きままな旅

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2018/10/26京都府八幡市の正法寺と石清水八幡宮を訪ねた。

2018-10-28 | 尾張文化の会

2018/10/26京都府八幡市の正法寺と石清水八幡宮を訪ねた。
✿正法寺(しょうぼうじ)浄土宗
 建久2年(1191)に鎌倉幕府御家人・高田蔵人忠国(たかだくろうどただくに)により開祖し、志水家の菩提寺となりました。室町時代に住職となった伝誉上人は後奈良天皇の帰依を受け、天文15年(1546)に勅願寺となった。志水家の娘・お亀の方(相応院)が、徳川家康公の側室にあがり、家康公の第9子で後の尾張徳川家初代・義直の母となり、のち当寺は尾張藩の厚い庇護を受けつづけ寛永6年(1629)頃には相応院の寄進によって本堂・唐門・大方丈(いずれも重要文化財)が建立されました。
・阿弥陀如来及両脇坐像(あみだにょらいおよびりょうわきざぞう)
 正法寺の本尊は観音勢至菩薩(かんのんせしぼさつ)を従えた阿弥陀三尊像です。両脇の菩薩は、脇侍には大変珍しい「跪坐」(正座又は大和座り)の形がとられています。制作年代は鎌倉初期と推測される。

〇阿弥陀如来坐像(重要文化財)
檜材寄木造の座像(丈六)は鎌倉時代の快慶作ではないかと推測されています。
説法印はチョット珍しい中品中生(ちゅうぼんちゅうしょう)のを結びであり、光背には13体の化仏(けぶつ)を配した像長約4.8m(台座・光背を含む)と大きい仏像です。平成20年(2008)に設立した「法雲殿」に納めてありました。    《写真なし》
〇山門


〇石標「尾張大納言義直候 母堂相應院殿墓所 正法寺
 

〇山門前の東高野街道風景


〇地蔵堂


〇唐門(重要文化財)
  

〇本堂(重要文化財)
 

〇扁額(へんがく)
額は、後奈良天皇(室町時代)から賜った額字(書)をもとにつくられました。寺号「正法寺」という扁額が掲げられています。


〇逆輪(さかわ)
本堂を支える屋根の垂木飾りには、金箔の「逆輪」が装飾されています。


〇大方丈(重要文化財)
 

〇鐘楼(京都府指定文化財)


〇方丈居間と庭園
   

〇東照権現堂


〇開山堂


〇墓所(左が相応院供養塔)
 

✿男山ケーブル
男山ケーブル駅から男山ケーブル山上駅まで約3分利用して下車、ゆるい坂を登り清峯殿で昼食の松花堂弁当を頂いたあと参拝に向った。
 

✿石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)国宝(平成28年(2016)2月9日指定)
 平安時代初め、清和天皇の貞観元年(859)南部大安寺の僧・行教和尚は宇佐八幡宮(大分県)にこもり日夜熱祷を捧げ、八幡大神の「吾れ都近き男山の峯に移座して鎮護せん」との御託宣を蒙り、同年男山の峯に御心霊を御奉安申し上げたのが当宮の起源です。
 御祭神は比咩大神(市寸島姫命、多岐津毘賣命、多紀理毘賣命)、応神天皇、神功皇后です。
〇一ノ鳥居と扁額(八が鳩の字で有名です)
 

〇三ノ鳥居


〇南総門と橘の紋
 

〇楼門
  

〇楼門:蟇股と欄間 神鳩(くちばしの「阿」「吽」)
 

〇幣殿(お払いを受けた。)


〇目貫の猿
 

〇黄金の雨樋(中央にある湾曲部分の青銅製に金箔)
 


〇信長塀
 

〇楠木正成公の楠


〇灯籠(請台部分にある鳩のくちばしが「阿」「吽」)
 

〇茶室(鳩峯庵(きうほあん))


〇尺八郡山流流祖の顕彰碑


〇エジソン記念碑
 

✿流れ橋(上津屋橋)
 木津川に架かる橋で全長356.5mの日本最長級の木橋です。特徴は増水時の抵抗を減らすため、床板が流れるように設計されている。
   

✿石田神社
四季彩館の隣の神社
 

 《尾張国との繋がり》
●相応寺(そうおうじ)浄土宗
  当寺は今は名古屋市千種区城山町ですが、もともと東区山口町にあった、昭和の初めにこの地に移された。
寛永20年(1643)尾張藩徳川義直が、母相応院お亀の方の菩提のため建立した。
慶安3年(1650)義直の遺体を当寺に安置して供養し、のち定光寺に葬った。
 

〇お亀の方の墓碑「相応院殿信誉公安大禅定尼」


〇義直公直筆の扁額

以上

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2018/10/18 岐阜県関市の美濃古刹(大雲寺、新長谷寺)を訪ねる。

