きままな旅

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2018/05/28 土岐市鶴里町の中馬街道(細野から雨沢)を散策しました。

2018-05-29 | 尾張文化の会

2018/05/28 土岐市鶴里町の中馬街道(細野から雨沢)を散策しました。
 前回は土岐市の「中馬街道散策マップ」のより歩きました。今回は散策マップが無いので国道363号沿いを曽木町大草より西へ愛知県との県境である鶴里町雨沢(雨沢)まで散策した。
 中馬街道は、かつて名古屋方面から塩・海産物・雑貨が、松本方面からは農産物・林産物が運ばれ、庶民の物流輸送の動脈として利用されていました。この地では窯業が盛んで、美濃焼の輸送ルートとして発展しました。
 現代で言う運輸業である「中馬」の人々によって利用されていたことにより「中馬街道」と呼ばれるようになったと言われています。(中馬街道「陶板」案内より)
〇鶴里町「細野」
白鳥神社(祭神 日本武尊。創建は不詳。)
 

神殿
中馬街道遺跡図

巨岩の上の石仏(細野)
 
常夜灯(細野)
 
津島神社(細野)
 
石仏(細野)

馬頭観音(細野)

道祖神、山神(細野)

石仏群(濃南中学校)
 
中馬案内坂
 
津島神社(細野)
 
〇鶴里町「下町」
石仏(下町)
 
石仏群(下町)
 
磨崖仏(下町)
 
〇鶴里町(柿野)
白鳥神社
 
主祭神 日本武尊
 
神殿
荘厳寺(しょうごんじ)曹洞宗
 

本堂
石仏(柿野)
 
〇鶴里町「坂下」
常夜灯(坂下)
 
南宮神社
 
〇鶴里町「大沢」
石仏群(大沢公民館)
 
〇鶴里町「雨沢」
白鳥神社
 
 
神殿
石仏群(雨沢)
 
中馬街道(陶板)案内

看板裏側の川

今回の目的はここまでの予定です。

三国山の入口(昔の記憶が蘇った三国山の入口でした。)
 
帰り道、国道363号を愛知県側の気になった場所
峠を越えて最初の常夜灯(片草町)

常夜灯(品野)

   以上

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2018/05/26 土岐市曽木町の「中馬街道散策マップ」に従って約2kmを散策しました。

2018-05-27 | 尾張文化の会

2018/05/26土岐市曽木町の「中馬街道散策マップ」にそって約2kmを散策しました。
中馬街道案内板

中馬街道(岐阜県土岐市曽木町地区)
 国道363号に沿って残る「中馬街道曽木地区」は馬頭観音、石仏、道祖神などが有り、江戸時代に名古屋から瀬戸を経て土岐市を通り信州伊那谷へ自分の馬で荷物を運び、賃稼ぎを行っていた街道です。

1、梅屋の「さざんか」と道祖神(写真なし)
  頭の番号は土岐市曽木町の「中馬街道散策マップ」の数字です。
2、道祖神

3,常夜灯
 
4、酒屋の旧家

5、現金屋(雑貨屋)

52ノ2、馬頭観音
 
6、(52)道祖神


 
番外、道祖神
 
7、大草遺跡(縄文)
 平成8年に縄文時代の遺跡が発掘された。
8、馬頭観音
 
8ノ2山神
9、中馬街道の説明石碑(中馬馬子唄)

 
10、石仏、(子持ち地蔵、道祖神、山の神、若宮)
 
 
10ノ2馬宿跡
 
11、石仏(氏神、馬頭観音)
 
この当りの中馬街道
 
12、六角石幢
(亡者を弔う石塔)
 
13、水神(曽木公園内)
 
14、馬頭観音
 
15、馬頭観音
 
16、道標
 
17、道祖神
 
番外、石仏

18、延命地蔵、五輪塔、双対道祖神、五輪塔、念仏構碑(左から)


 
19、五輪塔(君が塔) 「君が塔伝説」がある、遊女と武士の物語。
 
20、馬頭観音(道標)  「右 だち たじみ」「左 名古やみち」と刻印。

21、馬頭観音
 
番外
51、中切の常夜灯
 
52、大草の道祖神
 
彫刻展優秀賞
(フィギア「生」加藤 可奈衛)

大草遺跡(縄文)
 平成8年に縄文時代の遺跡が発掘された。

曽木公園
 
 
   以上

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2018/05/17京都山科に皇室ゆかりの古刹を訪ねる。(泉涌寺、勧修寺、隨心院)

