



栄福寺の歴史・由来
栄福寺のある瀬戸内海沿岸の此の近海では海難事故が絶えなかった。栄福寺は弘法大師が海神供養を修した事から、海陸安全、福寿増長の祈願寺として往古から信仰されていた。
縁起に寄ると嵯峨天皇(在位809~23)の勅願により、大師が此の地を巡教したのは弘仁年間であった。内海の風波、海難の事故の平易を祈って府頭山の山頂で護摩供を修法された。その満願の日、風波はおさまり、海上には阿弥陀如来の影向が漂った。此の阿弥陀如来の尊像を府頭山頂まで引き揚げて堂宇を建て、本尊として安置したのが創建といわれ、勅願寺とされた。
栄福寺には神仏混合の歴史もあり、その由来も平安時代に遡る。定観元年(859)大和・大安寺の行教上人が宇佐八幡(大分)の霊告を受けて、その分社を山城(京都)の男山八幡(石清水八幡)として創建する為、近海を航行中に暴風雨に遭い此の地に漂着した。ところが府頭山の山容が山城の男山に似ており、しかも本尊の阿弥陀如来は八幡大菩薩の本地仏でもある事から、境内に八幡明神を勧請して社殿を造営、神仏合体の勝岡八幡宮を創建したと伝えられる。此の八幡宮は「伊予の石清水八幡宮」とも呼ばれ「四国五十七番」と仲良く寺社名を刻んだ石塔の道標が立って居る。明治新政府の神仏分離令により、寺は旧地から山の中腹になる現在地に移転し、神社と寺は其々に独立した。三番目の大師堂は山頂にあった堂舎を移築した由緒がある。
此の寺に到着したのは3月15日の納経所の締め切り少し前の時間帯で他のお遍路の姿は無く、私達の様なお遍路の初心者でも周囲に気兼ねする事無くゆっくりと納経する事が出来た。何せ、たどたどしい私達の般若心経では一寸肩身の狭い状態なのだが他の人が居なければ安心して行う事が出来る。