きままな旅

きままな旅ときままな日記

2017/12/26 鈴鹿市駅近辺を散策した。

2017-12-28 | 尾張文化の会

2017/12/26 鈴鹿市駅近辺を散策した。
 鈴鹿の神戸は天文年間(1532-1555)に神戸具盛(かんべとももり)が築城した神戸城で江戸時代には本多忠統(ほんだただむね)が享保17年(1732)に入城し、明治維新まで本多氏の居城となった城下町で参宮街道(伊勢街道)が神戸町を通っている古い町並みを散策した。

  近鉄鈴鹿市駅
〇毘沙門天神社

 
  鳥居  本堂
〇六郷川 寿橋

〇宝珠山地蔵院

  お堂
〇道標
 神戸町道路元標がある。
 
  札の辻  石標
〇観音寺 
 神戸藩主本多家の菩提寺。元亀元年(1570)浄土宗として開創されたが、元応2年(1320)銘の「光明真言板碑」(市指定文化財)の出土により、開創は鎌倉時代と云う。
 山門に「補陀落山」の額がかかり、軒瓦には本多家の家紋(本多葵)が残っています。
  
 石標  山門  山門の額と本多葵
 
     本堂と松の木

 鐘楼の鐘は市内でも3番目に古い云う。
 
  思徳の碑(しとくのひ)  鈴鹿市指定史跡の案内板
〇神戸宗社(神館飯野高市本多神社)
 神館神明神社、飯野神社、高市神社、本多神社が合祀して現在の神戸宗社となっており、神館神明神社の創立は天武天皇元年(673)と伝える。
祭神は天照皇大御神、豊受皇大御神、高御産巣毘大神、本多忠統之命、菅原道真之命の5柱です。
  
  鳥居 入口の石碑
 
  拝殿  正月の準備
 
  稲荷大明神 拝殿
〇天澤山龍光寺(りゅうこうじ)臨済宗東福寺派
 開祖は応永30年(1423)称光天皇の勅願寺として伊勢国司北畠実重を普請奉行に任じて建立させた。
 本堂天井画「大雲龍」五十畳の大きさの雪兆筆がある。

  三門正面

  総門(北門) 
 
  本堂  庫裡と玄関
 
 本堂 本堂から観る松

  三門から観る本堂

  鐘楼

 
不世出の名横綱「大鵬」の碑 大鵬の像
〇慎福寺(しんぷきじ)真言宗豊山派
 寺伝によると、永禄2年(1559)法印紹盛上人の開基と伝わり、100年以上続く寺でる。神戸城主が織田信孝の時代は祈願寺として寺領を受領していたと云う。
 
  山門  本堂
〇神戸城址
 神戸城は戦国時代、神戸具盛により築かれ、織田信孝(信長の三男)により天正8年(1580)ここに金箔の瓦も用いた五重の天守閣を築いた。文禄4年(1595)には天守閣も桑名城に移され、石垣だけが残った。江戸時代の城主は一柳直盛、石川氏三代をへて享保17年(1732)本多忠統が入国する。

 神戸城阯の石碑
  
  野面積みの石垣
 
  神戸城天守址碑
  
  現存する堀
〇旧制神戸中学校正門(神戸高校)
 神戸高校は昔城の場内と云われ構内の西南に「教倫堂跡」があると云われる。
 
  名盤が残る校門「三重縣立神戸中学學校」
〇宗休寺(そうきゅうじ)真宗高田派
 
  山門  本堂
〇萬福寺(まんぷくじ)真宗大谷派
 
  山門  本堂
〇常夜燈
 
  常夜燈
 
  幸橋  幸橋西詰めに有った常夜燈
〇矢椅神社(やぎじんじゃ)
  