2018-05-20 | 尾張文化の会

2018/05/17京都山科に皇室ゆかりの古刹を訪ねる。(泉涌寺、勧修寺、隨心院)
 『尾張文化の会』のメンバー34名と京都の泉涌寺、勧修寺、隨心院を訪ねた。(No399)
 行程は春日井IC→京都南IC→(昼食)→泉涌寺→勧修寺→隨心院→京都東IC→春日井ICとバスで名神高速道路を京都に向う初めて安八スマートIC(H18.3)の開通を目に残し京都へ入った。5月とは思えない暑さで境内を歩くにも汗ばむ日であった。帰路は恒例の一宮JCTで約4kmの渋滞であったが春日井市に順調に帰って来ました。
 今回は京都市内の皇室の菩提所として、御寺とも呼ばれる泉涌寺、皇室と藤原氏にゆかりの深い勧修寺、小野一族の小町ゆかりの随心院を訪ねた。
✿泉涌寺(せんにゅうじ)御寺(みてら)真言宗
 創建は、空海が天長年間(824-834)この地に法輪寺を創建したと伝えられている。斉衡2年(855)藤原緒嗣が神修上人を開山とし創建。藤原緒嗣が承和十年(843)に没し後、藤原緒嗣の遺志に基づき菩提寺として創建された
 その後、仙遊寺と改めた。その後荒廃していた寺を宋から帰朝した俊芿(しんじょう)律師が建保六年(1218)伽藍を造営した時、境内から泉が涌きでたので泉涌寺と改めた。
 貞応三年(1224)後堀河天皇により皇室の祈願所と定められ皇室との結びが強まった。皇室の陵墓に香をたき、花を供える香華院となり「御寺」と称された。
 本尊には現在、過去、未来を表す「三世仏」(阿弥陀、釈迦、弥勒の三体の如来像)が安置されている。
 
大門(重文)
 
 大門から「降り参道」の仏殿(重文) 

泉涌水屋形(せんにゅうすいやかた)(府文化財)
泉涌寺という名の由来となった泉を庇う屋形です。
・清少納言歌碑
泉湧水屋形の近くに清少納言歌碑がある。
夜をこめて鳥のそら音ははかるとも
 よに逢坂の関は許さじ   清少納言
百人一首・・・・寄るのを忘れたよ。
・楊貴妃観音堂
 楊貴妃観音像(重文)は湛海(たんかい)律師が安貞二年(1228)の南宋からもらい受けした木像です。

楊貴妃観音堂

✿勧修寺(かじゅうじ)真言宗
 昌泰三年(900)醍醐天皇が生母藤原胤子(いんし)の菩提を弔うため創建された。開山は法相宗の僧承俊で、本尊は千手観音。代々法親王が入寺する格式高い門跡寺院として栄えた。兵火で焼失し衰退したが、江戸時代に入って徳川家と皇室の授助により再興した。

山門

宸殿(しんでん)

本堂

書院
 
光圀燈籠(青々としたハイビャクシン) <勧修寺型燈籠>

老梅(伏した龍の形をした幹は「天下無双」)

観音堂
  
観音堂と氷室池

千本杉

氷室池のアオサギ

仏光院(勧修寺納経所)

✿隨心院(ずいしんいん)真言宗
 正暦二年(991)仁海(にんかい)僧正の開基し、牛皮山曼荼羅寺と号した。その後5世増俊のとき曼荼羅寺の塔頭の一つとして隨心院が建てられた。
 また本院は小野小町ゆかりの寺として知られ、春日井市の書家小野道風は小町の徒兄にあたる人です。

総門 

本堂 

薬医門
・小野小町の歌碑
「花のいろは うつりにけりな  いたづらに わが身世にふるながめせしまに」

歌碑

化粧井戸

文塚
  以上

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2018/04/30 石山観音と伊勢別街道の寺をまわる。

