2025/05/14 桑名市桑名駅南東方面の寺などを散策
✿ 散策コース
JR桑名駅⇒京町見附跡⇒毘沙門天⇒道標(桑名市博物館)⇒三重県電話発祥の地⇒観音寺⇒吉津屋見附跡⇒教宗寺⇒光明寺(町田武須計墓)⇒光徳寺⇒泡洲﨑八幡宮⇒十念寺(森陳明墓)⇒寿量寺(狩野光信墓)⇒天武天皇御足洗井⇒佛願寺⇒最勝寺⇒楊柳寺⇒法盛寺⇒桑名駅
✿京町見附跡
京町見附跡
✿毘沙門天
本堂
✿道標(桑名市博物館)
道標
✿三重県電話発祥の地
名古屋電話交換局桑名支局跡
✿観音寺
山門
本堂
✿吉津屋見附跡
吉津屋見附跡
✿教宗寺(きようそうじ) 浄土真宗
参道
本堂
✿光明寺(こうみょうじ) 西山浄土宗
入口
本堂
◆町田武須計(まちだぶけい)墓
町田武須計は桑名藩士町田伝太夫の長男で、後に初代桑名町長を務め、明治22年(1889)に死去しました。
町田武須計墓
✿泡洲﨑(あわすざき)八幡社
御祭神は誉田別命 相殿 天照大御神 天児屋根命
江戸時代以前、桑名の町中は町屋川の流れにより自凝洲崎、加良洲崎、泡洲崎の三洲に分かれており、この付近一帯を泡洲崎と称し當社は、往古より泡洲崎一洲の鎮守であった。
初代桑名藩主となった本多忠勝はこれを大改造し、川の流れを付け替えて城を東に置いた城下町に造り替えました。これを「慶長の町割り」と呼びます。
鳥居 参道 拝殿
説明版
✿光徳寺(こうとくじ) 浄土宗
嘗ては泡州崎念仏道場と称していました。
明治7年(1874)進善学校(日進小学校の前身)が当寺で開かれました。
境内墓地には桑名船場町の商人で「萬古焼」の創始者である沼波弄山(ぬなみろうざん)、享保三年から安保六年(1718~77)の墓が有る。
境内のヒカンサクラは桑名市内では早く咲く桜です。また、岐阜県根尾谷から分植した薄墨桜もあります。
入口参道
本堂
沼波弄山墓所
薄墨桜
✿十念寺(じゅうねんじ) 浄土宗
慶長の町割によって、現在地に移転した。
明治維新の際に桑名藩の責任を負って切腹した森陳明の墓がある。
境内には七福神を祀るお堂も有る。
入口参道 山門
本堂
七福神拝殿
説明版
◆森陳明(つらあき)
文政九年(1826)江戸桑名藩士小河内殷秋(ただあき)の長男として生まれ、殷秋の兄森陳功の養子となる。 陳明は藩主松平定敬(1846-1908)が京都所司代在職中に公用人となりました。
戊辰戦争(1868-69)では、東京上野で新政府軍と戦ったあと、降伏しました。
参道の石標
森陳明墓所 史跡桑名義士
説明版
✿壽量寺(じゅりょうじ)妙延山 日蓮宗
嘗ては今一色にあったが、慶長町割の際に現在地へ移ってきた。
江戸城の障壁画を描いた狩野光信は江戸から京都へ帰る途中に、慶長十三年(1608)桑名で没し、当寺に葬った。狩野光信墓の小さな五輪塔がある。
境内には明治二年(1869)銘の仏足石があり、寺宝として「銅磬」、「日蓮聖人御本尊」がある。
入口参道
本堂
狩野光信墓 案内板
仏足石
✿天武天皇御足洗井
皇位継承を巡る古代最大の内乱、壬申の乱(672)の際に大海人皇子(後の天武天皇)が桑名郡家(ぐうけ、古代の地方を治める役所)に宿泊した、その際この地の井戸で足を洗われたという伝承が伝えられています。「日本書紀」に記載が有ると云う。
昭和三年(1928)に「天武天皇御足洗井(みあしあらい)」碑が建てられ井戸も再現されました。
石碑
説明版
✿佛願寺(ぶつがんじ)浄土真宗本願寺派
御本尊は 木像阿弥陀如来立像