  鳥居 拝殿 神殿
〇浄願寺(じょうがんじ)真宗大谷派
 
  山門 本堂前の松
〇善導寺()浄土宗

 山門
 
  本堂  葵紋が入っている
   《 以下写真なし 》
〇 神戸別院
 神戸別院 明治天皇の行在所となった所で、天皇がお泊りになった部屋は、当時のまま使用されずに保存されています。また、高田派の本山は、津市一身田の専修寺であるが、ここに移る以前は三日市がその本拠であった。移転後その三日市町の牽制するために別院が設けられた。
〇 願行寺
享保6年(1771)神戸町内の161軒を焼いたという信濃屋の火事で類焼し、天明7年(1787)に再建されたと伝えられています。
  以上

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2017/12/20今渡街道②(JR姫駅からJR美濃川合駅)

2017-12-21 | 尾張文化の会

2017/12/20今渡街道②(JR姫駅からJR美濃川合駅)
 今渡街道①(JR多治見駅からJR姫駅)に続いて終点の重蔵湊跡(野市場湊跡)まで、ここJR姫駅を9時40分出発した。
〇JR姫駅

 JR姫駅
〇三体の石仏
 千手観音、夜泣地蔵、馬頭観音である。近所のおばさんが子供の夜泣きを治すと言い伝えから、遠方から御参りに来ると話していました。

 左から千手観音、夜泣地蔵、馬頭観音
〇藤の棚
 山から湧き水があったので、街道を通る馬車悲喜が一服して馬に水をなませる休憩所であった。近所の奥様は、藤の棚は長く道を挟んで反対側の屋敷まで有ったと語っていました。
  
 藤の棚  湧き水
〇三明願主清久上人石碑

 石碑
〇岡田将監屋敷跡
 関ヶ原の戦いで東軍に属し、慶長6年(1601)美濃国可児郡のこの領地たまわり、寛永8年(1613)に美濃国奉行(幕府)を務めた。のちに揖斐への領地替えまでの間この地を陣屋としたと云う。
 
 標柱 
姫川で街道へ戻る途中に雪化粧の御嶽山
 
 姫川の看板の右に遠く観える御嶽山   ズームアップの御嶽山
〇定光山三明寺(さんみょうじ)臨済宗
 天正3年(1575)に玉軸によって創建したと伝える。本尊は木造薬師如来像(伝室町時代)で指定文化財という。
 
 石標  本堂

 案内板
〇姫下切窯跡
 連房式登窯であり、初代美濃国奉行岡田将監時代の御用窯と思われる。生産器は皿、碗で昭和59年(1984)に姫下切古窯跡出土品を可児市の指定文化財にされた。
 
 古窯跡 案内板

 破片
〇田白橋(でんぱく)

 田白橋
〇鳥屋場の常夜燈
 文化元年子と刻印(1804)がある。
 
 祠 常夜燈

 公民館横の新四国第41番札所の石標
〇馬頭観音

 馬頭観音(三面八臂)
〇馬頭観音 天明八戌の刻印(1788)がある。

 チョット目じりがつりあがった馬頭観音(三面六臂)
〇道標「右 木曽川渡船場太田町 犬山町」
 
 道標(私は思う、よく残った感謝の道標)
〇道標「右 廣見村伊香 左 伏見」
 
 道標
〇道標「右 今渡 太田渡 左 土田」

 道標
〇徳野陣屋跡
 慶長9年(1604)に平岡石見守頼勝が築いた屋敷が始まりで、のち美濃郡代岡田善政がこの屋敷に陣屋を置いた。
 
 案内板 案内板の後方
〇金剛山龍洞寺(りゅうどうじ)臨済宗
 慶長14年(1609)の創建という。本尊は観世音菩薩である。
  
 石標 山門

 本堂
〇冨士浅間神社
 創建は宝暦5年(1775)といわれるが詳細は不明である、主祭神は木花咲夜姫神という。
 境内に天保7年(1836)の石灯籠がある。
 
 神殿 石灯籠
〇太田橋
 太田橋の直ぐ下流には中山道の三大難所の一つにうたわれた「太田の渡し」付近であり、明治の後半はワイヤーを用いた岡田式渡船となり昭和に入り太田橋が架けられその役目を終えた。
 また、木曽街道(上街道)の終点はこの地といわれ、名古屋城東大手門から小牧、犬山を通り中山道へと続くといわれています。
 
