きままな旅

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2018/03/24_南砺市井波_瑞泉寺_高瀬神社

2018-03-30 | 尾張文化の会

2018/03/24_南砺市井波_瑞泉寺_高瀬神社
✿井波別院瑞泉寺(ずいせんじ)浄土真宗大谷派
 当寺は明徳元年(1390)に本願寺第五代綽如上人(しゃくにょ)の開創。
 大坂本願寺顕如上人と織田信長との石山合戦(1570-80)においては、当寺と勝興寺(高岡市)と手を構え、門徒を一向一揆衆に組織し大坂本願寺を支援したと伝える。
 城壁と思わせるような石垣を左右に見て石段を登ると山門がある。その横に勅使門(式台門)がある。山門を入り正面に本堂とその横に太子堂があった。
 
 入口(石垣は右に100m、左に20mあり一寸した城郭である

・勅使門(式台門)
 扉の「菊の紋」は木製で、その左右に「獅子の子落し」が彫刻があり。井波彫刻の元祖田村七左衛門作と云う。

 式台門
・山門(県重文)
 本山派遣の大工に引き上げ後、地元の井波大工松井角平が棟梁を受け継ぎ、文化6年(1809)に再建された。
 正面にある唐狭間の彫刻「波に龍」は明治大火の際、彫刻の龍が出てきて、井戸の水を吐いて山門を守ったという言い伝えがあると云う。
 
 山門(石碑、後小松天皇勅願所) 山門(石碑、瑞泉寺)
 
 彫刻「波に龍」
・本堂 明治18年(1885)に再建された。
 
 本堂   入口
・太子堂
 大正7年(
1918)に井波彫刻の力を集結して再建された。

 太子堂
・太子堂正面向排上手狭彫刻
太子堂の屋根が一部前方に突き出た礼拝場の向排(ごはい)屋根の内側斗栱(ときょう)部分の彫刻で「波に龍」と「桐に鳳凰」です。
・式台門 宝暦12年(1762)の大火によって全焼したが、寛政4年(1792)に再建された。扉の両小脇板に井波彫刻の元祖田村七左衛門作の「獅子の子落とし」であると云う。
 
 手前から「龍」奥が「鳳凰」
 城壁と思わせるような石垣を左右に見て石段を登ると山門がある。その横に勅使門(式台門)がある。山門を入り正面に本堂とその横に太子堂があった。

親鸞聖人像の雪囲い
✿井波の八日町通り
 
 町並み
 
 井波美術館「大正13年(1924)の建物」
✿高瀬神社(たかせじんじゃ)
 主祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)祭神
 越中一宮の高瀬神社は景行天皇の御代と伝えられ、御鎮座は二千年の由来がある古社である。江戸時代には、加賀藩主の保護により権威を回復した。明治時代には県社、大正時代には国幣小社の格式であった。
 
 鳥居   由緒
 
 拝殿
 
 拝殿の彫刻(龍と鳳凰かな?)
 
 拝殿の彫刻で井波は欄間、獅子頭などの伝統的な木彫刻が盛んな所です。
 
 功霊殿の鳥居  功霊殿の拝殿
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2018/03/24から26 鈴蘭高原

2018-03-27 | ブログ

2018/03/24から26 鈴蘭高原
 25年続く会社の先輩方と恒例の鈴蘭高原へ行ってきました。ここへ来るのは年に2回で23年ぐらい続いている。
 出発時は肌寒かった、桜も開花して春が見えてきた処でした。しかし鈴蘭高原は写真の通り残雪が多く有った。さすがに道路には無く普通タイヤでも良かった。
 楽しみは山菜の天ぷらである、昨年度は4月中旬の「こしあぶら」で今年度は「ふきのとう」の天ぷらが最高、勿論、冷酒とビールと共に男の料理で満喫しました。
 帰り道は今月24日開通した守山スマートインターチェンジを体験して藤が丘へ着いた時には町並木の桜は満開であった。
〇別荘付近



 温泉付きの別荘



 別荘前より今も噴火口から蒸気があがる。
〇鈴蘭高原の道路より眺める山々



風の吹かない雲のような噴火口

鈴蘭高原の展望台より観る乗鞍岳

 鈴蘭高原の展望台より観る御嶽山
〇鈴蘭高原内の道路より

 笠ヶ岳(左)と乗鞍岳(右)