2018-05-03 | 尾張文化の会

2018/04/30 石山観音と伊勢別街道の寺をまわる。
✿石山観音参道
 
石碑  刻観世音碑
✿石山観音公園
 津市芸濃町にある標高約160mの頂上に「馬の背」という花崗岩帯石山層があり、周囲に磨崖仏が彫られている所です。

 公園入口
〇地蔵菩薩立像(三重県指定文化財)
 像高3.24mで右手に錫杖、左手に宝珠を持っている。
 
 地蔵菩薩立像

 雨乞いの霊場と石燈籠
〇聖観音菩薩立像(三重県指定文化財)
 像高2.52m。石質が脆いため顔が激しく風化している。

 聖観音菩薩立像
〇阿弥陀如来立像(三重県指定文化財)
 像高3.52mで台座を含めると5mに達する巨像である。
 
 阿弥陀如来立像
〇馬の背
 石山の頂上より南方へ延びる巨岩で「馬が首を垂れ草を喰う姿」に見える。馬の背中からは伊勢湾が望めるそうです。
  
 馬の背
〇三十三ヶ所観音の磨崖仏
 公園の入口より第1番から時計周りに並べられ、第12番から第28番は「馬の背」の巨岩面に掘り込んだ位置に仏像が納められている。
  
 第1番    第2番
 
 第6番   第7番
 
 第8番  第12番   
 
 第13番
 
 第14番
 
  第17番  第24番
 
 第25番  第27番
 
 第28番
 
 第31番  
 
 第33番
✿橋下の地蔵と梵字
 永年による水の浸食を受けた崖部分の右岸に地蔵を意味する梵字が刻まれ、左岸には磨崖仏で地蔵菩薩立像と地蔵菩薩坐像の2像が彫られている。
 
 地蔵立像 地蔵坐像
 
  梵字3字(地蔵種字)
✿普門寺(ふもんじ)真言宗
 本尊は十一面観音で、大同元年(806)に伝教大師(最澄・天台宗開祖)が開創したと伝えられ、当初は観音寺として再建、天正2年(1574)滝川一益によって焼き払われた。その後、享保5年(1720)に中興陶瑩律師により本堂が再建され普門寺と改めた。

 文化財の案内板
 
 山門  仁王門
 
 本堂
〇幽霊の片袖


 五輪塔 案内板
✿閑翁寺(かんのうじ) 天台真盛宗
 天正2年(1574)織田信長の家臣による兵火により全焼した。のち江戸寛延期に月光上人により再興された。
 
 石碑 山門

 本堂

〇書院 亀山城主(8代石川総紀)の書院(奥の院)が移築されている。

 書院
 
 日向守之墓 
✿長徳寺(ちょうとくじ)曹洞宗
 当寺の創建はさだかではないが応永初年(1394頃)と云われる。
 また、剣豪「塚原卜伝」の寿牌が現存すると云う。
 
 山門  本堂
✿龍王桜(県指定天然記念物)
【龍王桜伝説】
 永禄年間(1558-1570頃)当寺の僧で大器和尚が朝のお勤めのとき、女の参詣が続きある時、訳を聞いたら『自分は門前の淵に住む大蛇である。永年高僧の出現を待っていたが和尚の法力によって済度を受けたいので毎日参詣している』と述べたので、和尚は女に戒めを授け蛇身に転じさせた。それで女はお礼として龍鱗と桜の種を送った。この龍鱗は「淵鱗大龍王」、桜種は「龍王桜」と呼ぶようになった。(境内説明版より)
 
 淵鱗大龍王碑  龍王桜(県指定天然記念物)
〇研ぎ石
 室町時代の終りころ雲林院の城下に住む刀工が刀を砥いだ跡と伝える。
 
 研ぎ石  中央側面の仏像
✿浄得寺(じょうとくじ)
・五色椿
 樹齢約400年で根回り約120センチメートルの巨木で、五色の花が咲くことから、「五色椿」と呼ばれているそうです。

 本堂

 五色椿
 
 椿の花
✿落合の里
 源平合戦の昔、壇ノ浦で敗れた平家の一族が隠棲した所であり、徳川家康の側室「清雲院於奈津」の出生地と云う。
 平維盛は「平家物語」で、寿永3年(1184)屋島の戦いで敗れた後、那智沖で入水したとされていますが、「成覚寺伝」によると、維盛は入水したように見せかけて、31人の家来と友に現在の芸濃町河内の地に逃げ延びて草庵を建てて住まい、承元4年(1210)、享年53歳で没したと伝えています。         (広報津より) 
 
 入場門  案内板
✿成覚寺(じょうがくじ)真宗高田派
 平維盛(清盛の孫)が平家の念持佛を本尊として開基と伝える。
 この地域では平維盛(重盛の子)ゆかりの寺と慕われています。
 お庫裡さんの話ではこの寺紋は「扇の日の丸」で根拠は解らない、部落の落合姓は「扇の日の丸」を使っているそうです。帰るとき出口でここを徳川家康が「伊賀越え」で通られた道と語っておられました。
・念持佛(釈迦、普賢、文殊の三尊佛)、平維盛木像、平維盛(これもり)の墓、天井画「龍」がある。
 
 参道 本堂
 
 平維盛木像(パンフレットより)  天井画「龍」

 平維盛の墓(ナギの雄雌の木が植えてあった。この木は熊野速玉大社の御神木を平重盛の手植えたしたこことにちなんでいる。)
   以 上

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