きままな旅

きままな旅ときままな日記

2017/09/19 三重県の斎宮近くにある安養寺と近くの伊勢街道を歩く。

2017-09-24 | 尾張文化の会

2017/09/19 安養寺と近くの伊勢街道を歩く。
 春日井市にある医王山薬師寺密蔵院と伊勢の安養寺との繋がりを探る為に行くことになったが、資料が少なく余りよい成果は得られなかった。密蔵院の最祖で慈妙上人が安養寺での教学の場において修業をした場所でわないかと思い和尚に訪ねた、雰囲気は良いが確信がないままである。
◎安養寺(あんようじ)臨済宗
 伊勢国出身で東福寺第9世だった癡兀大慧(ちこつだいえ)が鎌倉時代の永仁5年(1297)に開山した。室町時代には幕府や伊勢国司(北畠氏)から保護を受け、天正4年(1576)、戦火で焼失し、その後、天正16年(1588)伊勢街道が付け替えられた頃、現在の地に移された。
 安養寺跡は、現在の明和病院の敷地内で、「境内地は百間四方の境内の周りには堀が巡らされ、その中には多くの堂塔が立ち並ぶ大寺院」であった。と伝承や古文書で名刹として伝えられる。
 
   山門   本堂

   地蔵像と五輪塔
○明星水
 茶湯を喫すると、たとえ不浄の者でもたちまち内外清掃によるという言い伝えが有り、「安養寺の茶湯」と称し伊勢街道の名物になっていた。旅人の接待に使った安養寺の井戸は明星水と呼ばれ、明けの明星、宵の明星が降臨すると伝えられる日本三大霊水の一つであった。
 
   明星水
○山神

   山神(県道428勝見交差点)
○道標
斎王隆子女王御墓   斎宮旧蹟蛭沢之花園 (どんどん花群生地案内)
  
  入口道標    斎宮旧蹟蛭沢之花園  斎王隆子女王御墓

◎有明六地蔵石幢(県重文)[地蔵院跡]
 六角に削られた龕部(がんぶ)に六地蔵を刻まれている。幢身部分に「永正10年(1513)」の銘文がある。
 
   地蔵石幢
○道標
天満宮の道 入四丁

    道標
◎竹神社(斎宮城跡)
 斎宮城は室町時代斎宮の住人野呂三郎がここに城郭を築き勝手に徳政を敷き狼籍を働いた、国司北畠材親(きちか)は之を討伐した。
 入口の常夜燈は嘉永7年(1854)池村氏神の饗庭の森八王子の常夜燈(自然石)として建立された。
 
  参道 鳥居     神殿
 
   自然石の燈篭     斎宮城跡の石垣

   斎宮城跡の標示
○観音寺跡
 天正4年(1576)斎宮の乾源休がその菩提寺として最勝寺に創建、その後観音寺としたが明治元年に廃寺となった。
 
   石標
      以上

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2017/09/21 伊賀市の敢国神社と伊賀上野城がある上野公園を訪ねる。

2017-09-23 | 尾張文化の会

2017/09/21 伊賀市の上野城を訪ねる。
 『尾張文化の会』のメンバー38名と敢国神社と伊賀上野城がある上野公園に行ってきました。(No392)
今回は勝川IC→亀山IC経由伊賀一之宮IC→敢国神社→(食事)→上野公園(芭蕉翁記念館→伊賀流忍者屋敷→俳聖殿→伊賀上野城)→中瀬IC→亀山IC経由伊勢湾岸から名古屋南JCT経由勝川ICの行程です。伊勢湾岸自動車道への迂回は弥富近辺の事故情報で渋滞距離が伸びてる情報にて迂回した。

 伊勢、大和、近江国に囲まれた伊賀国は、小国であり古く荘園は東大寺の黒田荘・玉滝荘をはじめ、藤原摂関家領や興福寺、伊勢神宮の領地があった。その後、天正9年(1581)織田信長の伊賀への侵略(天正伊賀の乱)で鎮圧された、翌年の「本能寺の変」のとき、家康を護衛して伊賀越えの危難を救った服部半蔵は幕府に召抱えられた。きっと徳川家康の三代危機と言われることであろう。また、藤堂高虎が城の大修築のとき伊賀は『秘蔵の国』と言ったと伝える。
 現在の首都東京には伊賀市に似た地名が多く有る。その代表は「上野公園」、「半蔵門」等が代表的である。
◎敢国神社(あえくにじんじゃ)
 伊賀国一之宮の敢国神社は斎明天皇四年(658)に創建と云われ、ご祭神は三柱で主神は大彦命(おおひこのみこと)です。
 御祭神の大彦命は、第八代孝元天皇の第一皇子で第九代開化天皇の同母兄弟です。近くに廟があり神社の鬼門方向1kmに御墓山古墳(国の史跡)である。
 江戸時代には藤堂高虎が伊賀上野城の鬼門鎮護の神として神領が寄進され、藤堂家の崇拝厚く、社殿修理、祭儀の復興等が行われた。
 
