順番通りだと30~31番と続くのだが国分寺は南国市にあり先に近い高知市内の32~33番札所に順路を変更し帰りの山越えの道(ルート195号)の途中近くに在る30~31番札所は後回しにする事にして私達は第32番札所「禅師峰寺」に向かう事にした。
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四国八十八箇所霊場 第28番札所「大日寺」

2019年03月13日 | 四国88箇所霊場

        


    大日寺の歴史・由来


 大日寺の境内は四季折々の花が咲き、巡礼者の目を楽しませてくれる。早春にはサンシュユの花が3月の彼岸頃には、しだれ桜、本坊前のコブシの花、10月中旬から十月桜や万両が咲き誇ります。


 縁起に寄ると聖武天皇(在位724~49)の勅願に寄り、行基菩薩が大日如来の尊像を彫造し、堂宇に安置して開創されたと伝えられる。其の後、寺は荒廃したが弘法大師が四国を巡教された弘仁6年(815)末世の人々の安泰を祈り、楠の大木に爪で薬師如来像を彫られて、此れを祀って復興されたという。


 以後、隆盛を誇り、七堂伽藍や末寺、脇坊も備わり、17世紀初頭の慶長年間(1596~1615)からは土佐藩の祈願寺と成って、堂塔も整備された。しかし明治新政府の神仏分離令に寄って一時は廃寺と成ったが本尊は「大日堂」と改称した本堂に安置して居たので救われ、明治17年に再興されて現在に至って居る。


 行基菩薩作とされる金剛界大日如来坐像は、高さが146cmの寄せ木造りで四国では最大級、また脇仏の聖観世音菩薩立像は智証大師作と伝えられ、此れも高さ約172cmと大きく、ともに国の重要文化財に指定されて居る。また大師が楠の立木に爪で彫られたという霊木は「爪彫り薬師」と呼ばれ奥の院とされて居る。其の楠は明治初めの大風で倒れたが、跡地に一堂をを建て、霊木として安置して居る。此の霊木は頭、眼、鼻、耳、顔など首から上の病に霊験があらたかとされて居る。薬師堂の脇には、土佐名水40選にも選ばれた大師御加持水が湧いている。


 写真2枚目の本堂は新しい様に思ったら檜と松材を使い釘を使わず木組みだけで平成9年度に再建され、大師堂は昭和58年に改修された物という。寺は山の中に在ったが境内は明るく本堂は春の青空を背景に輝いて居た。



    
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四国八十八箇所霊場 第27番札所「神峯寺」

2019年03月12日 | 四国88箇所霊場

        


   神峯寺歴史・由来


 神峯寺は神峯山中腹の標高450メートルに山門、境内が広がる。幕末の頃、三菱財閥を築いた岩崎弥太郎の母が20Km離れた家から急な坂道を21日間(三七日)日参し、息子の出世を祈願した話は、今も伝わっている。縁起による歴史の古さは屈指で、神功皇后(在位201~69)の世に勅命で天照大神などを祀る神社が起源とされる。聖武天皇(在位724~49)の勅を受けた行基菩薩が天平2年に十一面観音像を彫造して本尊とし、神仏合祀を行った。其の後、弘法大師が伽藍を建立し、「観音堂」と名付けたのが大同4年(809)の頃とされて居る。


 明治初期、新政府の神仏分離令に寄り、天照大神などを祀る神峯神社だけが残り、本尊は第26番「金剛頂寺」に預けて一時廃寺の悲運に遭った。明治中期に、もと僧坊の跡に堂舎を建立して本尊を帰還させ、霊場は復活した。だが寺格が無い為に、大正元年、茨城県稲敷郡朝日村の地蔵院を移して認可を得るなど、苦難の道を歩んで今日に至って居る。


 境内は綺麗に掃き清められ本堂に向かう石段の両脇には樹齢数百年の古木と美しく整備された日本庭園が四季折々のの花を咲かせる。梅の季節には鶯の風流な囀りを楽しむ事が出来る。今回は正に其の時期であった。


