きままな旅

きままな旅ときままな日記

2017/10/30 鈴鹿市の加佐登神社、白鳥塚古墳と亀山市の能褒野神社、王塚古墳を訪ねる。

2017-10-31 | 尾張文化の会

2017/10/30 鈴鹿市の加佐登神社、白鳥塚古墳と亀山市の能褒野神社、王塚古墳を訪ねる。
〇加佐登神社(かさどじんじゃ)
 祭神は日本武尊の「笠」と「杖」を神体として祀っている。
 
   石標と鳥居   参道
 
   鳥居   本殿

   高宮資料館
〇白鳥塚古墳(県史跡)
 伝、日本武尊(倭建命)が東征の途中この地で没したが、魂は「白鳥」となって大和へ飛び立ったと云う。
 出土の埴輪からみても5世紀前半の築造で県下最大の帆立貝式前方後円墳である。規模は東西78m、南北59m、高さ9m
 
   白鳥塚古墳の全体風景
 
   石標   結界
〇能褒野神社(のぼのじんじゃ)
 祭神は日本武尊。旧県社である。
 
   石標   参道
 
  参道

  本殿入口の鳥居
 
   神殿  
〇能褒野王塚古墳(能褒野陵)
 前方後円墳で第12代景行天皇皇子の日本武尊の墓。
 日本武尊の墓は長い間、位置が未確定であったが、明治12年(1879)に「日本武尊の陵墓(能褒野陵)」として認定され、現在も陵墓として宮内庁の管理であるため、陵墓の入口には門が閉じられて施錠されていた。
 
  能褒野神社より入る   南に廻る道
 
  入口階段
 
   宮内庁の標示   能褒野陵
〇高神山観音寺(かんのんじ)
 弘仁3年(812)弘法大師(空海)が日本武尊の神霊を仏像として祀ったことが始まりと云う。
 吉良仁吉の喧嘩を題材にした浪曲「荒神山の血煙り」が有名である。
 慶応2年(1886)に桑名安太(桑名市)の徳次郎に賭場を奪われた神戸の長吉が仁吉や清水次郎長の子分らの応援を得て争った、場所が寺の裏の松林と云う。
 吉良の仁吉の碑と春日局が正保4年(1647)に寄進した「梵鐘」がある。
 
   石標   本堂
 
   鐘楼(寄進の梵鐘)   春日局の句碑

   観音堂 
 
   護摩堂
 
   仁吉の碑   本堂の裏 
〇椿大神社(つばきおおかみのやしろ)伊勢国一之宮
 御祭神は猿田彦大神です。
 猿田彦大神は、垂仁天皇の二十七年秋(西暦紀元前三年)、倭姫命の御神託により、この地に「道別大神の社」として社殿が奉斎された日本最古の神社で、仁徳天皇の御霊夢により「椿」の字をもって神社名とされた。
・鈴松庵
 日本の心をこよなく愛した松下幸之助翁が茶道の発展を祈念し、庭園とともに寄進された茶室。
 
   石標   由緒書き
  
  鳥居   本殿
 
   獅子堂
 
   鈿女本宮
 
   椿岸神社の石標   
 
    行満堂   霊殿
 
   松下社の石標   祠
 
       鈴松庵の門   茶室
〇伝、三重と日本武尊
 ヤマトタケルは景行天皇の命を受け、東国の蝦夷などを討伐するため遠征し、東国を安定すると、今度は伊吹山の神を退治に出かけたが、伊吹山の神に打ちのめされ、大和へ帰途の途中この地に立ち寄りつぶやいた「あが足は、三重の勾(ごう)のごとくして、いと疲れたり」、つまり「自分の足は、三つ重ねに捻り曲げた餅のように、たいへん疲れてしまった」と語った。この「三重」の言葉から、やがて県名となったと云われる。また、三重の勾のごとくしては「道の曲がった土地であった」とも云われる。
     以上

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2017/10/19 奈良市の天平文化、興福寺、新薬師寺、白毫寺を訪ねる。

