きままな旅

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2019/08/21 天王山にある山崎の戦いの地を訪ねた。

2019-08-24 | 尾張文化の会

2019/08/21 天王山にある山崎の戦いの地を訪ねた。
 天王山ハイキングで山頂は標高270.4mであり、準備はしていきました。しかし当日はお盆も過ぎほんの少々気温も下がったとはいい、蒸し暑い大変な気候でった。無事にJR山崎駅舎に戻り、スポーツドリンクを一本頂きほっと一息する。木製の椅子には汗でお尻の後くっきりを残した。
◎妙喜庵(みょうきあん)
 JR山崎駅前にある妙喜庵は、明応年間(1491頃)山崎宗鑑(俳人で連歌師)が隠居所として建立したのが始まりと伝える。唯一現存する茶室といわれる国宝茶室「待庵」(たいあん)は山崎合戦の直後に千利休が設立さたと云う。
 (予約は一ヵ月以上前に往復はがきにて申し込みが必要です。)
   
正面玄関 小屋根が乗る本堂
◎天王山登り口

天王山登り口
◎宝積寺(ほうしゃくじ)(宝寺)真言宗智山派
 寺伝では神亀元年(724)聖武天皇の勅命を受けた行基によって建立されたと伝えられる。また聖武天皇によって奉納された「打出」と「小槌」があると云う。(「打出」は弁財天神、「小槌」は大黒天神の如意御神器であるという)
 行基が山崎橋という対岸八幡への往来の橋を建てた際に、橋寺として創建した「山崎院」とも関係深いと伝える。境内には羽柴(豊臣)秀吉が一日で建てたという三重塔がある。寺は貞永元年(1232)の火災で一度焼失し、現存する仏像等はこれ以降のものです。この寺は山崎の戦いでは秀吉の本陣となり、禁門の変では尊皇攘夷派の真木保臣を始めとする十七烈士らの陣地が置かれた場所です。
 山崎合戦とゆかりの寺 天正10年織田信長は明智光秀に急に襲われ、本能寺の炎の中で自刃した。羽柴(豊臣)秀吉は備中高松より急ぎ京に向かい、6月12日山崎街道に入り当寺(宝寺)を本陣として、翌日13日夕刻勝利おさめた「山崎の合戦」である。勝利記念として三重塔を一夜にして建立したと伝える。その後秀吉は一年間にわたり滞在したと云われ伝える。
・本堂
本尊は十一面観世音菩薩(国重文)鎌倉時代 
 
本堂  十一面観世音菩薩
 
・三重塔(重要文化財)
 
墓地と三重塔
・閻魔大王(国指定 重要文化財)
 死者の生前の善悪を裁き、死者の極楽と地獄のいずれかを定められる冥界の総司であります。
 
閻魔堂 閻魔大王(像長160.8m) 脇侍に司命・司録菩薩 手前に俱生神、暗黒童子
・大黒天堂
 聖武天皇が「打出」と「小槌」を奉納されたお堂と云う。
 
大黒天堂 弁財天社
・出世石
 
秀吉が腰掛けたとされるの出生石がある。
◎青山葉谷展望広場(あおきばだに)
桂川、宇治川、木津川の三川合流地点が見渡せる。

展望広場から望む三川合流地点(左上部の川)
◎旗立松展望台
 秀吉軍が士気を高めるために松の木に旗印を掲げた所。

旗を掲げた松
◎山崎合戦之地の碑
 天正10年(1582)本能寺の変をおこした明智光秀と、光秀を迎え撃った羽柴(豊臣)秀吉軍と摂津国と山城国の境に位置する山崎で戦った地です。
天王山の戦(山崎の戦)は大山崎ICの近くを流れる円明寺川(現・小泉川)を挟んで戦ったと云われている。
 
説明版 中央の大山崎ICの近が小泉川です。

石標
◎十七烈士の墓(じゅうしちれっし)
 十七烈士は新選組ら幕府軍と一戦を交えたのち自ら散った戦士。
 元治元年(1864)『禁門の変』に敗れて自刃した尊皇攘夷派の武士を祭る墓。
 
説明版

墓所
   
十七烈士の石標
◎酒解神社(さかとけじんじゃ)
 10世紀に編纂された「延喜式」にも残る古社と云う。
 
鳥居   神殿
◎神輿庫
 酒解神社本殿の横に立つ神輿庫は現存する日本最古の板倉造りと云う。
 
神輿庫(国重文)
◎天王山山頂
 山頂は標高270.4mです。
 
標柱 
◎山崎城跡
 羽柴(豊臣)秀吉が建てたと伝える城跡である。
 
説明版          山崎城跡
◎観音寺(かんのんじ)真言宗系単立
 昌泰2年(899)に宇多法皇が御願寺として創建されと云う。
 この地域では「山崎の聖天さん」として厚い信仰を受けているお寺です。
  