         


 此の寺は高知県安芸郡安田町にあり此の寺に向かって山を登って居る途中で何か初めてでは無い感じがし始めて??寺の山門まで来て6年程前か?無線の移動運用で此の寺の更に上の展望台付近で運用した時に此の寺の横を通過して「此の様な場所に大きなお寺があるなぁ~」と思ったお寺が今回の神峯寺であった。 
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四国八十八箇所霊場 第26番札所「金剛頂寺」

2019年03月12日 | 四国88箇所霊場

      


    金剛頂寺の歴史・由来


 室戸岬から海岸線に沿って北西に向かうと、土佐湾に突き出した小さい岬がある。硯が産出するので「硯が浦」ともいわれる「行当岬」である。其の岬の頂上、原始林の椎に覆われて静寂さが漂う境内が金剛頂寺であり、室戸三山の一寺院として「西寺」の通称でも親しまれている。朱印も「西寺」と捺される。当寺から4Kmの所に女人堂と呼ばれる不動堂がある。若き弘法大師は此の間を毎日行き来し修行した霊地であり、行道した事から「行当」は其の名残かも知れない。縁起に寄ると、大師が平城天皇(在位806~9)の勅願に寄り、本尊の薬師如来像を彫造して寺を創建したのは大同2年と伝えられて居る。創建の頃は「金剛定寺」といわれ、女人禁制ととされて、婦女子は行当岬の不動堂から遥拝して居たという。


 次の嵯峨天皇(在位809~23)が「金剛頂寺」とした勅願を奉納された事から、現在の寺名に改め、さらに次の淳和天皇(在位823~33)も勅願所として尊信し、住職は第十世まで勅命に寄って選ばれており、以後16世紀頃まで隆盛を誇った。室町時代に成って堂宇を罹災した事も在ったが復興は早く、長宗我部元親の寺領寄進や、江戸時代には土佐藩主の祈願所として諸堂が整備されている。昭和に成って注目されるのは正倉院様式の宝物殿「霊宝殿」の建立である。平安時代に大師が各地を旅した時の「金銅旅壇具」は我が国唯一の遺品であり、重要文化財が数多く収蔵されて居る。


 金剛頂寺は国道55号線を室戸から奈半利町に向かう途中の室戸病院を越えた所から北の山側に進み九十九折の坂道を進むと駐車場があり最初の写真の石段を上ると正面に今回訪れた札所では一番大きいか?と思われる立派な本堂が、そして屋根の甍は春の日差しの中で輝いて居た。
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四国八十八箇所霊場 第25番札所「津照寺」

2019年03月11日 | 四国88箇所霊場

    


    津照寺の歴史・由来


 室津港を見下ろす小山の上に佇む「津照寺」(しんしょうじ)は通称「津寺」と呼ばれて居て弘法大師空海上人が四国御修行の砌、山の形が地蔵菩薩の持つ宝珠に似ているところから霊地とし地蔵菩薩を自ら刻まれ本尊とし、宝珠山真言院津照寺と号されました。


 はじめ長曽我部氏の庇護を受け津寺村と称して七町余の地高を有し其の後、山内氏が国主として入国してより更に一町五反余の田地を寄附され寺院の運営も全て藩営とされ中老格を持って遇され隆盛を極めておりましたが、明治の改革に遭い地領は一旦政府に没収亦は小作農民に払い下げと成り寺は廃寺とされました。


 荒廃に任す事、約数十年、明治16年に漸く寺名復興を許され今日に至った様ですが寺域は極度に狭められ昔日の面影は無く、ただ本堂が地蔵堂として残り御殿と申された庫裏の一角が当時の小学校として残っておりました。現在、小学校は移転され、大師堂は昭和38年、本堂は昭和50年に新築されたものです。


