きままな旅

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2016/05/19西三河の古刹を訪ねる。(松平郷、瀧山寺、大樹寺)

2016-05-29 | 尾張文化の会

2016/05/19西三河の古刹を訪ねる。(松平郷、瀧山寺、大樹寺)
 『尾張文化の会』のメンバー34名と見学に行って来ました。(No379)
 コースは松平郷(高月院・松平東照宮)→真福寺(昼食)→瀧山寺→大樹寺でどこも新緑の綺麗な場所でした。

✿松平郷(国指定史跡)
 この地は南北朝の頃、在原業平(平安時代初期の貴族「歌人」で平城天皇の孫)の十九代子孫といわれる在原信盛が、この地を領有し舘を構えていた「外下山郷」を「松平郷」と改称した地であり、松平氏発祥の地として知られる「松平郷」です。
✿高月院
 当山は貞治6年(1367)の創設で、松平家(徳川氏の始祖)の菩提寺であり、徳川家康から寺領100石が寄進され、明治維新まで時の将軍から厚い保護を受けてきました。境内には、松平家墓所があり、在原親氏、泰親、親忠夫人の墓が並んでいます。また、現在の山門や本堂は寛永18年(1641)に徳川家光によって建立された文化財です。

 本堂前の山門

   山門
○松平氏墓地(国指定文化財)
 徳川家康の祖先である松平氏の墓地です.

 松平親氏の墓所 (中央に初代親氏 右に二代泰親 左に親忠夫人)


 宝篋印塔
○見初めの井戸
 その昔、在原家の屋敷に七つの井戸があり、その一つです。

 見初めの井戸
○松平太郎左衛門親氏像
 徳川家の始祖、松平太郎左衛門親氏

 親氏像
○松平親氏公願文の碑

天下和順 日月清明 

風雨以時 災厲不起

国豊民安 兵戈無用 

崇徳興仁 務修禮譲

「天下は和に従い日々清明であれば災い起こらず、国は富み民は安らかで戦いは無用。
よって人は常に徳を尊び、いつくしみの心をもって礼を厚くし、共生きの心で人格の向上に努めるべし。」
(出展:無量寿経)
         松平郷広報パンフより

親氏公願文の碑
✿松平東照宮
 当神社の祭神は、誉田別命、徳川家康公、松平親氏公の他六柱です。
 松平氏の氏神として若宮八幡宮を奉祀し、元和5年(1619)に久能山東照宮より家康公の御分霊を勧請して合祀して「松平の東照宮」と呼称します。

 神殿
○108枚の天井画
 2015年10月に徳川家康公四百年記念祭に拝殿格天井画108枚が愛知県の漆芸家、安藤則義の手により描かれた。

 格天井
○松平家(徳川家康公)の産湯の井戸
 石畳で囲い石段を下りて水を汲むように出来ている。また、石板の蓋のある井戸は当寺としては極めて珍しいと伝えられています。

 産湯の井戸
 
   ニの井戸
 
   三の井戸
○松平氏発跡地の石碑(愛知県)

 石碑の刻印
✿真福寺
○多宝塔
 この塔は「法華経」見宝塔品の説によって釈迦如来・多宝如来の二仏が並座する。『人々が望めば何時でも何処でも現れ、法を説き、方便によって様々な苦しみを除くとされる』云われています。

 多宝塔
✿瀧山寺(たきさんじ)天台宗
 天武天皇の御代に役行者小角(おづね)はこの地に堂を建てたのが始まりで、保安年間(1120~1123)になり、仏泉上人永救(比叡山で修行)が布教のため三河国に参られたおり、荒廃した瀧山寺跡に霊場を建て布教活動で寺院を建立させた。その後に寛伝上人(源頼朝公のいとこ)が住職になり源頼朝の厚い信仰を得た。江戸時代には、亮盛上人が将軍家光公に見出され寺領を賜りました。
○聖観音・梵天・帝釈天三尊像(国指定重要文化財)
 本尊として頼朝の歯と髪を納めた聖観音と、梵天・帝釈天の三尊像を仏師、運慶・湛慶父子に造らせた。聖観音は頼朝の等身大といわれ聖観音像をX線撮影したら、頭部内に小さな納入品が針金で吊るされているのが「頼朝の歯と髪が入っているのではと言われている」ことが判明したそうです。