入口
本堂
✿最勝寺(さいしょうじ)浄土真宗本願寺派
織田信長軍と戦った長島一向一揆の敗戦で僧侶や門徒の勢力が弱まる。また、度重なる水害のため土地が失われたので桑名へ移転する。
桑名藩主本多忠勝が慶長三年(1598)により「慶長の町割り」にて現在の土地が与えられる。その後第十四代寂如上人慶安四年から享保十年(1651~1725)から「最勝寺」の名称を賜る。
入口表示
本堂
✿楊柳寺(ようりゅうじ) 曹洞宗
寺宝に「銅鐘」元禄十年(1697)銘がある。
山門
本堂
✿菅原神社
菅原神社
✿法盛寺(ほうじょうじ)
御本尊は「阿弥陀如来立像」で湛慶作と伝える。
入口石柱
本堂
✿桑名石取会館
桑名石取祭の祭車行事(いしどりまつりのさいしゃぎょうじ)(無形民俗文化財)
この行事は旧城下町桑名の春日神社(総鎮守)で行われ、町屋川で採取した石を氏神に奉納することを目的とした石取りと呼ばれる行事が祭礼化したものである。
石取会館 登録有形文化財標
祭車
2025/04/16 桑名市桑名駅北東方面の寺などを散策
✿ 散策コース
桑名駅⇒北桑名神社⇒専正寺⇒海蔵寺⇒長寿院⇒通り井⇒三崎見付跡⇒淳光院・永南院・浄土寺⇒地蔵寺⇒旧諸戸家(外観)⇒六華苑⇒住吉神社⇒七里の渡跡⇒幡龍櫓⇒通り井跡井⇒本多忠勝像⇒九華公園(天守台跡)⇒南大手橋⇒春日神社⇒常信寺⇒香林寺⇒䑳宗寺⇒本統寺⇒佛乗寺⇒桑名駅
桑名駅
✿北桑名神社
祭神は天照大御神、建速須佐之男命,鵜葺草葺不合命,泣沢女神,天児屋根命,持統天皇,応神天皇,宇迦之御魂神,火産霊神,高水上命。
創始は不詳であるが、皇大神宮が野代より鈴鹿忍山へ移御の時由緒を以て北伊勢大神宮と称したという。慶長年中(1596~1615)伊勢踊りが諸国に流行した時、神意があって時の城主本多侯が神殿神舎を寄進し、慶長九年(1604)8月16日夜半に遷宮が行われたと伝えられる。
歴代桑名藩主の崇敬も厚く本殿、社殿の寄進も度々であった。明治四一年(1908)延喜式内社佐乃富神社、三崎中臣神社、持統天皇社、船魂神社を合祀し、北桑名総社北桑名神社と改称した。
石柱と参道 説明版
拝殿
神殿
金毘羅宮
帖付地蔵尊
✿専正寺(せんしょうじ) 浄土真宗本願寺派。
寛永四年(1627)寺号免許あり、称念寺と称す。戦災にて焼失。昭和二十二年(1947)萱町にあった専久寺と合併し、専正寺となる。
昭和二十三年(1948)に現本堂を鈴鹿市柳の寺から移築。
境内に「蛤墳」あり、文政六年(1823)建立、大正十二年(1923)改築。
墓地に鳥居強右衛門一族の墓が七基ある。
このあたり一帯は江戸初期には漁村で、蛤の貝殻で厚く地面は覆われていました。
文政年間、この地の住人谷氏がこれら無尽蔵の貝殻を見て、蛤に対する感謝と供養のため蛤墳は建てられたと伝えられています。
石柱と山門 案内版
本堂
蛤墳
刻印(あまおふねのりのみ声にはまぐりの 貝の耳にもとめてしのばむ)
✿長壽院(ちょうじゅいん)臨済宗
松平定行(桑名藩主)が再興し、正室の菩提寺としたお寺である。
後に正室の法号から長寿院としている。
境内には、宝暦治水工事の薩摩義士3人の墓もある。
石柱
本堂
長壽院の墓所(梅鉢紋)
説明版
✿海蔵寺(かいぞうじ)法性山 曹洞宗
天正二年(1574)頃に創建。
ご本尊は「十一面観世音菩薩」です。
本山は道元禅師が開創された永平寺(福井)と瑩山禅師が開創された總持寺(横浜)である。