 橋と新しい灯籠  案内板
〇重蔵湊跡(野市場湊跡)
 この湊は大難所の一つで「木曽のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」と歌われた木曽川の渡し場である。現在は水面までは高低さがあり湊の雰囲気は全然みられない。
(写真なし)

  重蔵湊跡(野市場湊跡)らしき場所

 もう一つの徳蔵湊はこの下かな
〇今渡神社
 重蔵湊の積荷場所だったと云われる。
 
 鳥居 神殿
〇JR美濃川合駅
 単線で上下兼用のプラットホームです。
 
 看板  美濃太田行きの列車
  帰路は日本ライン今渡駅からの予定をしていました、しかし新可児駅でJR可児駅への乗り換えするより、JR美濃川合駅かた多治見駅へは乗り換えなしのルートを選んだ。美濃川合駅を乗ったのが15時40分発の多治見行きに乗って家路についた。
 前回の「今渡街道①」に続き、今回も多治見市史窯業史料編を読む会発行の本「今渡街道」を片手にグループで散策しました。
  以上

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2017/12/06今渡街道①(JR多治見駅からJR姫駅)

2017-12-07 | 尾張文化の会

2017/12/06今渡街道①(JR多治見駅からJR姫駅)
 今渡街道は年貢米や多治見特産品の陶磁器などを主に運搬する街道で、起点は多治見駅近くの多治見橋から木曽川の重蔵湊(現可児市今渡町)までの約20kmで岐阜県多治見市と可児市を通るルートである。
 ここ多治見市は内陸部のため木曽川の重蔵湊までこの街道を輸送し、川船で積み替えて、桑名から海上輸送する「江戸廻米ルート」であった。美濃焼きの輸送ルートには、名古屋方面へ内津峠をへて下街道を牛馬で東海道方面へ輸送する街道がある。大量に美濃焼きが輸送された主要ルートは比較的距離の短い「今渡街道」を利用された。
 歩いた日は前日まで比較的暖かかったが寒波と成り名古屋では初氷の報道も有り寒さ対策をして出かけた。JR多治見駅前の温度計は3.7度(9:10分)と低いが風邪が無く寒さも感じなかった。

JR多治見駅前
〇多治見国長公遺址
 多治見ぎんざ商店街の一角に残る「多治見国長公遺址」は、かつて屋敷がここから南に縦横100m程の広大な敷地であったと伝えている。
 多治見国長(1289-1324)は、美濃国の守護・土岐頼貞の同族で、この地を治めていた武将です。

国長公遺址
①今渡街道起点の多治見橋

多治見橋
②道標「虎渓道」

道標
③大日如来
  
大日如来 厄除大師 馬頭観音 三尺坊大権現
〇多治見機関区跡の門柱

旧門柱
④道標「左 ここけい道 西安養寺境」
 
石造
⑤安養寺
 
石柱
⑥音羽御嶽社

御嶽社
〇白山神社
 白山神社遺跡は縄文時代の集落遺跡です。

白山神社
⑦団子橋(大原川を別名「団川」)
 
団子橋 永覚霊神の碑 稲覚霊神の碑
〇馬頭観音・毘沙門天
 
馬頭観音 毘沙門天
⑧常夜燈

常夜燈
⑨寿教寺
 
石柱 山門

本堂
 
石仏群
〇縣橋(大原川)を渡り下流に向かう。
⑩光ヶ丘地蔵尊
 
地蔵尊
⑪境地蔵尊
 
地蔵尊
〇宝光橋を渡り上流に向かう
⑫道標(右 池田名古屋 左 多治見)馬頭観音
 
道標 馬頭観音
〇JR太多線第一多治見街道踏切を渡り小泉公民館で昼食を食べる。
⑬小泉の馬頭観音 南妙法蓮華経の碑
 
馬頭観音 南妙法蓮華経の碑
⑭石仏群

石仏
⑮六部塚と大日如来

六部地蔵尊

石仏
〇かつての旧道の名残を感じる。

旧道
⑯首切り地蔵跡
勤労者センター北側駐車場に在った、現在は普賢寺参道に移転されています。
また、偶然会った人に旧街道はと訪ねたら”センターの東側を通っていた”と話してしました。