     石標     両部鳥居
 
     拝殿前の石灯籠   拝殿
 
   拝殿     境内で禰宜さん説明を受ける
・石造灯籠(市有形文化財)
 慶長15年(1610)に後の上野城城代家老となった藤堂采女元則より寄進された。

     石造灯籠(神殿横)
 
   むすび社の鳥居     むすび社

     むすび社の奥にある、楠社の神殿
 芭蕉句碑は全国各地に多く建てられています。生誕の地伊賀市は中心部に約20有り、「ふるさと芭蕉の森公園」「くれは水辺公園」を含め市全体では約80の句碑はある。
・芭蕉句碑
 貞亨五年(1688)芭蕉翁参拝のおり詠んだ詩です。 
「手はなかむ 音さえ梅の 匂いか那」 者世越 

   者世越の句碑
・伊賀市の俳人宮城きよなみの句碑
 明治35年(1902)生まれの俳人
「知る人乃 あるかや伊賀の 薺(なずな)唄」 きよなみ

     句碑
◎上野公園
・伊賀上野城
 天正13年(1585)伊賀の領主、筒井定次(さだつぐ)が天守を築いた。
慶長13年(1608)藤堂高虎が伊予今治から国替えされ、伊勢・伊賀の城主となった。築城の名手の藤堂高虎は城の大修築を行うに当たって。本丸を筒井定次の城より西に移し、日本一高い「高石垣」を築くなど、大改修に着手した。その後、天守が再建されなかったが伊賀一国の城として城代家老がおかれた。
 
   石標     入口の石垣と彼岸花
 
  上野城天守閣     筒井定次時代の石垣
・高石垣
 慶長16年(1611)から着手した。西側(大坂方面)の守りを強化を目的に、石垣の高さ約30mののぼり、大坂城の石垣に2m足りないものの、堂々の第2位と云われる。
 
   高石垣

   高石垣
・芭蕉翁記念館
 芭蕉直筆の色紙や遺言状などが展示され、芭蕉の足跡を辿ることができる。
   (写真なし)
・俳聖殿
 芭蕉翁の旅姿を表現して生誕300年を記念して建立、上層の屋根は芭蕉の笠を表現し、内部には伊賀焼きの芭蕉翁坐像がある。
 
   俳聖殿     芭蕉翁坐像(伊賀焼)
・伊賀流忍者博物館
 多くのからくりがあり、どんでん返し、隠れ部屋、天井の高さ、などの隠された演舞の忍者屋敷でした。
 
     どんでん返しの演舞
     以上

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2017/08/30東近江市の古刹と五個荘近江商人屋敷と町並みを訪ねる。

2017-09-01 | 尾張文化の会

2017/08/30東近江市の古刹と五個荘近江商人屋敷と町並みを訪ねる。

✿石馬寺(いしばじ)臨済宗
 推古2年(594)聖徳太子が霊地を近江国にと、祈る道場を求めて当地を訪れたとき、乗っていた馬が歩みを止めて進まないので、ここ松の樹につないで繖山に登り、地形を観察して下山したところ、松の樹につないだ馬が石と化して池に沈んでいたことから、聖徳太子はこの霊験を感じ、伽藍を設立して「石馬寺」と名づけた。
 近江源氏、佐々木氏の篤く帰依したが、永禄11年(1568)織田信長の上洛に抵抗した佐々木承禎との戦いにて信長による兵火に遭い、のち豊臣が天下を取ると寺領を没収され僧徒は退散を命じられた。
 慶長8年(1603)徳川により石馬寺が復興。寛永11年(1634)徳川家光が上洛し、正保元年(1644)仙台松島にある瑞巌寺の開祖、雲居禅師(うんごぜんし)を招き再興させたと云う.