2017-10-23 | 尾張文化の会

2017/10/19 奈良市の天平文化、興福寺、新薬師寺、白毫寺を訪ねる。
 『尾張文化の会』のメンバー37名と奈良の興福寺、新薬師寺、白毫寺を訪れた。(No393)
今回は勝川IC→亀山IC経由天理IC→(食事)→興福寺→新薬師寺→白毫寺→天理IC→亀山IC経由伊勢湾岸から名古屋南JCT経由勝川ICの行程です。伊勢湾岸自動車道への迂回は弥富近辺の渋滞距離が変わらないので迂回したので、予定時間に帰着できた。
◆興福寺(こうふくじ)法相宗
 天智8年(669)藤原鎌足が重い病気を患った時に、夫人(鏡女王)が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えら、藤原氏の氏寺として繁栄した。
○興福寺国宝館
 現在、耐震工事中です。リニュアルオープンは2018/1/1の予定です。
 国宝特別公開2017阿修羅―天平乾漆群像展(2017/9/15から11/19)は仮講堂で中心に阿弥陀如来坐像に八部衆像、十大弟子像、金剛力士像、梵天・帝釈天像、華原磬と20駆が天平の至宝群像が醸し出す濃密な空間を体感できます。
○東金堂(国宝)
 神亀3年(726)聖武天皇の設立、応永22年(1415)再建される。
 
   東金堂   東金堂と五重塔
○北円堂(国宝)
 養老5年(721)に藤原不比等が使者の苦を除く冥福を祈るため創建、仁治元年(1240)に再建された。
 
   北円堂
○南円堂(国重文)
 弘仁4年(813)に藤原冬嗣が父(内麻呂)の霊を祈るため創建、寛政元年(1789)に再建。西国三十三所第九番札所である。
 
   南円堂
○五重塔(国宝)
 天平2年(730)に創建。
 
   五重塔   
○三重塔(国宝)
 康治2年(1143)に崇徳天皇の中宮が創建。治承4年(1180)に再建されました。

   三重塔
○額塚
 南大門に掛かっていた山号の扁額を埋葬した塚と云う。
 
   額塚
◆新薬師寺(しんやくしじ)華厳宗
 天平19年(747)聖武天皇の病気平癒を祈願して、光明皇后によって創建された。
 本尊は薬師如来坐像(国宝)です。十二神将立像(11躯国宝で辰を除く)
 
   東門(重文)   南門(重文)
 
  本堂(国宝)

  香薬師堂
 
   地蔵堂(重文)

   石仏群前の塀

   新薬師寺の南門前を山の辺道が通る
◆白毫寺(びゃくごうじ)真言律宗
 天智天皇の第七志貴皇子の離宮であり、霊亀元年(715)志貴皇子の没後、その地を寺としたのに始まると伝えられ、鎌倉時代に再興されました。
 境内からは奈良市内の県庁、興福寺五重塔、東大寺大仏殿が観えました。
 宝蔵には閻魔王坐像、司命、司録など八駆が重文であり目前でお目にかかれます。
 
   参道

   本堂(市文化財)    宝蔵(写真なし)

   御影堂

万葉歌碑 巻2231
「高円の野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに」 笠 金村

   境内からは奈良市内を観えました。
以上

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2017/10/10 岐阜県海津市の行基寺と薩摩義士の史跡を訪ねる。

2017-10-11 | 尾張文化の会

2017/10/10 行基寺と薩摩義士の史跡を訪ねる。
《《薩摩義士をはじめ諸役人の犠牲者が80名を超えた墓所等を訪ねる》》
 薩摩義士は宝暦3年(1753)に幕府は薩摩藩(以前から交流が盛んに行われていた云う)に御手伝普請を命じ、大がかりな治水工事に取りかかった。困難を伴った工事は多くの藩士の犠牲を払い、後には「薩摩義士」と呼ばれるようになった。
 明治20年(1887)より木曽三川改修工事の工事計画で指導的役割を果たしたのが、オランダ技師ヨハネス・デレーゲであった。これにより木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)に整備ご洪水は急減し、高須輪中は大きく変化した。