観音寺の入口鳥居 山門
  
本堂 聖天堂

鐘楼 
◎山崎院跡
 
説明版と石標
◎大山崎山荘美術館
 
入口隧道 正面玄関
 
中庭
 
美術館から望む宝積寺の三重塔
 以上

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2019/08/13_滋賀県犬上郡甲良町尼子の尼子氏と藤堂高虎出生地を訪ねた。

2019-08-14 | 尾張文化の会

2019/08/13_滋賀県犬上郡甲良町尼子の尼子氏と藤堂高虎出生地を訪ねた。
 甲良町尼子は近江鉄道尼子駅を降り南東方向に約800mの付近に歴史の場所及び尼子館があります。尼子の地名は七世紀天武天皇の時代高市皇子の生母「尼子姫」がここに住まわれたことが地名の由来と伝えています。
 尼子氏は、近江国守護大名の佐々木京極高氏(道誉)(どうよ)で婆娑羅大名の孫である佐々木高久(たかひさ)に近江国甲良荘尼子郷を譲り与えたのが始まりとされる。高久は尼子館を築き、郷名を取って尼子備前守高久と名乗った。
 後、尼子氏は出雲国の守護代として山陰山陽に威勢をはったが、永禄八年(1565) 侵攻を試みた毛利軍の総攻撃により一旦は毛利勢を押し返しましたが、尼子氏は毛利氏に降伏して城を明け渡した。山陰(出雲・隠岐)に威勢をはった尼子氏は没落。尼子氏の居城は月山富田城(かっさんとだじょう)と云われる。
 婆娑羅とは、身分制度を無視して実力主義的であり、公家や天皇といった名ばかりの時、権威を軽んじ「嘲笑い」・「反発し」・「身分不相応な贅沢な振る舞い」が室町時代(南北朝)に流行した。代表的な人物が足利尊氏の側近である高師直(こうのもろなお)、近江国守護大名の佐々木京極高氏、土岐頼貞の七男で美濃国守護大名の土岐頼遠(よりとう)などが「ばさら的」と云う。

✿近江鉄道尼子駅
  
尼子駅 コミュニティハウス 広場

駅から町へ向かう道路沿いの旗

✿甲良神社
 主祭神は武内宿禰命
 由緒は天武天皇の代に高市皇子の生母尼子姫が当地に住み給ひて筑後の国高良大社より希世の長寿の神、武内宿禰命を勧請したと云う。
  
鳥居 由緒碑
 
拝殿前の幣殿  屋根にある「平四ツ目紋」
 
拝殿 神殿
 
 
権殿(国重文)昭和25年に修理が行われた時、「寛永11年(1634)9月、尼子若衆これを立つ」と記載があると云う。

✿甲良西小学校
 
甲良西小学校

✿圓楽寺 浄土真宗本願寺派
  
山門 本堂

✿教得寺 浄土真宗本願寺派
  
山門 本堂

✿蓮覚寺 真宗大谷派
 
山門 本堂

✿西照寺
 
山門 本堂

✿殿城池(尼子城の堀跡)
 お堀の水神様は、落城のとき入水された城主の姫記君(八千姫)が祭られている。
  
説明版 水神様

✿藤堂高虎公出生地跡
 高虎公は在士(字名)で生誕した。
  
説明版 石標 

✿尼子土塁公園(尼子氏の城跡の土塁公園)
 尼子城の土塁と堀跡は正平二年(1347)頃に京極家五代婆娑羅大名として六代高秀(道誉の孫)の四男高久が甲良荘尼子郷を領有し、この地を居城とした。
   
公園入口 城跡 土塁 説明版
 
土塁
 
公園内の住泉寺 玄翁堂

土塁を利用した鐘楼

✿八幡神社(在士八幡神社紫藤樹)

神社入口
 
鳥居と紫藤樹 拝殿

✿在士高虎公園

説明版
  
高虎公騎馬像(石垣の名手らしく背景に石積みの上から流れ落ちる水の幕
 
駒止め石
 
八幡神社御旅所

東門の滝

✿甲良(豊後)宗廣公
 徳川家康の邸宅造営など建仁寺流甲良大工の工匠です。
 日光東照宮の寛永大造営を大棟梁として手腕を発揮したと云う。
 
宗廣公  石標

✿神明の滝
 
石標 神明の滝

✿甲良豊後宗廣記念館

宗廣記念館

✿町の中心を流れる水路
  
 以上

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