きままな旅

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2016/10/30 JR春日井駅新築記念・鳥居松スタンプラリー

2016-10-31 | ブログ

2016/10/30 JR春日井駅・鳥居松スタンプラリー

 平成23年から続くJR春日井駅の自由通路と橋上駅舎が10月30日完成し使用が開始された。エスカレーター、EV、トイレ、春日井情報発信センター(リリック)、等が出来上がり駅舎が生まれ変わりました。8時45分に春日井駅前弘法(正栄寺)の行列に並び9時から配布される「お餅」を受取り、スタンプラリーのスタート地点(リリック)でパンフレットを頂きラリーを9時20分スタートした。コースは約3km(45分)と表示が有った。順路は次の通りです、「スタート」春日井情報発信センター「リリック」→①春日井駅弘法正栄寺→②野村商事→③市原商店→④春日井市郷土館→⑤キラクヤ→⑥ぱれっとハヤシカナモノ→⑦マルマタ商店→⑧塚田屋→⑨アーバンクリエイト→「ゴール」春日井情報発信センター「リリック」の10か所でした。
●春日井駅前弘法の「お餅配布」場所
 お餅の配布は先着500名で私が着いた時にはすでに200名を越えていた。20分後には完売となった。弘法様の台舘でお祈り、正面に廻りお祈りを済ませてスタンプラリーに挑んだ。

      弘法大師

          お餅配布行列

         配布された「お餅」
●JR春日井駅新駅舎
 新駅舎は上り、下りのエスカレーターとエレベータも北、南口にありその下には公衆トイレも完備されており橋上自由道路は幅員も広くゆったりしていた。
  
         新春日井駅舎        橋上自由通路

               橋上自由通路より北を望む

             (多治見方面を望む)
●スタートとゴール地点、春日井情報発信センター「リリック」

 リリック
①春日井駅弘法正栄寺
 正栄寺の緑テント
②野村商事
 スタンプ台
③市原商店
 スタンプ台
④春日井市郷土館
 郷土館は以前、日曜日に会館していたが家屋の老朽化によりここ4、5年前から休館状態であったが、本日会館している事にビックリした。当然であるが家屋内は入れない、しかし中を覗く機会に恵まれた、また横井也有の歌碑も見ることが出来た。  

  郷土館の入口    
スタンプ台

   歌碑 「夜と昼の 目は色かへて 鳥居松」 也有
 
  郷土館の内部を覗き見です。(入場不可)

 明治天皇陛下下原新田御小休所の碑 左上に枝が少々見えますのが「下街道サミットの松」(2年前に植樹と聞く)
⑤キラクヤ
 スタンプ台
⑥ぱれっとハヤシカナモノ
 スタンプ台
⑦マルマタ商店
 スタンプ台
⑧塚田屋
 スタンプ台
⑨アーバンクリエイト
 スタンプ台
●スタンプラリーのコース票
 「スタート」は『夢』①『と』②『希』③『望』④『を』⑤『翼』⑥『に』⑦『春』⑧『日』⑨『井』「ゴール」は『駅』で答えは「夢と希望を翼に春日井駅」でした、無事に完走してアトム通貨「100馬力」と子供には折り紙をゲットした。
 コース票
←(クリックにて拡大)

●かわら版 近くの新聞販売店が作ったかわら版をいただき。春日井駅の誕生と弘法大師像の建立を学んだ。
 JR春日井駅、昭和2年に誕生の記事
 弘法大師像を建立の記事
●コースの途中で地蔵さんを発見する。
地蔵川の記念橋と八事橋で三角地点(県道春日井一宮線沿い)
 お地蔵さん
   以上

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2016/10/21 奈良市の元興寺及びならまち周辺と浄瑠璃寺を訪ねる。