津市の四天王寺十七世晫州有暾大和尚を請うて当山の開山と伝える。
元禄年間(1688から1704)に地蔵堂、弘化二年(1845)に観音堂と安政元年(1854)に釈迦堂が建立された。
昭和三年(1928)には薩摩義士を祀った忠魂堂も建立されました。
昭和二十年(1947)の桑名空襲によって、お堂や庫裡は全焼した。
本堂
薩摩義士之碑 墓所
✿通り井
桑名の旧城下は揖斐川や町屋川の土砂の堆積したデルタ地帯で水質が悪く、「水売り」という職業があったほどです。それで4代目藩主松平定行は寛永三年(1626)に「町屋御用水」を作りました。
町屋川から吉津屋まで小川を掘り、吉津屋見附から暗渠で道路の下を通し、ところどころに井戸を作って汲み上げるようにした。
案内板
✿三崎見付跡
三崎見付跡 案内板
✿淳光院(じゅんこういん)西山浄土宗
入口と本堂 お地蔵尊
✿浄土寺(じょうどじ)西山浄土宗
慶長の町割りで現在地に移り、桑名藩主本多家の菩提寺となり、藩主本多忠勝が没した時に、当寺に葬られ、本多忠勝本廟となりました。
墓所には本多忠勝公の墓があります。
また、当寺にまつわる桑名の伝説・昔話 [ 幽霊飴 ] が伝えられる。
石柱 案内板
本堂
本多忠勝公の墓所
✿地蔵寺
御本尊は延命地蔵尊です。
本堂
馬頭観世音石碑と案内板 三宝荒神尊
✿通り道で奥様との憩いのひと時
桜(サクヤヒメ)
✿蔵前祭車庫(有形文化財)
蔵前祭車庫 案内板
✿旧諸戸家(外観)
室町時代に「江の奥殿」と呼ばれた矢部氏の屋敷がありました。
旧諸戸家
旧諸戸家
✿六華苑
二代目諸戸清六の邸宅として大正二年(1913)に完成し、本苑には鹿鳴館の設計で有名なイギリス人建築家ジョサイア、コンドル設計による4層の塔屋をもつ木造2階建て天然スレート葺きの洋館、和館や蔵、池泉回遊式庭園などがあります。和洋の様式が調和した明治、大正期を代表する貴重な文化遺産であり、国の重要文化財に指定されています。
長屋門(入場口) 案内図
洋館
洋館と塔屋
洋館の玄関 塔屋1階
和館から見る庭園 後方に池が有る
和館の廊下
和館から眺める庭を挟んだ番蔵棟
二番蔵
離れ屋
✿住吉神社
桑名は古くから伊勢湾、木曽三川を利用した広域的な舟運の拠点港として「十楽の津」と呼ばれ、木材や米等の集散する商業都市として発達してきました。
住吉浦は廻船の舟溜りで、全国から多数の廻船業者が集まっていた。この人たちによって航海の安全を祈り、住吉神社(現大阪市)から勧請してこの住吉神社が建立された。
石柱と参道 拝殿
案内板
✿七里の渡跡
熱田(宮宿)、宮の渡しから海上七里を船に乗り、桑名の渡しに着いたことから「七里の渡し」です。
旧東海道の四十二番目の宿場町として大賑わいを見せていました。
大鳥居は「伊勢国一の鳥居」と称され、伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられています。
伊勢国一の鳥居 案内板
蟠龍櫓と上陸階段
✿蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)
かつては東海道を行き交う人々が必ず目にした桑名のシンボルを忠実に復元た。
歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。
「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとしても広く用いられています。