 聖観音・梵天・帝釈天三尊像
○本堂は国指定重要文化財であり、三門(仁王門)は飛騨の内匠藤原光延(みつのぶ)が建立した国指定重要文化財であります。

 本堂

 三門(仁王門)今回は車窓よりの見学。
○瀧山寺は岡崎観光文化百選で有名な「鬼まつり」が盛大に行われています。

✿瀧山東照宮(国重要文化財)
 三代将軍家光の命により勧進されたものであり、日光、久能山とともに、東照宮三宮とされて、現存の東照宮社殿は正保3年(1646)に建てられ、徳川家康公誕生の地の守護である瀧山寺隣地に瀧山東照宮と称します。

拝殿
✿大樹寺(だいじゅじ)
 文明7年(1475)松平4代親忠(家康公から5代前の先祖)が創建されたものであります。
 家康(19歳)の時、桶狭間合戦により、今川義元が倒れたので身の危険を感じ、当寺に逃げ帰り、住職の登誉上人に先祖の墓前で自害すべく覚悟のほどを表わすと、上人の言葉は『厭離穢土・欣求浄土』(おんりえど・ごんぐじょうど)と訓し、悩める家康は思い留まった。家康公は『戦国乱世を住みよい浄土にするのがお前の役目』この寺で歴史的に大きく変化した場所です。

本堂(県指定文化財)

 多宝塔(国重要文化財)
 天文4年(1535)松平清康公が建立されました。

 鐘楼(県指定文化財)
○当寺よりよりほぼ南、約3Kmの岡崎城を拝む展望(ビスタライン)

 大樹寺山門より岡崎城を望む。

以上

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2016/05/15 源平墨俣川古戦場から青墓へ平家物語をたどる

2016-05-16 | 尾張文化の会

2016/05/15 源平墨俣川古戦場から青墓へ平家物語をたどる

◇源平墨俣古戦場(源平墨俣川の合戦)
 養和元年(1181)長良川をはさんで源平の源平の大激戦が展開された場所。
 源行家(頼朝の叔父)は「清盛死す」を聞き、「時こそ来たれ」甥の源義円(頼朝の弟)は6000騎で、平家の平重衡率いる3万騎の中へ無謀に攻め入り惨敗した。

○義円公園
     
    公園全景       古戦場碑
○義円地蔵と義円供養塔
 
  義円地蔵   義円供養塔
◇満福寺(真宗大谷派)
 寛和の頃(985)天台宗の伽藍として創建されたが、熊谷蓮生房の猶子、祐照法師が浄土真宗の宗祖親鸞聖人に帰依してより、嘉禎元年(1235)羽島郡西門間の庄足近に金足山満福寺建て、現地に至る。
 熊谷直実ゆかりの寺で江戸時代の墨俣宿本陣跡などが連なっています。
○熊谷堂
 満福寺の祖先熊谷蓮生房(れんせいぼう)こと熊谷次郎直実の遺徳を顕彰するために昭和63年(1988)に建立された。
  
   本堂     熊谷堂    墨俣宿の寺町
◇青墓
 この地は、朝長(頼朝の兄)と夜叉御前(朝長の妹)の悲劇の場所で、
 義朝は朝長を東海道に向かう自分に同行させようとするが、朝長は都を落ちるとき比叡山の僧兵に討たれた左太股に矢傷が膿んで歩けず青墓に戻ってしまう。父の義朝に頼んで殺害してもらったという。義朝は涙ながらに朝長を斬った。
 夜叉御前は兄頼朝を平宗清に捕らえられたのをなげき、20歳の若さで杭瀬川に身を投げた。
  
  表参道口  入口の石柱  「史跡の里」の看板
○芭蕉の句碑
苔埋む 蔦のうつつの 念佛哉 
 
   句碑
○朝長墓所
  
 入口   墓所(右より義朝・義平・朝長)
○青墓の長者大炊家の墓
 
  案内板    大炊家の墓
○元円興寺跡
 延暦九年(790)最澄(伝教大師)が東国教化の途中この地に立ち寄られ、山頂付近一帯に壮麗な七堂伽藍を配した円興寺を創建された。
  
 説明板     配置図  
   
 配置図   土塁     塔跡の礎石
○炭焼窯
円興寺の住職が昭和30年頃まで、寺用に炭を焼いていた。
 炭焼窯
○裏参道入口
 
 裏参道口    入口の石柱
◇円興寺(天台宗)
 延暦9年(790)青墓の長者大炊氏に頼み願いを受け、最澄(伝教大師)が開山したという。
 後、天正二年(1574)信長に焼かれ、万治元年(1658)この地に再建された。
  