2016-10-24 | 尾張文化の会

2016/10/21 元興寺とならまち周辺及び浄瑠璃寺を訪ねる。
 元興寺とならまち
 奈良時代(八世紀)の元興寺の金堂や塔、南大門など主要な伽藍があった地域と推定されている。中世以降、奈良の町の発展にともない寺地の大半は宅地化がなされたところ。
◆元興寺(がんごうじ)真言律宗
 南都七大寺の1つに数えられる寺院と云われる。
 蘇我馬子が飛鳥に建立した、日本最古の本格的仏教寺院である法興寺(現在、飛鳥寺)がその前身である。平城京遷都に伴って飛鳥から新都へ移転し、元興寺となった「元興寺極楽坊」と称し西大寺の末寺でもある。
元興寺には、国宝建造物が3つある。本堂、禅室、五重小塔などが見どころであった。
○山門
  
  山門     北山門
○本堂(国宝)、禅室(国宝)
 極楽坊本堂は寛元二年(1244)に再建されたが、その際古材を随所に用いている。かつては僧侶の生活と修行の場であったと云われる。
  
  本堂     本堂側面     禅室
○本堂の屋根
 屋根の赤味がかった古い瓦は6世紀末から風雪に耐えた日本で最初に造られた瓦であると云われる。

 日本で最も古い瓦
○五重小塔(国宝)
 小塔本体の高さは基壇上から5.5mで実際の塔の10分の1に造られています。

   五重小塔
◆元興寺塔跡(重文)
 奈良時代(八世紀)の元興寺の東塔跡である。安政六年(1859)に焼失した、高さは約50m(二十四丈)の五重塔である。
 
  入口     山門
   
  五重塔の礎石   礎石の並びが塔の大きさを遺している。
○啼燈籠 正嘉元年(1257)の刻銘が見えた。
  
  啼燈籠         奥は観音堂
◆元興寺小塔院跡
 聖武天皇のころ、元興寺の西の金堂と呼ばれた吉祥堂が大仏開眼の導師を務めた菩提遷那(ぼだいせんな)の来日を機に小塔堂として改築された。
 境内に奈良時代から平安時代初期に活躍した法相宗の僧、護命(ごみょう)の供養塔がある。
 
 入口小塔院跡    護命供養塔
◆元興寺本堂跡 宝徳三年(1451)に炎上 
 
  本堂跡
◆大乗院庭園
  大乗院は、文化4年(1087)に創建された興福寺の門跡寺院で、庭園は室町時代の徳政一揆で荒廃したが、その後、室町時代に活躍した庭師で第一人者だった「善阿弥(ぜんあみ)」によって改造された。
  
  入口     庭園
◆十輪院(じゅうりんいん)
  元は大寺院だった元興寺の別院で、寺伝によると元正天皇(715-724)の勅願寺で奈良時代に朝野魚養(あさのなかい)(右大臣・吉備真備(きびのまきび)の長男)が、元正天皇の旧殿を拝領し創建したと伝わる。中世以降は庶民の地蔵信仰の寺として栄えた。朝野魚養は能書(書道の名人)とされ、弘法大師空海の書の師ともいう。ご本尊は石仏龕中央の地蔵菩薩です。
○本堂(国宝)[鎌倉時代]

 本堂
○石仏龕(がん)(重文)[平安中期から鎌倉前期] 花崗岩製
 弘仁年間(810-823)に弘法大師が石造地蔵菩薩を造立された、龕中央の奥に本尊地蔵菩薩、その左右に釈迦如来、弥勒菩薩を浮き彫りで表わしています。

  本尊の地蔵菩薩
○十輪院の境内にある魚養塚。
朝野宿彌魚養(あさのすくねなかい)のお墓です。
  
  魚養塚
○みんなのお寺(十輪院仏教相談センタ)
商店街(奈良市東向南町)の中にあるお寺で、朝、夕の勤行、写経、写仏、瞑想もできる場所で仏事、人生相談を受け付けているそうです。又、東京の神田神保町にもあるそうです。
・河島英五の墓