普賢寺参道にある首切り地蔵
〇普賢寺 耳神神社
 
参道
 
山門 本堂
 
耳神神社
《首切り地蔵と普賢寺 耳神神社は事前に写した写真です。》
⑰根本の石仏群

石仏
念仏天万辺供養塔 馬頭観音 地蔵菩薩
⑱根本の道標
道標「右 久々利 左 姫治廣見 」
 馬頭観音 道標「左 犬山」
 
道標 馬頭観音 道標
⑲牧峠の馬頭観音

馬頭観音
⑳懲役茶屋跡

懲役茶屋跡の池
〇豊川稲荷姫別院
 
姫稲荷
〇弘法堂
 
弘法堂 弘法大師
JR姫駅を14時51発の多治見行きに乗り帰路についた。
次回はJR姫駅から終点の重蔵湊跡の予定です。
   以上

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2017/11/28 春日井市「愛岐トンネル群」へ紅葉狩りに行って来ました。

2017-12-05 | 尾張文化の会

2017/11/28 春日井市「愛岐トンネル群」へ紅葉狩りに行って来ました。
 愛岐トンネル群「秋の特別公開」(平成29年11月25日から12月3日)はNPO法人愛岐トンネル群保存再生委員会よって開催されました。
 会場は入口から約1.7Kmの公開された廃路線にトンネル4基(3基76m,4基75m,5基99m,6基333m)をはじめ、廃線路の自然、渓谷などが保存会の人々でさまざまな色づけされて紅葉と共に楽しめる文化遺産に成っていました。

〇愛岐トンネル群とは
 明治33年(1900)国鉄中央西線は名古屋から多治見間が開通しました。しかし戦後の大量輸送時代に対応できなくなり、昭和41年(1966)に廃線となり、14基有ったトンネルも現在は高蔵寺駅と多治見駅の約8Kmは4から5基の長いトンネルになった。

入口の行列

入口の階段登っての美しい紅葉

平成28年(2016)に登録有形文化財に認定される。

公開された1.7Kmの廃線路

3号トンネルの照明

落石防止柵には古レール

落石防止柵には古レールに刻印が確認できる。「八幡製鉄の社章と1911年号」

もみじ広場

もみじ広場

東屋前の竹林



玉野川(庄内川)の流れともみじ

県境の深見沢橋の基礎と諏訪大橋は名古屋市愛岐処分場入口の橋

4号トンネル

4号トンネル

6号トンネルで当時の蒸気機関車が残した真っ黒な「すす」跡

6号トンネルで当時の蒸気機関車が残した「すす」跡
〇暗渠(あんきょ)
 廃線路の下にあるレンガ製の水路で100年前の施工当時のレンガ色の輝きが残っている貴重な設備です。

暗渠概要

下部側の出入口

上部側を覗く



天井のレンガは100年も経過したとは思えない美しいレンガである。

開口部の下部から上部を覗く。下の写真は廃線路より上部から下部を覗く

廃線路より開口部の上部から下部を覗く。
〇玉野道

特別公開中だけ通行できる玉野道より玉野川(庄内川)を見る。
〇玉野堰堤・玉野用水(玉野水力発電所導水路)
 江戸時代の享保14年(1729)に、当時の玉野村の水不足を解消し水田に水を送ったのが始まりで、現在は大正2年(1903)に改修されて水力発電のための取水堰として運用されている。

案内板

堰堤(えんてい)と手前が玉野用水(水取堰)

帰りのJR定光寺駅(12:45頃)、無人駅で普段は人影も無い駅が混雑する。
         以上

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