 笠ヶ岳

 乗鞍岳
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2018/03/14 秀吉ゆかりの城下町・長浜を歩く。

2018-03-17 | 尾張文化の会

2018/03/14 秀吉ゆかりの城下町・長浜を歩く
①JR長浜駅
 (写真なし)
②長浜鉄道スクエア
現存する駅舎としては明治15年(1882)日本最古の旧長浜駅舎である。
 
 長浜鉄道スクエア   石額
③慶雲館「明治天皇行在所」
明治20年(1887)明治天皇と昭憲皇后が京都から東京戻る際に大津から連絡船に乗船し、ここ長浜で明治天皇夫婦の昼食場所として長浜の実業か浅見又蔵の出資で建てられた迎賓館を内閣総理大臣の伊藤博文により「慶雲館」と命名されたと云われる。その後、浅見氏の別荘として使用され昭和11年(1936)に長浜町に寄贈された。
 庭園は国名勝で地泉回遊式の第7代小川治兵衛作と云う。

 入口と石碑
     
 内部の庭園
〇芭蕉の句碑(日本最大の句碑10トン)
  「蓬莱にきかはや伊勢の初たより」はせを

 句碑
④山内伊右衛門一豊屋敷跡
 
 説明版  碑
⑤長浜城
   
 長浜城
⑥豊國神社(ほうこくじんじゃ)
 祭神は豊臣秀吉公、加藤清正公です。
 慶長3年(1598)秀吉公が逝去されると、町民は太閤さんの恩徳を慕って豊國神社が設立された。
  
 
 鳥居と石柱  本殿  参道と鳥居 出世稲荷神社  

 虎石(長浜城内の庭園より移築)

 亀石
〇豊鑑(竹中半兵衛の子重門の著書)の歌碑
 長濱の起源歌碑で『君が代も わが代も共に 長濱の 真砂のか須の つき屋らぬまで 竹中半兵衛』「豊監巻一 長浜真砂(群書類従所載)」

 歌碑
⑦秀吉と三成出逢いの像
 喉が渇いた豊臣秀吉が寺に立ち寄った際、石田三成は「一杯目にぬるめのお茶、二杯目にはややむるめ、三杯目には熱めのお茶をだし」ました。秀吉はその心遣いに感心し、三成を家臣にしたと言われている「二人の出逢いの像」です。④長浜城(歴史博物館)
浅井氏滅亡後、豊臣秀吉は小谷城から、天正2年頃(1574)に長浜城を築いて長浜に入った。現在の長浜城は昭和58年(1983)に再興された。

 「三献の茶」像
⑧旧開知学校
 明治7年(1874)の旧開知学校
 
 旧開知学校
⑨安藤家屋敷
 北国街道沿いにある安藤家は、賤ヶ岳の戦い天正11年(1583)で秀吉方に協力し町年寄格(長浜十人衆三年寄)として、長浜の発展に力を尽くし活躍した。明治以降は近江商人との婚姻関係から商人となり事業展開し活躍した。
 現在の建物は明治38年(1905)に安藤與惣次郎により建設された長浜の豪商の名残を伝える近代和風建築です。お庭は「古翠園」といい、小蘭亭の前庭として大正3年(1914)に築造された地泉回遊式庭園です。
 
 入口玄関   北国街道碑
  
 小蘭亭入口  小蘭亭
    
 古翠園
 
 座敷から観る庭
⑩黒壁ガラス館
明治33年(1900)に旧百三十銀行(明治銀行)長浜支店として建てられた木造洋館を平成元年(1989)に黒壁ガラス館として会館した。

 舘
⑫大通寺(だいつうじ)真宗大谷派
 慶長元年(1596)に長浜城内に営まれた講の会所が後に大通寺と号した。その後、彦根藩2代藩主井伊直孝より寺領を受け、慶安2年(1649)に現在地に移った。
 東本願寺の別院で伏見桃山城の遺構と伝わる本堂や大広間など構造物の多くが国または市の重文です。客室(含山軒(がんざんけん)、蘭亭)内部の障壁は、狩野山楽・山雷、円山応挙によって描かれており、枯山水と池泉式の庭園(国名勝)がある。
〇ながはま御坊表参道

 御坊表参道
〇山門(市指定)江戸時代
 
 山門
〇本堂 阿弥陀堂(重文)江戸時代「伏見城の殿舎より移築」

 本堂
〇大広間(重文)江戸時代
 
 大広間
〇書院(市指定)
 