また、蟠龍櫓は航海の守護神としてここに据えられたものと伝える。
幡龍櫓
✿通り井跡
案内版
通り井跡 通り井跡(井)の拡大
✿本多忠勝像
桑名城の三の丸跡に本多忠勝の銅像が建てられています。
忠勝は徳川四天王の一人に数えられ、慶長六年(1601)桑名城主となり、「慶長の町割り」といわれる町の大改造を行いました。
本多忠勝像
✿九華公園(天守台跡)
桑名城の本丸跡と二の丸跡に造られた公園で、かつて「扇城」と呼ばれ、海道の名城とたたえられた城の面影を残し、多くのさくらやつつじが植えられ、市民の憩いの場として親しまれています。
園内には松平定綱(鎮国公)と松平定信(楽翁公・守国公)を祭る鎮国守国神社がある。
天守台跡 戊辰殉難招魂碑(剱型の青銅製)
✿鎮国守国神社
天明四4年(1784)白河(福島県白河市)城内に松平定綱(鎮国公)を祀ったのが始まり。文政六年(1823)白河から桑名へ移封にともない当社も桑名城本丸に移りました。のち松平定信(守国公=楽翁)をも祀り、明治維新後しばらくは本丸の外に移っていましたが、明治四十年(1907)本丸跡の現在地に移りました。大正八年(1919)に現拝殿が完成した。
石柱
鳥居 拝殿
✿辰巳櫓跡
辰巳櫓跡 辰巳櫓跡より望む
✿南大手橋
南大手橋(三条大橋)
✿桑名宗社(春日神社)くわなそうしゃ
永仁四年(1296)奈良春日神社から春日四柱神を勧請合祀したことをきっかけに、以降は春日神社と呼ばれていた。全国的にも珍しい神社とされています。
主神(桑名神社)
御祭神は天津彦根命(あまつひこねのみこと)と天久々斯比乃命(あめのくぐしびのみこと)
主神(中臣神社)
御祭神は天日別命(あめのひわけのみこと)で、古くから桑名の総鎮守として崇敬されています。
伊勢国最初の神社で、伊勢神宮との関わり深い神社です。
また社宝として「村正」の太刀や徳川家康坐像、松尾芭蕉の短冊などが有ると云う。
鳥居 山門
神殿前の鳥居
拝殿 桑名神社(右)中臣神社(左)
✿西福寺(さいふくじ)真宗大谷派
本堂
✿常信寺(じょうしんじ) 真宗高田派
陶板塀のレリーフが有る。
石柱 山門
本堂
陶板飾り
✿香林寺(こうりんじ) 真宗高田派
本堂
✿䑳宗寺(りんそうじ) 真宗高田派
䑳崇寺の住職を務めるかたわら、幕末から明治にかけて復古大和絵派の絵師として活躍した画僧で帆山花乃舎(ほやま はなのや)文政六年から明治二十七年(1823から1894)です。
桑名市博物館では䑳崇寺の住職を務めながら復古大和絵派の絵師として活躍した桑名出身の画僧、帆山花乃舎の特別企画展を2022年1月から2月まで開催していた。
入口 本堂
✿桑名別院本統寺(ほんとうじ) 真宗大谷派
元亀・天正の間、石山本願寺と織田信長は後に本願寺十年戦争といわれる騒乱の中で幾度となくぶつかり合っていた。
そして、争乱終結後の慶長元年(1596)第12代教如上人によって、宗祖親鸞聖人の教えを共に聴聞していく、この「今寺」を本願寺の禄所(ろくしょ)として取り立てられたのが桑名別院の草創です。
本統寺は徳川家茂や明治天皇が宿泊した由緒あるお寺で、桑名御坊とも称され、俗に「ご坊さん」の名前で市民には親しまれています。
境内には俳聖松尾芭蕉が貞享元年(1684)野ざらし紀行の初旅の折り、この地で詠んだ句「冬牡丹千鳥よ雪のほととぎすはせを」の句碑(冬牡丹句碑)が建てられています。
山門
桑名別院表示 案内板
本堂