  参道             騎乗の朝長
○歌碑
 平安時代の歌謡「今様」の聖地ある。
「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」の碑や、
「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけむ 遊ぶ子どもの声聞けば わが身さえこそ動るがるれ・・・・」
  歌碑が建っている。
◇明星綸寺(真言宗)
 持統天皇の勅願により鎮護国家の道場として朱鳥元年(686)に役小角(えんのおづの)の創立に始まり、その後衰退していたが空海(弘法大師)来山し諸堂を再建修復す。このとき桓武天皇は勅願を下し封戸三百石を寄進された。その後、慶長十四年美濃高須の城主徳永法院壽昌公は本堂はじめ諸堂を再建され、江戸時代に入って大垣藩主戸田家は代々祈祷所と定め帰依し保護となった。
○仁王門
 仁王門
○本堂
 本堂
○地蔵堂
 地蔵堂
○芭蕉の句碑
はとのこえ みにしみわたる いわとかな (はせを)
 
  石碑
○金正山(きんしょうざん)岩巣公園(磨崖仏観音)
 自然の造形によるカルスト台地の縮小版の奇岩怪石が群立する自然岩公園で、石灰岩層の露出面が長期にわたり自然風化したものだそうです。
  
 石灰岩層    磨崖仏観音

   以上

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2016/04/25 春日井市の下街道『内津』すみれ塚を訪ねる。

2016-05-07 | 尾張文化の会

2016/04/25 春日井市の下街道『内津』すみれ塚を訪ねる
見性寺と横井也有
 江戸時代の尾張藩士で国文学者の也有は安永二(1773)年72歳の時に滞在した也有は住職と漢詩(七言絶句)を唱和して楽しんだ。
◇漢詩
     
  入口   説明板    也有像  漢詩の石碑
◇見性寺境内に四基の句碑
①あたたかな 家あり山は 秋ながら
見性寺は万松寺(名古屋の大須)の網国和尚が隠居していた。也有と顔み知りで、久しぶりに交友を温めて、友に語り合った時の一句と云われています。
②さりながら 人事いはず 行々子
③すす掃や そろう火箸(ひばし)の 久しぶり
④夢もみじ 鹿きくまでは 臂(ひじ)まくら      蘿隠(らいん)(也有の別号)
   
   ①      ②と③       ④後日撮影です。
鵜飼史郎邸
 当家は「舎(やまきち)」という屋号の商家で代々「源六」と名乗り、幕末から大正初期まで「金勢丸(腹薬)」「正生丸(かぜ薬)」などの薬を中心に、みそ、たまりを醸造していた。母屋は元治元年(1864)年の建物でもで木造二階建ての切り妻屋根で軒下には、唐破風屋根(銅版)と龍の彫刻があしらった看板があり、母屋の裏には土蔵が幾つもあり、その中に三階建ての珍しい土蔵がある。
  
  母屋     金勢丸の看板     三階建ての土蔵の三階部分
内々神社と妙見寺
 内々(うつつ)神社庭園の右手、鶉衣「内津草」の小道に也有の句碑と登り終えると小さな丘に「すみれ塚」に出ます。

◇「内津草」の小道
 安永二年(1773)也有は名古屋の前津から駕で勝川(春日井市)、内津に掛けて詠んだ句。
・勝川の太清寺にある句碑
 かち人の 蹴あげや駕に 露時雨(つゆしぐれ)
 
  太清寺十王堂  句碑
・勝川、夜明けで一句。
 ①麓から しらむ夜明けや 蕎麦畑

   ①
・鳥居松でよが明け、食事で一句。
 ②夜と昼の 目は色かへて 鳥居松

   ②
・大泉寺、徒歩から又駕で一句。
 ③山がらの 出て又籠に もどりけり

   ③
・尻冷やし地蔵の前で狂歌を残す。
 ④尻ひやし 地蔵はここにいつまでも しりやけ猿の 心ではなし

   ④
・坂下、明知、西尾(さいお)通り一句。
 ⑤駕たてる ところどころや 蓼の花

   ⑤
・内津に住む長谷川三止(善正)らの迎えの者に出会い一句。
 ⑥名もにたり 蔦の細道 うつつ山

   ⑥

 《春日井の散歩道より》

◇「すみれ塚」
 

①鹿啼くや 山にうつふく 人心    (也有翁)
②山路来て 何やらゆかし すみれ草 (芭蕉翁)
 この句は芭蕉が逢坂山あたりで吟じたものと伝えられる、筆は也有で、親しかった内津の俳人長谷川三止(善正)が建てたもの。
 
  ①     ②

③雲日も 照日もぬれて 若葉かな  (明之房あけのぼう)
④芝橋や 下行風に 冬の音     (桂坊)
⑤人の親の 焼野のきゝす うちにけり (暁台翁きょうだい)
  
   ③     ④     ⑤
  《春日井の散歩道より》
    以上

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