2018-10-21 | 尾張文化の会

2018/10/18 岐阜県関市の美濃古刹を訪ねる。
 『尾張文化の会』のメンバー34名と岐阜県関市の美濃古刹を訪ねた。(No403)
 行程は小牧東IC→MAGロード→富加関IC→大雲寺→新長谷寺→昼食(まごろく)→宗休寺・弁慶庵・千手院→富加関IC→美濃加茂ICで降り一般道で帰ってきた。
 当初の帰り行程は土岐JCT周りで有ったが多治見IC近辺で大渋滞の情報をドライバーが集めて判断をして一般道に切り替えた。国道41号から尾張パークウェイを通り順調に返って来ることができた。適切な情報を収集して結果は大成功であった。
 今月は岐阜県関市の「打刃物の町」である名刹を訪ねた。

✿大雲寺(だいうんじ)日蓮本宗
 開基はさだかではないが慶長6年(1601)ころ大島光義が建立したと云われる。
 寺宝として大島光義の甲冑などゆかりの品を所蔵している。本堂裏には大島家歴代の墓があり、菩提寺と云う。
 
 石標  本堂

 古い甲冑
〇大島光義雲八(うんぱち)伝説
 生涯現役と言われた武将で、ある戦場で織田信長は光義が「おばなの穂」の指物をして戦った姿を見て「雲八」の名を与えたと云う。93歳で関が原に出陣し、弓一筋で大名(美濃国関藩主)となが、関藩は4年で廃藩になった。織田信長に仕えたのが還暦近くであった。以後は秀吉や家康にも仕え、93歳にて関ヶ原合戦の東軍にも従ったという遅咲き武将です。
 また、光義の弓伝説は80歳代の時に弓の名手とうたわれ雲八は当時仕えていた豊臣秀次(秀吉の甥)から「八坂の塔の天井の小窓に弓を射こんでみせよ」と命じられたとき、一直線に小窓へ10本中10本命中させたと云われる。

 雲八の墓所

✿新長谷寺(しんちょうこくじ)吉田観音(きっだかんのん)真言宗智山派
 吉田観音と呼びばれ、市民に親しまれている名刹である。貞応元年(1222)、後堀河天皇の勅命により、弘法大師(空海)の四世護認上人の開山と云う。本尊は秘仏の十一面観世音菩薩(国重文)が祀られている。
 阿弥陀堂には鎌倉時代の木造厨子入阿弥陀如来立像(国重文)が安置され時々ご開帳があり、木造厨子入阿弥陀如来立像は青墓の長者大炊の娘で、源頼朝の愛妾延寿(えんじゅ)が頼朝の死を悼み寄進したと伝える。
 七堂伽藍(本堂、鎮守堂、薬師堂、大師堂、阿弥陀堂、釈迦堂、三重塔)が室町時代後期で重要文化財(国指定)であり、すべて檜皮葺の屋根で本堂を中心にコの字型に配置されている。
 
 仁王門(境内は撮影禁止です)
 
新長谷寺のパンフレット
✿宗休寺(そうきょうじ)「関善光寺」天台宗
宝暦3年(1753)創建と云われ、寛政10年(1798))信州善光寺大勧進等大和尚が当山に出開帳が行なわれたのが縁となり善光寺を模した本堂、戒壇が建てられることとなり、文政元年(1818)に建立された。本尊は阿弥陀如来(善光寺如来)である。
・本堂(市文化財)
・大仏殿(市文化財)には木造阿弥陀如来坐像(丈六)及び両脇侍坐像が安置されている。
・大梵鐘(県重文)は明時代の作品で県下最大の鐘楼である。
・大日堂には印形の珍しい宝冠大日如来(約5m)が安置されている。

本堂(市文化財) 卍型の戒壇巡りは有名です。

大梵鐘(県重文)

大日堂
 
大梵鐘(県重文) 梵鐘の裾に特徴がある。

安桜山(あさくらやま)山頂への参道と常夜灯

✿千手院(せんじゅいん)曹洞宗
 正応元年(1288)に奈良県より関に移ってきましたとき創建と伝える。
 開基は関の刀鍛冶の祖である元重公の娘婿「千手院包永(かねなが)」です。
 元は春日神社の北に在ったが、元禄年間に現在地(西日吉町)に移転してきた。
 鍛冶兼常家の菩提寺であり堂宇には歴代の位牌が祀られている。
 ・槍(市文化財)は関鍛冶祖の一人でもある兼永中治郎が、奈良から関に移住し、特に心魂を傾けて鍛えたものと伝える。江戸時代の寛保3年(1743)旧地は春日神社の北に在ったが、火災にかかり堂宇・宝物などことごとく焼失したがこの槍のみ残った。延享3年(1746)正月に、関鍛冶の兼門惣三郎がこれを焼き直し研磨したものである。(ふるさと再発見より)
  
石標   本 堂(関市指定文化財「槍(鎗)」のポール)
・本尊の十一面千手観音菩薩は保存状態も良く本堂修復のおり、仮置きの時調査された。製作当初のものと思う墨書があった。2016年4月の発見で「元禄16年」(1703)と浮かび上がった。
 詳しくは千手院HPの「千手院の日々」より。
 