石碑前
石碑 説明版
親鸞聖人像
✿佛乗寺(ぶつじょうじ) 真宗大谷派
本堂
2025年春日井市内の桜(03/29、04/01)
【3月29日】
✿落合公園
つぼみ
つぼみ
桜一輪
◎三春滝桜(みはるたきざくら)
「三春滝桜」は日本三大桜の一つで推定樹齢1000年を超える歴史の有る、岐阜県「根尾谷淡墨桜」、山梨県「山高神代桜」、福島県「三春滝桜」の3カ所の桜を指す。いずれも国の天然記念物に指定されており、美しさを堪能する桜と云われる。
三春滝桜の看板
三春滝桜
✿上ノ町神社
鳥居
祠
✿八幡神明社
石柱
参道 桜
拝殿
クスノキ(保存樹)
公園の桜
✿尾張広域道路(すいどう道)
すいどう道
【これより4月1日】
✿三ツ又公園
公園のシダレヤナギ
むつみ橋
ふれあい緑道
✿落合公園
東屋 カナディアンハウス
2025/03/10岐阜県羽島市「美濃竹鼻まちなみ散策」しました。
◇ ◇ 散策コース ◇ ◇
名鉄竹鼻駅⇒円覚寺⇒秋葉神社⇒竹鼻不動明王・伏見稲荷大明神⇒八剱神社・明治神社⇒本覚寺⇒光照寺⇒般若寺⇒西岸寺⇒専福寺⇒竹鼻別院⇒正法寺⇒稲荷神社⇒秋葉神社⇒聞得寺⇒浄栄寺⇒大仏寺⇒名鉄羽島市役所前駅
名鉄竹鼻駅
✿円覚寺(えんがくじ)宝林山 浄土真宗本願寺派
明治九年(1876)東本願寺掛所河野御坊専福寺は、東本願寺竹鼻別院と改称された。
河野御坊専福寺の住職河野氏は、竹鼻別院の所属を巡って本山との間に起きた訴訟で敗訴となり、竹鼻別院を出て今町へ退いた。明治二十七年(1894)西本願寺へ転派し、明治三十年(1897)許可を得て三重県朝日村にあった円覚寺を現在地(栄町)へ移して住職となった。
河野氏ならびに専福寺は、共に古い歴史を持ち、河野九門徒と呼ばれ、濃尾の地に真宗が弘布する基を築いた。市内唯一の浄土真宗本願寺派の寺院。(羽島市観光協会)
石柱
本堂
説明板
✿秋葉神社 (あきばじんじゃ)
主祭神は火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおみかみ)、天照皇大御神、猿田彦大神
鳥居 石柱
参道 祠
祭神版
✿竹鼻不動明王
由来は「役の行者」で宝塔の石室に杖を持ち給う座像は役の行者尊で、天明三年( 1783) 冬、大峰講中が、天下泰平、五穀豊熟、当所繁盛、家内安全の願意により、八劔神社境内に創建したものを、明治初年の神仏分離令により、浅井社家に預けられたが、明治33年4月再び有志者により此処にお遷ししたもので、縁結びや安産などの霊験あらたかだといわれている。
参道 石柱 参道 本殿
不動明王
由来版
✿伏見稲荷大明神
参道 祠
✿八剱神社(はっけんじんじゃ)
御祭神は日本武尊
天正九年(1581)竹ヶ鼻城の鬼門除けとして城主不破源六が居城の守護として遷座し、社殿を造営した。
正面破風の「波に浮かべる兎」は左甚五郎作と伝えられている。
拝殿の絵天井は郷土画家の宮脇有景の作であったが風雨により状態が悪くなり、平成四年(1992)に地元の画家十九名により花鳥を中心に104枚が復元された。
鳥居 石柱
拝殿 拝殿と夫婦樟
拝殿と神殿
拝殿 七福神
天井絵
◆両宮大神宮
祭神は天照大神、豊受大神
両宮大神宮 説明版
◆天神地祇社
祭神は天津神
天神地祇社
◆魚入天神社
祭神は五百本入日売命
魚入天神社
◆熱田神社
祭神は日本武尊
熱田神社
◆秋葉社
祭神は軻遇追神
秋葉社
◆猿田彦大神
祭神は猿田彦神
猿田彦大神
◆金毘羅社
