きままな旅

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2018/11/15 滋賀県長浜市の観音の里を訪ねた。

2018-11-18 | 尾張文化の会

2018/11/15 滋賀県長浜市の観音の里を訪ねた。
 『尾張文化の会』のメンバー38名と滋賀県長浜市の観音の里を訪ねた。
 行程は春日井IC→小谷城スマートIC→渡岸寺観音堂(向源寺)→昼食→己高閣・世代閣→赤後寺→木之本IC→春日井ICで廻ってきました。(No404)
向源寺(こうげんじ)渡岸寺観音堂(どうがんじ)浄土真宗
 寺伝では、聖武天皇のころ天然痘が大流行し死者が相次いだので、天皇は除災の祈祷をこめて僧侶泰澄に勅せられた。祈願をこめて十一面観世音を彫り、一宇を建立したのがはじまりと云う。
 以来、病除けの観音像として尊仰され、桓武天皇の延暦二十年(801)には最澄により七堂伽藍を建立した。しかし時勢とともに時運は衰え、戦国時代には織田と浅井の戦火で堂宇は壊滅した。兵火が堂宇を襲う前に境内に埋蔵し難をまぬがれたと伝える。
 本尊は木造阿弥陀如来坐像(県重文)であり、収蔵庫には十一面観音立像(国宝)の像高約195cmで一木造り、「頭頂部」と「耳の後部」そして「後頭部」に大きな化仏を配し後ろ姿を拝むことができる。横に木造大日如来坐像(国重文)が安置されていた。

お寺の石標

仁王門 
 
本堂
ご詠歌碑
「みな人の 迷いの海は 深くとも 法(のり)の舟にて 渡す岸寺」
埋伏地
 元亀元年(1570)門徒と共に命がけで観音像をはじめこの地に埋めて難を逃れたと伝える。

歌碑

御尊像埋伏之地

渡岸寺野神
鶏足寺(けいそくじ)己高閣(ここうかく)・世代閣(よしろかく)
 己高山には五ヶ寺があり、鶏足寺は代表的寺院名であり、奈良時代に行基が草創し、泰澄が修行場としたが衰退、最澄によって再興された。「己高山五箇寺」の観音寺が中心として発展した。しかし江戸時代には荒廃した。昭和時代にはいり観音寺別院の1つである飯福寺と鶏足寺の両寺を合寺し「鶏足寺」と称したがのち無住となるにおよんで、興志漏神社境内に己高閣が建てられた。
・己高閣の収納品
 重文 十一面観世音立像 檜一木彫り 172cm 平安初期
 県指定 七仏薬師如来立像 檜一木及寄木作り 約1m 平安後期
 その他多くの仏像が所蔵されています。
・世代閣の収納品
 重文 薬師如来立像 楠一木彫り 180cm 奈良時代
 重文 十二神将 木心乾漆 約100cm 奈良時代
 県指定 魚籃観世音立像 檜一木彫り 160cm 平安時代 
 その他多くの仏像が所蔵されています。
 
己高閣

世代閣
 
興志漏神社神殿  興志漏神社境内を歩き己高閣・世代閣に向う 

鶏足寺へ紅葉見物者の列
赤後寺(しゃくごうじ)無宗派
 行基の創建と伝え、中世には神仏習合により日吉神社と一体のものとして信仰を集め、足利尊氏からも寺領寄進を受けたと伝える。本尊は木造千手観音立像と木造菩薩立像は共に平安時代の作で国重文と云う。
 二躰立像は像高約180cm檜一木造り木心乾漆風技法の彫刻像です。
 この地域では「ころり観音」と云われ、「災いを利に転ずる仏として」親しまれている。
 ここも戦国時代の兵火の際、村人によって川底に隠されたという伝承を持っている。
  
石標  本堂
 
鐘楼の天井飾りと四方の彫り飾り
 
日吉神社の鳥居   神殿

日吉神社の石垣境内の西に赤後寺の本堂と鐘楼
以上

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2018/11/13 岐阜県可児市の美濃金山城跡を訪ねた。

2018-11-14 | 尾張文化の会

2018/11/13 岐阜県可児市の美濃金山城跡を訪ねた。
 天文六年(1537)斉藤大納言が烏峰城に入城、後の永禄八年(1565)信長から森可成(よしなり)に烏峰城が与えられ金山城に改称された。城主森可成から森長可(ながよし)となり小牧・長久手の戦いで長可死去ご忠政(弟)に城主が継がれた。慶長五年(1600)忠政は国替えとなり慶長六年(1601)に廃城となった。
 天正十年(1582)六月本能寺の変で死去した森乱丸(蘭丸)はここの金山城で生まれたと伝える。
 
兼山地区センタ
〇美濃金山城跡(国史跡)
 本丸の標高276mで城下町とは約170mの高低差がある古城山の山城です。
 
城跡登口   出丸  
 
案内板 大手枡形

二の丸の石垣

東腰曲輪

金山城趾石標

本丸より城下を望む

本丸の礎石

本丸より木曽川の下流を望む(今渡ダム)
〇兼山湊跡
 江戸時代に可児、加茂、土岐域の塩を扱う場所であり、岩村藩や土岐郡内の村から年貢米もこの湊から出したと伝える。
・常夜灯は天保七年(1836)で一帯は県の指定史跡となっている。
 
湊入口の常夜灯   湊から見る石段と常夜灯
〇専養寺(せんようじ)日蓮宗
 徳野藩主(第二代)平岡頼資公墓がある。慶長九年(1604)家康に召し出され美濃国内に1万石を与えられ徳野藩を立藩したが、頼資の子で頼重は家督相続が認められず幕府によって徳野藩は廃藩となって1000万石の旗本として存続したと伝える。第一代藩主は平岡石見守頼勝である。
 山本家は江戸時代酒造業を営み、尾張藩に納める御用金を任されていた豪商で代々兼山村の宿長を務めたと云う。
 
石標 山門

本堂
 
平岡頼資公墓所     山本家墓所
〇浄音寺(じょうおんじ)浄土宗
 烏峰城城主斉藤正義の墓所があり、山門は鳥峰城裏門の移築と伝える。
 
山門   本堂
〇可成寺(かじょうじ)臨済宗
 森家(森可成、長可)の菩提寺で森三兄弟(乱丸、坊丸、力丸)の墓がある。
 
石標   山門と石標(森武蔵守長可公廟所)

本堂
 
工事中で廟所へは入れない   以前に訪れた時の墓碑
〇常照寺(じょうしょうじ)真宗
 妙向尼の墓所がある。妙向尼(えい)は森可成の妻であり森蘭丸の生母でもある。
 
山門   本堂

妙向尼(森蘭丸の生母)墓碑
以上

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