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2014/04/17 永観堂、金戒光明寺、真如堂

2014-04-24 | 尾張文化の会

 2014/4/17 永観堂、金戒光明寺、真如堂に『尾張文化の会』のメンバー43名で訪ねました。(No355)
✿禅林寺 永観堂(ぜんりんじえいかんどう)
  開基(創立者)は、東寺(教王護国寺)の開祖である空海の弟子の真紹僧都である。
真言宗で開祖し現在は浄土宗です。
 釈迦堂と阿弥陀堂があり、この堂は慶弔12年(
1597)四天王寺曼陀羅堂として建てられた、元もと厨子(ズシ)の中の曼陀羅が中心に有ったそうです。
 この阿弥陀堂は総けや木造りで阿弥陀佛の四十八願に準じ四十人本の丸柱に支えら最高の極楽浄土へ導かれるれるお堂です。
 阿弥陀堂中心にかの有名な『みかえり阿弥陀』がある理由は。第七世法主永観律師
1082年(502/15
日)が日課の念仏行道を唱えつつ、阿弥陀如来の周囲を回っていたところ、明け方の薄明かりがさしたころに如来が須弥壇から下り、永観を先導し行道を始めた。驚いた永観が歩みを止まり硬直になって一歩も進めなくなった時に、如来は振り返って一言、「永観 遅し」と言われたそうです。
   

  中門(入場券売場)  大玄関(受付)
  釈迦堂  
 
 臥龍廊  釈迦堂正面
✿くろ谷 金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)
 この寺は、法然上人が承安五(1175)年、比叡山の修行を終えてこの地で念仏をされた時、紫雲が山にたびたび光明があたりを照らしたことから浄土最初の念仏道場(すべての人々に教え)を開かれた場所である。
 又、金戒光明寺は徳川初期に会津藩主松平容保が幕末の文久
2年(1862
)に京都守護職に就任すると、京都守護職会津藩の本陣となった寺院でもある。
 この地は、高麗門を南に位置し、徳川幕府の守り安い構図に成っている。本堂からは三っの攻め路、山崎、奈良、蹴上げ方面が良く見渡せる地形であり町の中を一望できる場所で尚且つ、京都御所が守れる位置でもある。
 
 山門    『浄土真宗最初門』の勅額が掲げられていいます。
 
鎧かけの松(熊谷直実)三代目   法然上人の忌日法要を保育園児が練習していました。
カラフルな色、スニカーの整列
✿真正極楽寺 真如堂
 鈴聲山(れいしょうざん)真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)
 真如堂(しんにょうどう)真如堂の語源は“真実は無情の如し”だそうです。
 永観2年(984)、比叡山の戒算上人(かいさん)が、比叡山常行堂のご本尊阿弥陀如来を現在の地に移して安置したのが、真如堂の始まりです。
 慈覚大師が「比叡山の修行僧のための本尊になって下さい」と眉間に白毫(びゃくごう)を入れようとすると、如来は顔を横に振られた。「それでは都に下って、すべての人々をお救い下さい。(平安時代は女の位が低くい時代で)特に女の人をお救い下さい」と言われると、如来が三回うなづかれたところから、「うなづきの弥陀」とも呼ばれ本当に女性に優しいお寺です。
 本堂の外に隋縁の間、仏間、涅槃の庭があり、涅槃の庭は東山の大文字焼が良く観える庭でお釈迦様(しゃく族の皇子)の涅槃が北枕の石組みで作られている。
 家紋は藤原の藤巴、足利の丸に二両、徳川の三つ葉葵、三井の四爪が有り競合してちょっと違った雰囲気でした。
 
  本堂     三重塔
 
 涅槃の間 (岩が涅槃を表現)           隋縁の庭(三井家の紋)

    以 上

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