  山門跡
 
   石標   かんのん坂(乱れ石積みの階段)
 
   石標   始終苦坂(四十九坂)
 
   本堂
 
   本堂と宝物殿     石馬の石庭
  
   参道より鐘楼を観る   鐘楼 
 
   不動堂(旧行者堂) 
 
   石馬の池(石と化した太子の馬) 
 
   太子駒つなぎの松
◆宝物殿(全て国重文)
・阿弥陀如来坐像(平安時代)
 丈六大佛坐像で像長が約2.4mと推測、目視でも大きく側で見上げ圧倒された。
・阿弥陀如来坐像を中心に両脇に十一面世音菩薩立像、持国天、増長天、多聞天と規則よく並ぶ、全て平安時代である。
 反対側には大威徳明王牛上像(平安時代)と役行者大菩薩腰掛像(鎌倉時代)が並ぶ。

   宝物殿
    
   阿弥陀如来坐像  十一面世音菩薩立像 、 持国天立像 、 大威徳明王牛上像   役行者大菩薩腰掛像
(宝物殿は撮影禁止ですのでパンフレットをコピーしました。)
・中村治兵衛供養塔
近江商人の家訓「三方よし」は「売り手よし、買い手よし、世間よし」です。

   供養塔
✿六所神社
 推古天皇の御代で創立と云う。祭神は天照大神をはじめ6柱を祀る。
 
   石碑   鳥居
 
   拝殿   謎の岩(磐座)
✿雨宮龍神社
 苔むした石段を15分登ると神殿があると聞き断念した。
 
   石碑   入口の鳥居
✿近江商人のふる里、五箇荘散策
近江守護佐々木六角氏の居城観音寺城のあった繖山を背に、国の重要伝統的建造物保存地区に指定されている。五個荘金堂の町並みへ東に進むと、寺院の大屋根とともに白壁や船板張りの蔵屋敷が建ち並ぶ。
金堂まちなみ保存交流館
 中江家4兄弟の三男・富十郎の邸宅です。
 
   入口
 
   庭
 
   あきんど通

   堂中通り
✿勝徳寺(しょうとくじ)真宗大谷派 
 明治4年(1871)廃藩置県の後、大和郡山藩陣屋から移築されたと云う。
 
   長屋門

   本堂
 
   花笩通り
✿中江準五郎邸
 中江家4兄弟の末の本宅で朝鮮半島に三中井呉服店を創業し、昭和9年に三中井百貨店となる。
 
  入口
 
   庭
 
   庭
 
   庭
 
   庭
✿外村宇兵衛邸 五箇荘商人の本家で呉服の商いを主として近江を代表とする豪商となった。

   花笩通り
 
   入口

 川戸(かわと)屋敷内に水路を引き込み洗い場となっている。
 
   庫(二階の中央で吊棚が特徴)
 
   外から見た庫
 
   庭
 
   石馬寺の中村治兵衛供養塔に有った「三方よし」の説明
近江商人の家訓「三方よし」は「売り手よし」、「買い手より」、「世間よし」です。
✿外村繫邸
 この家の三男として生まれ膳所中学から東京帝国大学に進んだ小説家外村繫の生家で日本橋と高田馬場に呉服木綿問屋を営んで活躍した。
 
  寺前・鯉通り    入口

 川戸(かわと)屋敷内に水路を引き込み洗い場となっている。
 
   庫(二階の中央で吊棚が特徴)

  庫の一階は「外村繁文学館」
 
   庭
 
  和室から見る庭
 
   磨き大津壁(光沢が特徴)
✿金堂神屋跡

   案内板
 
   稲荷社の鳥居   神殿
✿安福寺 浄土宗
 創建は不明です。
 金堂・馬場の五輪塔(市文化財)は正安2年(1300)の県下最古の五輪塔と云う。
  
   本堂   金堂・馬場の五輪塔

   皇太子殿下行啓記念碑(2012年とか?)
✿浄栄寺(じょうえいじ)真宗大谷派 
 宝治元年(1247)浄栄法師が再建した。
 
   山門   本殿

   寺前・鯉通りより本堂
✿弘誓寺(ぐぜいじ)真宗大谷派
 正応3年(1290)の創建で覚如上人(本願寺第3世)の高弟愚咄坊(ぐとつぼう)の開基とされる。一説には愚咄坊は那須与一嫡孫と云われている。 
 元禄5年(1692)表門の瓦には、扇の紋がデザインされている。
 

 
   鼓楼   本堂
 
  表門     表門の瓦に扇の紋がデザイン
 
  寺前・鯉通り
✿大城神社
 主祭神は高皇産霊神 菅原道真公である。
 観音寺城から鬼門にあたり佐々木氏の守護神とされる。
 
   石標と鳥居
 
   拝殿    神殿
✿白若宮神社
 
   石碑   鳥居

   神殿
         以上

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