祭神は大巳貴命
金毘羅社
◆夫婦樟(めおとくす)
樟は照葉樹を代表する樹木で、推定樹齢400年と云われる。
2本の木が仲良く寄り添いあっている姿が、共に助け合う夫婦の姿にみえることから「夫婦樟」と云われる。
夫婦樟 説明版
✿明治神社
参道橋 祠
✿なまず神社
商売繁盛 家内安全 宝船に乗って来たなまずの神と伝える。
船上の祠
✿本覚寺(ほんがくじ) 曹洞宗
永禄元年(1558)正眼寺より玄沢祖栄を創建開山として招請、天台宗を曹洞宗に改宗。その後、天正八年(1580)竹鼻城に不破源六広綱が入城し当寺を竹鼻城主の菩提寺として復興させ曹洞宗寺院としての歴史と伝統の礎を築いたのである。
石柱と山門
本堂
山門前の地蔵
◆絵天井
本堂の絵天井、「雲龍の絵天井」は中央に鏡を作りその全面を用いて極彩色の雲龍を描いた板絵である。
(岐阜県重要文化財)
絵天井(パンフレット)
◆本覚寺墓地に美濃の聖人、永田佐吉の墓碑がある。
表示
◆竹鼻(ちくび)稲荷
竹鼻城主の守護神として祀られていた茶枳尼尊天(だきにそんてん)と云う。
鳥居
本堂
✿光照寺(こうしょうじ) 浄土宗西山禅林寺派 轉法輪山
厚見郡西庄村(岐阜市西荘)立政寺の末寺で、元三屋村(笠松町)にあったが、慶長二年(1597) 円空慶立が八剣神社の宮寺として移転、創建したと伝える。 (羽島市観光協会)
石柱 参道
山門
本堂
説明板
✿般若寺(はんにゃじ) 天台宗叡山派 普門山
明治初年ころ、谷汲山帰依の信者が多く、また、華厳寺の住職が足近町出身であったことから、相当数の人々が華厳寺へ参詣していた。そこで、横井辰二郎、一柳茂吉、説田菊次郎等が中心となり、当地に御分身を御請けすることとし、堂宇の建設に努力したのが始まりと伝える。
当寺所蔵には谷汲山華厳寺から大般若経600巻が贈られたものと云う。
入口の石柱
参道
本堂
説明板
✿円空ロード
江戸期に美濃で生まれ、生涯に12万体の神仏像を彫ったとされる謎に包まれた遊行僧、円空上人ゆかりの地です。
円空ロード
✿秋葉神社
鳥居 石柱
祠
✿西岸寺(さいがんじ) 真宗大谷派
文禄三年(1584)現在の足近町西方寺九第住職にして文武に優れた名僧祐慶師が始祖である。祐慶師は織田信長が本願寺に敵対した石山合戦の武勇により、天正九年(1581)教如上人の御眞筆の御書六月二八日、聖人の左上の御影を賜り御陽成院の御眞輪も頂戴された。
山門
説明版
本堂
✿専福寺(せんぷくじ) 真宗大谷派
明治九年(1876)東本願寺掛所専福寺は竹鼻別院となった。その後、御坊専福寺は竹鼻別院となり、専福寺の寺号は消滅した。後、明治十九年(1886)に専福寺を創立した。そして、現住職に至っている。
山門
本堂
鐘楼
説明板
✿真宗大谷派竹鼻別院」
慶長九年(1604)教如上人は寺を「御坊」とし新加納村から竹ヶ鼻村に移して54ヶ寺を配下にしました。その後、竹鼻の下町にあった「御坊専福寺」は、宝歴十年(1760)に現在地へ移転して、明治九年(1876)になり「竹鼻別院」と改称されました。
境内には薩摩工事義歿者墓(さつまこうじぎぼつしゃのはか)がある。
幕臣で宝暦治水工事の御小人目付として一之手(羽島市桑原輪中から愛知県神明津輪中まで)を担当したが、後に自刃した「竹中伝六」のお墓です。
石柱
山門 説明板
本堂 説明板
鐘楼
竹中伝六喜伯之墓
説明板
◆竹鼻別院のフジ(県指定天然記念物)