   河島英五の墓前模様
◆浄瑠璃寺(じょうるりじ)真言律宗
 永承二年(1047)に薬師如来像を本尊として創建された。末法思想と結びついて貴族や庶民の間に広まった浄土教を反映して、境内の伽藍配置は藤原時代に流行した浄土信仰の形式で阿字池を中心に阿弥陀堂と三重塔が立っている。
○本堂「九体阿弥陀堂」(国宝)嘉承二年(1107)建立した。 
 山門     本堂     灯籠越しに灯籠と本堂を望む
○三重塔(国宝)治承二年(1178)京都の一条大宮から移建した。
 三重塔内に安置されている秘仏薬師如来像(重文)は九体阿弥陀仏より六十年前に造顕された時のご本尊である。

   三重塔
○阿弥陀如来坐像「九体」(国宝)浄瑠璃寺のご本尊である。
 「感無量寿経」にある九品往生の九つの如来である。
中尊は丈六像で来迎印(下生印)、他の八体は半丈六像で定印(上生印)を結んでおられる。


 
  阿弥陀如来坐像「九体」
○秘仏吉祥天女立像(重文)建暦二年(1212)この寺の本堂に祀られたと云われる。
 五穀豊穣、天下泰平などの豊かな暮らしと平和を授かる幸福の女神である。

 吉祥天女立像
○その他九体阿弥陀堂内の仏像
・子安地蔵菩薩像(重文)[藤原時代]
・不動明王三尊像(重文)[鎌倉時代]
・持国天(国宝)[藤原時代]
・増長天(国宝)[藤原時代]
○博物館に出ておられる仏さま
(お坊さんいわく出張中の像は4体有ると語る。)
・東京国立博物館「延命地蔵菩薩像」(重文)[藤原時代]
・奈良国立博物館「馬頭観音像」(重文)[藤原時代]
・奈良国立博物館「多聞天」
・東京国立博物館「広目天」
      以上  

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2016/10/20 奈良北部を訪ねる。(般若寺・秋篠寺)

2016-10-23 | 尾張文化の会

2016/10/20 奈良北部を訪ねる。(般若寺・秋篠寺)
 『尾張文化の会』の10月の例会でメンバー40名と拝観に行って来ました。(No383)
今回は春日井IC→巨椋IC・国道・城陽IC→木津IC→般若寺→(食事)→秋篠寺→平城宮跡資料館→木津IC→春日井ICの行程です。

◆般若寺(はんにゃじ)真言律宗
 飛鳥時代に高句麗の慧灌(えかん)法師によって開かれた。
 都が奈良に遷って天平七年(735)聖武天皇が平城京の鬼門を守るため『大般若経』を基壇に納め卒塔婆を建てられたにが寺名と伝わる。

○楼門(国宝)[鎌倉]
 文永四年(1267)の建造で日本最古と伝える。室町・戦国時代にはたび重なる合戦の渦中におかれながらも奇跡的に兵火をのがれた。屋根ははばたく鳥のつばさのような屋根のそりをもち全体に伝統の和様形式で均整のとれた姿は「最も美しい楼門」とたたえられている。
   
 般若寺石碑        楼門
○本堂[江戸]
  
 本堂               本堂と十三重石宝塔の基盤
○十三重石宝塔(重文)[鎌倉]
 卒塔婆の略で、内部に釈迦牟尼仏陀の舎利を祀る。
宋人石工伊行末、行吉らの手で建長五年(1253)頃再建された。高さは五尺(14.2m)で日本を代表する石塔である。
    
 十三重石宝塔
 相輪と十三重石宝塔
  慶長大地震(1596)で墜落した石製相輪
○顕教四仏(けんぎょうしぶつ)
 顕教四仏
○笠塔婆(重文)[鎌倉]
 宋人石工伊行吉が弘長元年(1261)に父伊行末の一周忌にあたり父母の供養のため建立。
 笠塔婆
○般若寺型石塔籠[鎌倉]
 石塔籠
○文殊菩薩獅像[鎌倉]像高45.5cmで八字文殊とよばれる。
般若寺のご本尊で元享四年(1324)後醍醐天皇の御願成就のため造顕した。
  文殊菩薩獅像