 御本尊、延命地蔵を揖取揖取地蔵(かじとりじぞう)という由来は、慶長七年の秋の頃、山内家初代の一豊公が室戸の沖で暴雨風に遭い困難いたされた時、何処からともなく大僧が現れ船の揖を取って御船は無事に、室津の港に入港する事が出来た。ほっとした所で先程の大僧の姿が見えないがともあれ探して津寺へ参詣してみると本尊の地蔵菩薩の御体が濡れおり、大僧が本尊地蔵菩薩であった事が解かった。之より本尊が揖取地蔵と申し伝えられる様に成りました。此の霊験記は「旧記南路史」に明記されて居ます。


 また今昔物語には「地蔵菩薩火難ニ値ヒ自ラ堂ヲ出ルヲ語ル」第六として津寺の本堂が火難に遭った時、本尊地蔵菩薩が僧に身を替えて村人に知らせ、火難を逃れたという物語が出ており古くは火事取りの意味でも「かじとりじぞう」と呼ばれている様です。



 私達は最御崎寺を出発し西に向かう段階で此の札所を見過ごして第26番札所「金剛頂寺」まで行って仕舞い、引き返す事に成りましたが此の寺は港町独特の民家の密集した場所に在り車を駐車する場所をやっと見付けて急な階段を上った場所に本堂が在り写真の様に作りが現代風で其れまでの各札所とは雰囲気が随分違って居た事と山門にある標が船の舵取りする「舵輪」の形をして居たので其の時は一寸、不思議に思ったのですが我家に帰って寺の歴史や由来を読んで漸く其の意味が解かった次第です。此の寺の登り石段も可也きつかったのですが此れからの後の各札所も平地の寺は少なく、高知の札所は山寺が多いと感じました。


 
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四国八十八箇所霊場 第24番札所「最御崎寺」

2019年03月10日 | 四国88箇所霊場

        


    最御崎寺の歴史・由来


 最御崎寺は「修行の道場」とされる土佐最初の霊場、太平洋の白い波涛が吠え立てる室戸岬の突端にあり、黒潮の飛沫にあらわれて鋭角に成った黒い岩礁。其のすざましき響き、空と海が一体となり襲い掛かる洞窟の樹下で、藤衣を被って風雨を凌ぎ、虚空蔵求聞持法の修法に励む青年・空海がいた。延暦11年(792)弘法大師19歳の頃とされている。此の詳細は、大師が24歳の頃の「三教指帰」に次の様に記されている。


 「・・・土州室戸崎に勤念す 谷響きを惜しまず 明星来影す 心に感ずるときは明星口に入り 虚空蔵光明照らし来たりて 菩薩の威を顕し 仏法の無二を現す・・・」


 大同2年、唐から帰朝した翌年に大師は、勅命を受けて再び室戸岬を訪ねている。虚空蔵求聞持法を成就した此の地に、本尊とする虚空菩薩像を彫造して本堂を建立、創した。嵯峨天皇をはじめ歴代天皇の尊信が厚く、また足利幕府の時代には土佐の安国寺と成り、戦国、江戸時代には武将、藩主などの寄進に寄り、寺運は隆盛した。当時は真言密教の道場とされ女人禁制の寺であった。往時、女性の遍路は遥か室戸岬の先端から拝んだと云われるが、明治5年に解禁されて居る。室戸岬には東西に対峙して居る第26番札所の金剛頂寺が「西寺」と呼ばれ、最御崎寺は「東寺」とも呼ばれおり、納経帳等の寺名には「東寺」と記され南国情緒を味わう室戸阿南国定公園の中心にあり、大師が悟りの起源の地でもある。


          


 最御崎寺に訪れた此の日は青空が広がる良い天気の日であったが境内には樹木が多く少し冷気を感じる凛とした雰囲気の中での納経と成った。3月に入って気候が良くなった関係か?徳島県最後の23番札所の「薬王寺」から室戸までの多分70Km以上ある道中で沢山の歩いているお遍路の方々を見掛けたが目にする度に此れこそが本当の「お遍路」で私達の様な安易な自動車でのお遍路では大師に申し訳ない気持ちと、お遍路が終わった段階で得る物には随分違いが在るのだろう事を思った。
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