樹齢300年以上といわれる「竹鼻別院のフジ」は華麗な薄紫の花が咲き乱れています。
樹勢は、根廻り2.30m、枝張り東西33m、南北15m、樹高2.4mです。
フジ棚
説明板
✿竹ヶ鼻城跡
石標 説明板
✿正法寺(しょうぼうじ) 浄土宗西山派
天正十五年(1587)十月、濃州厚美郡西庄村の立政寺十五世恵空智玉が建立した。往時は福寿町本郷にあった。慶長十九年(1614)の洪水で堂宇が流出したため、現地に移転し隋松庵と呼んだ。正徳四年(1714)第十世俊超上人が大慈山正法寺と改めた。
近くの小堂に祭られている十一面観音菩薩像は恵心僧都末期の作で、母乳を豊かにするという「乳乞い信仰」で知られている。
境内には市の名木百選の老松があり、「臥龍の松」と称されている。
石柱
石柱(乳乞観世音)
本堂
臥龍の松
✿川町灯台
逆川の川町湊に通じる灯台であった。
灯台
✿稲荷神社
鳥居
祠
✿秋葉神社(下二)
祠
✿聞得寺(もんとくじ) 真宗大谷派
天文七年(1538)近江国浅井長政の七男、浅井民部卿行政が美濃西門間庄(竹鼻町大西)へ来て、剃髪して法名を浄祐と名乗り、一宇を創建した。
山門は、銅板葺入母屋造りの鐘楼門であり、年月を経た今も銅板の緑が美しい。
山門 説明板
鐘楼門
本堂
✿浄榮寺(じょうえいじ)真宗大谷派 龍登山
創立年月は不詳。法壽坊龍登山浄榮寺と称す。
上山蔵人信家法名法壽坊の開基。元は天台宗であったが、後世蓮如上人本願寺教団に帰し、現在は真宗大谷派(東本願寺)。川並六坊の一つ。川並六坊は本願寺第八世蓮如上人関東巡化の帰洛の折、尾張の境川を二代目釋壽聞他五人の僧が、上人を助けて川を渡し、近江に無事お送りしたのに由来する。
梵鐘は名古屋市の東照宮の時鐘、元和八年(1622) 尾張公徳川義直を願主として、水野太郎左衛門藤原則重鋳造。明治九年(1876) 願主十六代目釋徳明が買い受けた。 (羽島市観光協会)
山門
本堂
説明板
鐘楼
✿佐吉大仏(大仏寺)
佐吉大仏は、永田佐吉翁によって仏恩報謝のため建立された青銅製の釈迦如来坐像です。
全高は4.9m、江戸神田の鋳造師西村和泉守藤原政時の作で、宝暦八年(1758)太平洋を五艘の舟に分けて運び、翌年当地で一体に完成させた。
佐吉翁は、孝行、公益、報恩、陰徳など数々の善行を実践され、「仏佐吉」、「美濃聖人」称された。
本堂
説明板
佐吉大仏
柳原白蓮
連続テレビ放送「花子とアン」近年有名になった白蓮は大正時代の歌人で「大正三美人」と称された1人であり、伯爵家(大正天皇のいとこ)の令嬢として東京に生まれ、九州の炭鉱王(伊藤伝右衛門)と結婚し、筑紫の女王として知られる。
野口雨情
野口雨情民謡叢書に記載の「竹ガ鼻小唄」です。
延命地蔵 説明板
名鉄羽島市役所前駅
名鉄竹鼻線某所駅車窓より
2025/02/13(木)安城市北部を散策した。
散策コース
名鉄新安城駅→白山比売(はくさんひめ)神社→今村公会堂→崇福寺(そうふくじ)→専超寺(せんちょうじ)→西方寺(さいほうじ)→上乗森(のらずのもり)神社と梅泉芳水(ばいせんそうすい)歌碑→新安城駅
東海道は慶長6年(1601)徳川家康の五街道整備により制定された街道であり。鎌倉街道は古代の官道をもとに源頼朝が開いた鎌倉と京都を結ぶ道で、現在では残念ながら所々その面影を残す現状です。
名鉄新安城駅
✿白山比売(はくさんひめ)神社
御祭神は菊理姫命(くくりひめ)で別称は白山比咩神(しらやまひめのかみ)と伝える。