○秘仏阿弥陀如来(重文)[白鳳]総高40.9cm聖武天皇が平城京の鬼門鎮護のため奉納と伝える。十三重石宝塔の大修理(昭和39年1960)に五重軸石から発見された。
 阿弥陀如来
○胎内仏三尊(重文)[平安]地蔵菩薩、総高9.8cm大日如来、総高5.2cm十一面観世音菩薩、総高11.8cm

地蔵菩薩、大日如来、十一面観世音菩薩
○藤原頼長公供養塔
若くして内大臣、左大臣となり朝廷政治に凄腕をふるい、崇徳上皇に仕え「保元の乱」の主謀者とされた。
「保元の乱」の最中に流れ矢により重傷し奈良興福寺まで逃れて保元元年(1156)命を落とす。
尾張に関わる藤原師長(頼長の長男)は「保元の乱」で謀反の罪がかけられ、後に太政大臣にまで昇進するものの、平清盛によって再び尾張に配流され波乱の生涯を送っている。
 名古屋市瑞穂区妙音通は藤原師長の法号「妙音院」によると伝えられ嶋川稲荷に『師長流謫居跡』の石碑が建っている。
 頼長公供養塔
○平重衡公供養塔
 平清盛の五男、治承四年(1181)「似仁王の乱」を平定した後、般若寺の地で戦い夜分に入り総大将重衡が門前に立って夜戦の明かり採りが、折からの北風にあおられた火は般若寺を焼き火は東大寺、興福寺まで及んだと伝える。時は過ぎ木津川の川原で処刑し、その首を持ち帰り般若寺の門前にさらしたと伝える。
 重衡公供養塔
・会津八一歌碑
ならさかの いしのほとけの おとがひに こさめなかるる はるはきにけり 八一 
(奈良坂の石の仏の頤に小雨流るる春は来にけり)
 歌碑
・2016秋のコスモス
 現在コスモスは40種近く作出されていますが、般若寺では20種類を植えている。珍しい種類は、「ダブルクリック」「シーシェル」「サイケ」「オータムビューテイ」「イエローガーデン」「ピコテイ」と般若寺のお姉さんに説明書を頂いた。
 シーシェル

 ◆秋篠寺(あきしのでら)
奈良時代末期の宝亀七年(776)光仁天皇の勅願により開基する。
○本堂(国宝)
 鎌倉時代か奈良時代か不明であるが、様式的に奈良時代建築の伝統生かし純和様建築とされる。
  
○薬師瑠璃光如来坐像(重文)秋篠寺のご本尊で脇像には日光菩薩、月光菩薩、帝釈天、地蔵菩薩は(重文)で外に愛染明王、不動明王、五大力菩薩、十二神将が段上に並んでいます。
照明効果で本尊の薬師如来の光背陰影が美しく壁に映っていました。
・伎芸天(重文)
 仏像本の「その他の天部」の頁に有った、伎芸天は、諸芸の上達にご利益のある天女。日本では造像例は少なく、これも初めから伎芸天として造られたかは不明ながら、奈良時代の乾漆造の頭部、鎌倉時代の木造の体部をもつ奈良の秋篠寺像が、美しい像として有名です。と「仏像の見方ハンドブック」にあった。お顔だち、微妙な腰の太さと捻りは男性軍の目を輝かせる美しい像である。
 伎芸天
写真撮影は当然出来ませんでした。(見つけた画像をお借りしました)

見忘れた歌碑
・会津八一歌碑
あきしのの みてらをいでて かへりみる いこまがたけに ひはおちむとす 八一
(秋篠のみ寺を いでて かへりみる 生駒がたけに 日はおちむとす)
 <画像なし>
・金堂跡
 
 金堂跡地の苔

◆平城宮跡資料館
 平城宮は約1km四方の広さで、大極殿や朝堂院などの宮殿のほか、天皇の住まいである内裏があり、周囲には国の役所の宮内省をはじめ兵部省、式部省が建ち並んでいた。資料館には宮殿復原展示等コーナーや発掘調査の過程と出土品を展示してあります。
   
平城宮跡資料館   資料館前より第一次大極殿  車窓からの朱雀門  平城宮跡の地図
 
        以上

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