 書院
〇高欄擬宝珠(明暦3年(1657)刻銘がある)
   
 高欄擬宝珠(刻名が有る)
〇梵鐘(県指定)貞治2年(1363)総高97.5cm

 梵鐘
〇含山軒庭園(名勝)江戸時代 「前庭東方遥かに望む霊峰伊吹山を借景の庭」

 含山軒
 
 説明額  含山軒庭園(肉眼では後方に伊吹山が観える)
〇千代女の歌碑
 「手をあげよ 同じ流れに すむ蛙 日かげのわらび 腰をのしかね」

 歌碑
⑬曳山博物館
 曳山博物館の展示「曳山」は実物であり、12基のうち2基ずつを3ヶ月交替で公開しています。
 見学じの曳山は2基(高砂山 宮町組 ・鳳凰山 祝町組)でした。
 
 曳山(高砂山 宮町組)の前方と後方
   

 曳山(鳳凰山 祝町組)の前方(天井と装飾が特徴)と後方
   以上

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2018/02/28下街道_多治見_池田(清水の地蔵、池田城、西浦庭園)

2018-03-03 | 尾張文化の会

2018/02/28下街道_多治見_池田(清水の地蔵、池田城、西浦庭園)
 多治見主催(下街道サミット)で春日井市、多治見市、土岐市、瑞浪市の皆様が集合して35名の大所帯となり大混雑で楽しく説明を聞きながら勉強して来ました。

 JR多治見駅集合状況
〇清水の地蔵
 付替え下街道を一本南に入った角地に地蔵が有る。この下街道を行きかう人々が一息ついて喉をうるおした「清水の地蔵」です。昔はここに安養寺が有ったが現在は多治見駅の北側にあります。
 
  秋葉山常夜灯

 清水の地蔵は安永3年(1775)
天一聖王宮の石碑は別當 安養寺 大先代 慶応2 寅8月廿日設立
 
  天一聖王宮の石碑
〇稲荷神社道

  道標
〇沈下橋
 土岐川の合流地点近くの辛沢川に架かる沈下橋。
 
 沈下橋
 
  JR中央西線越しに見る沈下橋
沈下橋の北に下水道池田ポンプ場がある、かつては土岐川の一部で埋め立て云う。
〇旧中央西線の第14番トンネル
 
 トンネルに行く山道 と トンネル

  当時の煤が残る天井
〇池田城
 城主は不明であるが、池田氏の居城といわれている。
建物は残っていない、土塁、曲輪、掘切が有り、曲輪の位置に池田稲荷社の社殿が建てられている。
 今回は、県病院の北側に有る稲荷参道より辛沢川に架かる沈下橋を渡り大門(現在なし)と鳥居をくぐりすこし登ると地蔵がる、土岐川の対岸に旧道が確認できる。さらに登山道のような山道を登ると右側に入る道の奥に曲輪の古い「石垣」が見える。さらに登ると五輪塔が7基(室町時代前期と推定)ある。さらに階段を登ると池田稲荷の社殿に着く。さらに登ると曲輪、掘切を越えると赤い祠が有るところが天守と思われる。  「多治見市教育委員会『池田の歴史(1)』よりの説明でした。」
 
 第一鳥居でこの辺に「大門」が有ったと云う
 
 地蔵さん   小川を越えて獣道の様な下街道が有ったと云う

 さらに山道を登り、赤い鳥居が見える
 
 池田城の一番古い石垣

 自然石に聖徳太子の刻印
  
 五輪塔が7基で古いのは1基だけです。
 標柱に「池田城主七代開築墓地、大正十三年(1924)」とある

 一番古い五輪塔
 
 曲輪跡に建つ稲荷神社の石柱   本殿
 
  常夜灯
 
  本丸と思われる  本丸に登る(この下がわずかに残る「掘切」と説明された)
 
  奥の院の石柱   奥院鳥居

 帰りは現在の参道で帰る
 
  池田勝入斎源信遺跡の石標  8基の五輪塔
 
  五輪塔

 現在の稲荷神社参道
〇昼食
 本日の昼食は名物五平餅(五平田)で甘く香ばしい胡麻ダレが絶品でした。
ここは明治時代に陶器商(ヤマサ)斉藤家として建設された。現在は割烹「松正」です。
 