和銅6年(713)崇福寺の創建とともに祭神である白山姫命をこの寺の守護神として境内に勧請したと伝わります。これが今の白山比売神社といわれています。
境内地は室町時代に松原氏の館があったと云われ「今村城跡」とも呼ばれています。
石標 両部鳥居
拝殿
〇境内社(摂社)
秋葉社
鳥居 拝殿
山の神社
稲荷社
厳嶋社
✿今村公会堂
ここはもともと公民館「有守館」(明治44年(1911)建設)が有り跡地に今村公会堂が建てられたと伝える。
今村公民館
✿崇福寺(そうふくじ)高根山 臨済宗妙心寺派
当寺は白山比売神社とともに創建されたと伝わります。
安土桃山から江戸年代(1596~1615)に千岩和尚が寺院を建立し、これを開山とした。
時代不詳の絵画、絵本著色釈迦三尊像と室町時代の絵画、絹本著色阿弥陀三尊来迎図(市指定)を有する寺です。
石標 山門
山門の落慶(2009年、平成21年4月)
山門の瓦(鬼とナマズ)
美貌の神として知られる豊玉姫(とよたまひめ)の伝説は、日本の二つの古代史である『古事記』と『日本書紀』に広く記録されています。
本堂
境内
薬師堂
達磨大師
✿専超寺(せんちょうじ)高瀬山 真宗大谷派
弘法大師空海により真言道場そして創立された。その後、浄土真宗の開祖親鸞が矢作の柳堂で説法した際(寛喜3年1231年頃)初代善悟僧都(ぜんでそうづ)が帰依し、名号と山号を賜った。そして文明元年(1469)頃、十代蓮順が蓮如の弟子となり、本願寺派寺院となった。
永禄6年(1563)三河一向一揆で徳川家康に味方したため焼き討ちに遭い伽藍は焼失した。
安永8年(1779)に再建された本堂、山門・鐘楼・経蔵など江戸時代後期の真宗寺院伽藍がよく残っています。
境内には樹齢300年前後と推定「元禄年間(1688から1704)」されるケヤキ(市指定天然記念物、周囲3.3m樹高19.5m)があります。
山門
石標
本堂
鐘楼
経蔵
ケヤキ(市指定天然記念物)
✿西方寺(さいほうじ)八幡山 真宗大谷派
創始は寛文3年(1663)、養心が初代住職でした。現在の本堂は天明4年(1784)に再建と伝える。
市指定保護樹木のクロマツ(周囲2.05m)が庭の中程にあります。
安土桃山時代の絵画、絹本著色覚如上人像と室町時代の書跡、絵本墨書六字名号(市指定)を有します。
山門 石標
石標と松
本堂
クロマツ
鐘楼
✿義眞寺(ぎしんじ)曹洞宗
御本尊は釈迦如来です。
石標
本堂
地蔵
✿上乗森神社(のらずのもりじんじゃ)
当神社は冷泉天皇の安和年間(968から970)に近江国坂本(滋賀県大津市)の日吉大社より勧請したと伝わります。
境内北を鎌倉街道が通り、通行の際は下馬し拝礼するのを例としたとされたことから、「駄野森(のらぬもり)」とも云われました。
日吉山王新道の基礎「見ざる」「言わざる」「聞かざる」石像がある。
悪いものは「見えない」、悪いことは「言わない」、悪いことは「聞かない」と言うことは、すなわち良いものを「見」、良いことを「言って」、」良いことを「聞き」事で良いことを実行すると言う教えです。
石標 鳥居
山王鳥居
拝殿
拝殿の神猿(マサル)
神猿の由緒
幸福釜
三猿石像
猿神社
北石標
✿歌碑・梅泉芳水(ばいせんあんそうすい)
上乗森神社裏の鎌倉街道沿いにある梅泉庵芳水が詠んだ「歌碑」ます。
歌碑は「馬降りて 神の威徳を かしこみて 鎌倉街道 過ぎしもののふ」とある。
鎌倉街道 縄文二タ股遺跡跡
梅泉庵芳水が詠んだ「歌碑」