○行基寺(ぎょうきじ)浄土宗
 天平年間(729から749)に行基によって開山と云う。宝永2年(1705)に境内、全伽藍を美濃高須藩主松平家の菩提寺として再興する。
 藩主松平義行は尾張藩二代藩主光友公の次男で家康の曾孫にあたる。また幕末から明治維新にかけて大きな役割を担い歴史に名を残した高須四兄弟(尾張慶勝、一橋成栄、松平容保、松平定敬)はこの地の功労者である。
 回廊式庭園は東側は南北に広がる濃尾平野と木曽三川を眺望する庭園である。
 高須藩主歴代墓(県史跡)があるが現在は非公開で残念です。

燈台・駐車場
 
参道

三門
 
本堂
         
 大書院から眺める庭(観える川は揖斐川です。)
   
小書院より眺める庭

藩主の間
 
櫓時計

行基堂

真影堂
 
葵の瓦塀 
○刻紋石(刻印石)
 名古屋城築城のおり自家が普請を実施した証に表面に刻印した。この刻印石は蜂須賀阿波守(蜂須賀小六の子)が切り出して輸送中に落としたと云われ、近年に元船着場近くの屋敷で発掘されここに奉納された。(裏付けは行基寺保存の古文書記載されている)
 
場内の刻紋石(影の下に三ツ和の刻印)
○刻印石(海津市歴史民俗資料館庭園)





大江川付近で発見された刻印石
○高須四兄弟
向かって左より(9男、7男、5男、2男)
桑名城16代城主松平定敬、会津藩9代松平容保、一橋家10代一橋(徳川)成栄[尾張藩15代徳川茂徳]、尾張藩14代徳川慶勝
美濃高須藩は小さいながらも家康の血が流れていた。

高須四兄弟
○円成寺(えんじょうじ)曹洞宗
 開山の詳細は不明である。
 薩摩義士13名の墓がある。

石標と本堂
 
 義士墓所
○天照寺(てんしょうじ)浄土宗
 明暦3年(1657)に創建され、境内の観音堂には正観音菩薩がまつられています。
 美濃高須藩小笠原貞信が師事して恕□が開山した、小笠原氏の年寄りの脇屋氏の菩提寺である。
 薩摩義士3名の墓がある。
 
石標  山門
 
本堂  義士墓石
○六角堂(ろっかくどう)
 薩摩義士24名が葬られている。
 

 
六角堂内に位牌
○常栄寺(じょうえいじ)日蓮宗
今尾城主竹腰氏の菩提寺である。薩摩義士6名が葬られているお寺です。
宝暦治水薩摩義士顕彰之碑
薩摩工事義歿者之墓  黒田唯右衛門 宝暦四年(1754)七月七日
 
 山門 石標

 本堂
 
 義士墓所
○宝延寺(ほうえんじ)浄土宗
 16世紀後半の開創といわれているが詳細は不詳である。
 蛇池宝篋印塔(県重文)は正安2年(1300)で県下最古である。
 
石標(源頼光標示)  寺の石標

本堂
 
蛇池宝篋印塔
 
蛇池宝篋印塔
○地泉院(じせんいん)真言宗
 伝、大須観音第三世住職が開山と云う。
 
参道 山門
 
本堂  

本堂の葵紋瓦
 今から約600年前、第97代後村上天皇、皇后の安産勅願寺(天皇の祈願の為に建てられた寺院)として建てられました。
○真福寺(しんぷくじ)真言宗
 慶長17年(1612)に徳川家康が真福寺の由緒と水難を免れた寺宝「大須文庫」があることを知り、真福寺を名古屋城下へ移転させました。これが、今日の「大須観音」である。
 本尊は阿弥陀如来像です。
 
 本堂  絵天井
○徳林寺(とくりんじ)真言宗大谷派
 本尊は聖観世音菩薩であり、円空仏「不動明王坐像」(市重文)がある。
 また絵天井、阿弥陀如来像、矜迦羅(こんがら)童子像、制托迦(せいたか)童子、毘沙門天像、鰐口全て市重文である。
 
石標  本堂
  以 上




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