 玄関 ホール

 奥、中、表座敷

中庭
 
陶器商(ヤマ竹)日比野家
〇新町

 陶器商(ヤマ新)水野家
〇多治見国長邸跡
多治見国長は美濃国の守護の土岐頼貞の同族で、正中元年(1324)頼貞の十男頼兼と共に   後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕計画に参加し非業な最期を遂げた人である。「正中の変」と「太平記」などは記している。倒幕計画は一族の舟木頼春の妻の密告により幕府側に露見し、出陣途中に六波羅探題の軍勢三千余騎の軍勢により完全に包囲され、国長公らはわずか20人で奮戦したものの共に自刃したと言う。
 
 多治見国長公遺址
〇西浦庭園「明治天皇多治見行在所跡」
 江戸時代末期から明治にかけて、美濃焼や町の発展に貢献をした西浦圓治により造園された。庭園は大きな池を中心に滝、古樹茂り静かな庭であったと云う。
 離れ座敷は明治天皇が巡幸(明治13年(1880)6月の41日間)おり行在所として宿泊した所である。
 
表門と石碑(明治天皇行在所蹟)   石碑(明治天皇御駐輦地)
 
  庭園

  西浦庭園の敷地で現在は御幸公園
〇石心参禅蔵(せきしんさんぜんくら)西浦圓治と熊谷東洲(吉兵衛)
 平成18年末、多治見市御幸町に西浦家の土蔵を改修して「石心参禅蔵」を開館した。この土蔵は、江戸時代西浦家の内蔵として、七棟並んで創られた。
 幕末西浦家は、多治見村の庄屋、燃料商として大きく商いを伸ばした。二代目から「焼き物」の道に関わり、三代目圓治による手書きの「染付製品」が認められ、海外でも高い評価を得た、明治後期の五代目圓治による「釉下彩(ゆうじょさい)」の西浦焼きは世界万博に於いて金賞に輝いた。
 
 玄関と東蔵
〇石心参禅蔵は、東蔵、心蔵、西蔵の三つがある。
・東蔵
 幕末に作庭された西浦庭園の鳥観図は版木彫刻の名工小田切春江
五代目圓治の良きアドバイザーであった西浦三郎の遺品等です。
・心蔵
 幕末三舟 (山岡鉄舟、勝海舟、高橋泥舟)の書を初め西郷隆盛「敬天愛人」の書と「忠・孝・仁」の書など所蔵。
・西蔵
江戸時代末期の西浦焼を中心に染付製品、加藤吾輔作の「染付草花絵輪立」一対はこの蔵の秘蔵品は明治天皇行幸のとき天覧した。
 美濃焼きの逸品で「白磁薄手のコーヒー碗皿」、その他青黄磁製品がある。
 
 西蔵、心蔵、東蔵

 西蔵
〇大日如来像
 金剛頂教の印相の像で、忍者の結ぶ印に似て両手を胸の前に下げ左手の人差し指を右の挙で握る知拳印(ちけんいん)である。像はこの知拳印が「右手の人差し指を左手の挙で握る印を結ぶ形となっている」、国内でも珍しい印相の如来像と云う。また、ある年の洪水で流れた大日如来の御腕が禅源寺に着いたと思われる。
  公園には祠に納められた「大日如来像」と弘法大師図像(明治44年(1911)設立)、馬頭観音、秋葉山小祠(明治3年(1870)設立)が祀られている。
 
  神殿   大日如来
 
  馬頭観音(三面六臂)   弘法大師図像

多治見市の大日如来と春日井市の禅源寺が良く似た記述がありここに記載した。
〇大日山禅源寺(ぜんげんじ)臨済宗 春日井市大留町
 応永4年(1397)8月14日の設立で、寛永4年(1627)再興、文政9年(1826)再建、明治24年(1891)の大震災で大破したが、修理して今日に至る。寺伝によると本尊大日如来は行基菩薩の作で往時摂津の僧泉川という者が美濃国可児郡長瀬村の地に草堂を営み、大日如来を安置したが、ある年洪水が出て流失し、玉野川に沿うこの地に漂って、この渕に生えていた椋(むく)の大木の股に懸っているのを村人が見つかって直ちに近くに、堂を建て安置したという。 
  春日井郷土史研究会「春日井の寺院」より
 
 入口石標  大日堂
 
  本尊   大日如来古御腕
       以上

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