きままな旅

きままな旅ときままな日記

2019/09/19 福井県勝山市の白山平泉寺と大野市の越前大野城を訪ねた。

2019-09-22 | 尾張文化の会

2019/09/19 福井県勝山市の白山平泉寺と大野市の越前大野城を訪ねた。
 白山平泉寺と越前大野城を『尾張文化の会』のメンバー41名と東海環状自動車道(MAG)から東海北陸道へ入り白鳥ICで降り九頭竜湖を通り大野市に入った時はすでに11時を回っていた。結ステーションにバスを止めて近くの食堂で食事をすませて1時近くより越前大野城の見学に向かった。途中、階段と緩やかな坂道で天守に着いた。ここは亀山山頂で標高は約250mに築かれた平城である。会員の平均年齢が高く多くのメンバーが無言の下りとなった。バスに乗り白山平泉寺に向い拝殿に向かったが緩やかな坂で約600m奥の山裾に神殿は有り参拝を済ませ、やっとの思いでバスに戻って来たメンバーが多く感じられた。バスが発車した時はすでに16時で同じ道を帰路に着いた。(No413)
〇越前大野城
 天正3年(1575)金森長近(美濃源氏土岐氏の支流と称する)は織田信長より大野郡の領地を与えられ、翌年に大野城の普請と城下町の建設を始めた。後、豊臣秀吉の命を受け飛騨を制圧し、天正16年(1588)に高山城を築城する。
 
大野城石碑  城主金森長近像
  
天守 
  
野面積みの石垣

亀山山頂から観る大野盆地、手前の屋根が学びの里(めいりん)
・柳廼社(やなぎのやしろ)
 創建は明治15年(1882)で祭神は大野藩7代藩主土井利忠公です。
  
 神殿  祭神の土井利忠公像
・朝倉義景墓所(大野城天守より望む)
 義景は織田信長に攻め込まれ、一乗谷を捨て朝倉景鏡(かげあきら)をたよって大野へ来たが、自害したのでここに墓所がある。
 
大野城天守から観る大野盆地で中央の大木付近が朝倉義景墓所  
〇白山平泉寺旧境内(国史跡)
 平泉寺は養老元年(717)越前の僧泰澄(たいちょう)が白山に登ろうとして開いた所です。天正二年(1574)に一向一揆の攻撃を受け全山が焼失し、後に再興したが境内はもとの1割になり、明治に入り神仏分離令に基づき白山神社と改めた。
・一の鳥居(精進坂)
  
一の鳥居 石標
・二の鳥居
 神額「白山三所大権現」
 
二の鳥居(山王鳥居)  神額
・拝殿
 安政六年(1859)の造営。正面の額「中宮平泉寺」は一品天眞親王の筆。
   
拝殿 拝殿正面の額
・拝殿前の苔
 
拝殿前の苔
・本殿
 御祭神は伊弉冉尊です。寛政七年(1795)の造営。御本社を中心に別山社(右)、越南知社を祀る白山山頂の三山の神を祀っている。
 向拝と身舎を繋ぐ昇り・降り龍の丸彫りが見ごたえある。
 
本殿
  
向拝と身舎を繋ぐ昇り・降り龍の丸彫り
・大石垣
  
大石垣
・三の宮参道
 
三の宮参道
・御神木
 
御神木
・御手洗池(平泉寺由来の池)
 この池で最澄が見た白山の大神は「我は伊弉冉尊なり」と名乗ったと云う。
(白山三所権現が座所とする大汝峰「大己貴尊」、御前峰「伊弉冉尊」、別山「天忍穂耳尊」と云われる。)
 
御手洗池の鳥居
・開祖、泰澄大師廟
 源義経は頼朝に追われ奥州・平泉へ逃れる途中にここの平泉寺に密かに立ち寄ったと云う。
  
石標 墓所 弁慶の足跡
・玄成院(白山神社社務所)
  
山門 参道
・芭蕉の句碑
「うらやまし 浮世の北の山桜」
 
芭蕉の句碑
以上

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