本尊の十一面千手観音菩薩(お寺の方に見せていただいた写真です。)
元重の碑は千手院の境内にあります。
〇刀鍛冶の元祖、刀祖「元重翁」の碑
 関に刀鍛冶が発祥したのは鎌倉時代であり、寛喜元年(1229)伯耆国(ほうきのくに)檜原より元重なる刀匠が関に来て、ここで刀を打ち始めたのがそもそもの発端と伝えられている。
 
元重翁の碑
✿弁慶庵(惟然記念館)
 広瀬惟然(ひろせいねん)は江戸時代の俳人であり、その惟然(芭蕉の弟子)がここ関に居た時に住んでいたのが「弁慶庵」である。
芭蕉と惟燃は芭蕉が岐阜を訪れた折、その門人となり、元禄時代には近江、京都、伊賀上野など芭蕉の旅のお供をした。
特に芭蕉晩年に師が病の床に伏すと看護にあたり師の遺言により遺骨を義仲寺に葬り恩師の菩提を弔った。
 
慶庵の入口   惟然句碑(かうゐるも大切な日ぞ花盛)
  以上 

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2018/10/14 多治見市諏訪町にある諏訪神社で棒の手の奉納と木曽源氏一族を訪ねた。

2018-10-16 | 尾張文化の会

2018/10/14岐阜県多治見市諏訪町にある諏訪神社で「棒の手」の奉納を訪ねた。
 JR古虎渓駅と諏訪神社にて5名が集合し諏訪神社「棒の手」の奉納と木曽源氏今井四郎兼平の一族を訪ね、諏訪町を歩き廻った。のち坂を上り東海自然歩道を横切りながら山越えをして愛知県春日井市押沢台5丁目でバスに乗りJR高蔵寺駅へ向い解散した。
 木曽義仲の股肱の臣である今井兼平は主君と共に琵琶湖畔の地で戦死したが生き残った一族が追手を逃れ隠れ住んだ地の伝承があり、諏訪町の人口の半数が「今井姓」を名乗っていること。
 また、木曽源氏の心の拠り所は「諏訪湖」と後方に高くそびえる「霧ヶ峰」であったことから諏訪神社の字名を「天ヶ峰」と名付け崇拝していたのではないだろうか。
〇コースは多治見市指定の「名木と木曽源氏ゆかりの地コース」コース42に従って廻った。

①諏訪神社
 創建は不明、祭神は建御名方神と云う。
 毎年(10月15日前後)祭礼時には、県重要民俗文化財の「小木棒の手」で流派は『無二流』である。
 神殿には餅まき用の「奉納餅」がお供えしてあります。
 「小木棒の手」の案内板には岐阜県唯一の棒の手と記載があり愛知県の直ぐ隣と感じました。
    
〇資料館の武具
祭りの当番宅に用意してあったのを見学させて頂きました。
展示物には棒、槍、長刀、真剣、笠、和傘、木刀、鎖鎌と珍しい櫂(かい)がありました。
「のぼり」「武具」「馬の塔」
  
〇奉納の「無二流」小木棒の手
 中割(なかわり)は4名ぐらいで行列の各所に分散して入り、隊列の組み立ての配慮、指導を行う、棒の手演技の進行を行い演舞前には塩で清めたのち始る。紋付袴の方が「中割」です。
 
 
    
②諏訪のイチヨウ
諏訪公民館の向かい側にあるイチヨウの木は、市の保存樹に指定されている。

③今井四郎兼平の碑
木曽義仲の家来で義仲四天王の一人です。
  
〇塚誌
琵琶湖畔の粟津の戦いで敗れた 木曽義仲に敗走の途中追訶の
手を逃れて山深いこの地に隠在し 時至には挙兵の夢もむなしく
八00有余年の歴史と共にこの 塚に奥深く今井家の祖として
人に伝える。   昭和五十五年五月  (小生が読んだ・・・です。)

④不動明王
笠原観音から分身してもらい、現在地に建立されました。
 
⑤薬師堂
流行病の平癒を願い、尾張から薬師如来をもらい受け建立されました。

⑥水落ち観音
観音岳から湧き出る岩清水は万病平癒成就の霊水と言われています。
  
この霊水より上は東海自然歩道だけで生活排水はありません。

〇岐阜県と愛知県の県境付近の案内標識と東海自然歩道の入口階段
 
〇小木田神社
 春日井市小木田神社の創建は養老三年(719)で現在の祭神は大己貴尊・素盞鳴尊・少彦名尊及び菅原道真である。愛知県指定無形民族文化財に指定されている「源氏天流」棒の手が祭礼に奉納されている。
 貴船神社の昔は小木田神社の境外社であった。天和三年(1683)に再建された棟礼があるが創建等は不明である。祭神は闇龗神及び天照大神である。(春日井の神社、市郷土史研究会発行より)
 石標には郷社とあり、明治なって定められたもので、官社と諸社(民社)に分けられ諸社は県社、郷社、村社とあり、郷社は村社より格上で広い範囲の代表に位置づけの神社と云う。
〇貴船神社の「源氏天流」棒の手

    

2018/10/21「春日井祭り」での神屋町「棒の手」 演舞です。
流派は「真影流(しんかげりゅう)」です。
     
以上

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