きままな旅

きままな旅ときままな日記

2021/12/21 名古屋市南区星崎の史跡を散策した。

2021-12-29 | 尾張文化の会

2021/12/21 名古屋市南区星崎の史跡を散策した。
 ここ星崎は尾張名所図会に見える塩田の風景であり、星崎あたりで作られた塩は、塩付街道や飯田街道などを経て美濃や信州へと運ばれた。また、日本で2番目に古い隕石が落ちた地点と言い伝えられています。

 尾張名所図会(星崎)   本星崎駅(出発駅)
✿星崎城跡
 笠寺小学校の敷地内あり、築城年は不明。戦国時代末期には岡田重善・重孝が城主であった。重孝は織田信雄の重臣として尾張国の検地も分担したが、天正12年(1584)豊臣秀吉への内通を疑われ伊勢長嶋城で自害、城は落城した。
 
 城址石標  説明版

  笠寺小学校(星崎城の本丸が有ったと伝える)
✿善住寺(ぜんじゅうじ)浄土宗
 慶安4年(1651)に本誉誓雲上人が浄土宗に改宗し、善住寺と改称し、鳳皇山と号するに至った。
後、二世誠誉上人が享保18年(1733)本堂を再建した。
 境内には、古木の「愛染椿」や「桑子地蔵」などがあります。
  
 石標 石標と山門
 
 山門 葵の紋入り山門

 本殿
 
  愛染椿
 
  桑子地蔵
✿星宮社(ほしのみやしゃ)
 創始は舒明天皇(629年から641年)の頃で、星崎城築城のとき、この地に移したと伝えられています。かつては、星崎の岬の最南端であり、里人のともす常夜燈が灯台の役目を果たしたと伝えられています。境内社のうち、上・下知我麻神社は宮簀媛命の父・母を祭神とし、熱田神宮内の両社も、もとはここにあったものといわれています。また、ここには伊奈突智老翁を祀り、縁起によればこの地に塩づくりを教えた人であるといわれています。
 
 石標  橋と鳥居
 
 石垣とお堀  入口

 拝殿

 石標(上知我麻神社)

 星の絵馬と上・下知我麻神社の参道

 境内の大木
✿大江川湊跡(おおえがわみなとあと)
 寛文年間(1670頃)には「万場の渡し」の応援や、津島祭りの車船として20艘の船が出ていた。近郷の年貢米を藩の倉へ送り、鳴海の酒荷も運搬されています。
 また、三重県の多度方面との往来も伝えられており、にぎやかな湊であったとそうです。
 
  大江川湊跡(現在は緑地帯に整備された公園)
✿福井八左衛門の供養塔(ふくいはちざえもん)
 新田開発の遺徳をしのんで、大正3年(1914)に村人が建てました。南野村の庄屋福井八左衛門は江戸時代、瀬戸内海の製塩業に圧倒され、当地の塩の生産に見切りをつけ、田畑、塩屋を売却して資金を作り、宝暦7年(1757年)八左衛門新田開発に挑んだ偉人です。
 
  供養塔
✿喚続神社(よびつぎじんじゃ)
 創建は大永3年(1523)、縁起によると「幾度か神社西の海岸堤防が決壊した。そこで伊勢神宮へ祈願して、1万回のお祓いをうけたところ、神徳があり堤防が完成した。そのため社殿は伊勢神宮へ向けて建築された。」といわれています。
 社宝に寛永9年(1632年)8月14日夜落下した日本で2番目に古い隕石があったと伝える。
日本の最古の隕石は貞観3年(861)に福岡県直方市に落下した「直方隕石」だそうです。
 
 石標、参道 

  本殿
 
 白龍大神
✿琴飛羅社

 神殿の表示
 
 神殿
✿地蔵寺(じぞうじ)
 縁起によると、元和元年(1615)大坂落城の新藤半兵衛(落武者)が、石地蔵の霊験を試そうと、槍で突いたところ上下2つに割れ、半兵衛は血を吐いて落命したといわれ、この場所は寺の西方にあり「血塚畑」とよばれ供養の碑が建っています。
 
 山門  
 
 お地蔵さん  
✿旧鳴尾学校舎(きゅうなるおがっこうしゃ)
 明治4年(1871年)廃藩置県のとき知多郡横須賀町に名古屋県の出張所として新築され。その後、譲り受けて明治15年(1882)に第31番小学鳴尾学校の校舎になった。

 校舎
 
  玄関  
✿牛毛神社(うしげじんじゃ)
 牛毛は、本地・南野・荒井とともに、天白川の砂州が発達し、その上にできた集落です。神社は堤防上にあり、創建は太閤検地(1582~1595)より以前と推定されています。祭神は須佐之男命で、境内には、明和6年(1769年)奉納の手洗い鉢、庚申塚の碑やムクノキの大木があります。
 
 石標  参道

 神殿
✿永井星渚出生地(ながいせいしょ)
 星渚は荷風の先祖で鳴尾永井氏の八代目です。徂来派の学にすぐれ、門下に伊藤両村などを出し、野にあって尾張の儒学者として活躍しました。
 
 屋敷跡  説明版
✿西来寺(さいらいじ)真宗大谷派
西来寺の境内には、永井荷風追慕碑(ながいかふうついぼひ)が有り、荷風を慕って昭和50年(1975)に建立された。堀口大学揮毫の碑で、碑面には「人生の真相は、寂寞の底に沈んで初めて之を見るのであろう。」と荷風のことばが刻まれています。
  
 山門  本殿 

 永井荷風追慕碑
✿鹿島稲荷社(かのしまいなりしゃ)
 天白川の砂州が発達して出来たというこの地は、かつて鹿の島と呼ばれていました。別名「久太稲荷」とも呼ばれ、「狐の化身だった久太夫の妻がその正体を子どもに見られ、姿を消す際に恩返しにと一晩で田植えをし、家を出ていった。その年久太夫の田だけ豊かに実った。」という民話が伝わっています。 
 
 稲荷社参道  神殿
✿光照寺百観音(こうしょうじひゃくかんのん)浄土宗
 慶安4年(1651)浄土宗に改宗、寺伝では、尾張の有力な武士であった山田次郎重忠の創建といわれています。
寺のお堂には数多くの石仏が並び「百観音」と呼ばれ、知多郡道を往来する人の休憩所であったと伝えられています。

 観音堂 
 
 百観音
✿石神社(いしじんじゃ)
 創建は不詳です。石を御神体とした神社です。この地域では「オシャモジ様」と呼ばれています。
    
 石標  参道  神殿
 【資料】・名古屋の史跡
     ・文化財南区の星崎の里めぐり

コメント