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2018/02/28下街道_多治見_池田(清水の地蔵、池田城、西浦庭園)

2018-03-03 | 尾張文化の会

2018/02/28下街道_多治見_池田(清水の地蔵、池田城、西浦庭園)
 多治見主催(下街道サミット)で春日井市、多治見市、土岐市、瑞浪市の皆様が集合して35名の大所帯となり大混雑で楽しく説明を聞きながら勉強して来ました。

 JR多治見駅集合状況
〇清水の地蔵
 付替え下街道を一本南に入った角地に地蔵が有る。この下街道を行きかう人々が一息ついて喉をうるおした「清水の地蔵」です。昔はここに安養寺が有ったが現在は多治見駅の北側にあります。
 
  秋葉山常夜灯

 清水の地蔵は安永3年(1775)
天一聖王宮の石碑は別當 安養寺 大先代 慶応2 寅8月廿日設立
 
  天一聖王宮の石碑
〇稲荷神社道

  道標
〇沈下橋
 土岐川の合流地点近くの辛沢川に架かる沈下橋。
 
 沈下橋
 
  JR中央西線越しに見る沈下橋
沈下橋の北に下水道池田ポンプ場がある、かつては土岐川の一部で埋め立て云う。
〇旧中央西線の第14番トンネル
 
 トンネルに行く山道 と トンネル

  当時の煤が残る天井
〇池田城
 城主は不明であるが、池田氏の居城といわれている。
建物は残っていない、土塁、曲輪、掘切が有り、曲輪の位置に池田稲荷社の社殿が建てられている。
 今回は、県病院の北側に有る稲荷参道より辛沢川に架かる沈下橋を渡り大門(現在なし)と鳥居をくぐりすこし登ると地蔵がる、土岐川の対岸に旧道が確認できる。さらに登山道のような山道を登ると右側に入る道の奥に曲輪の古い「石垣」が見える。さらに登ると五輪塔が7基(室町時代前期と推定)ある。さらに階段を登ると池田稲荷の社殿に着く。さらに登ると曲輪、掘切を越えると赤い祠が有るところが天守と思われる。  「多治見市教育委員会『池田の歴史(1)』よりの説明でした。」
 
 第一鳥居でこの辺に「大門」が有ったと云う
 
 地蔵さん   小川を越えて獣道の様な下街道が有ったと云う

 さらに山道を登り、赤い鳥居が見える
 
 池田城の一番古い石垣

 自然石に聖徳太子の刻印
  
 五輪塔が7基で古いのは1基だけです。
 標柱に「池田城主七代開築墓地、大正十三年(1924)」とある

 一番古い五輪塔
 
 曲輪跡に建つ稲荷神社の石柱   本殿
 
  常夜灯
 
  本丸と思われる  本丸に登る(この下がわずかに残る「掘切」と説明された)
 
  奥の院の石柱   奥院鳥居

 帰りは現在の参道で帰る
 
  池田勝入斎源信遺跡の石標  8基の五輪塔
 
  五輪塔

 現在の稲荷神社参道
〇昼食
 本日の昼食は名物五平餅(五平田)で甘く香ばしい胡麻ダレが絶品でした。
ここは明治時代に陶器商(ヤマサ)斉藤家として建設された。現在は割烹「松正」です。
 
 玄関 ホール

 奥、中、表座敷

中庭
 
陶器商(ヤマ竹)日比野家
〇新町

 陶器商(ヤマ新)水野家
〇多治見国長邸跡
多治見国長は美濃国の守護の土岐頼貞の同族で、正中元年(1324)頼貞の十男頼兼と共に   後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕計画に参加し非業な最期を遂げた人である。「正中の変」と「太平記」などは記している。倒幕計画は一族の舟木頼春の妻の密告により幕府側に露見し、出陣途中に六波羅探題の軍勢三千余騎の軍勢により完全に包囲され、国長公らはわずか20人で奮戦したものの共に自刃したと言う。
 
 多治見国長公遺址
〇西浦庭園「明治天皇多治見行在所跡」
 江戸時代末期から明治にかけて、美濃焼や町の発展に貢献をした西浦圓治により造園された。庭園は大きな池を中心に滝、古樹茂り静かな庭であったと云う。
 離れ座敷は明治天皇が巡幸(明治13年(1880)6月の41日間)おり行在所として宿泊した所である。
 
表門と石碑(明治天皇行在所蹟)   石碑(明治天皇御駐輦地)
 
  庭園

  西浦庭園の敷地で現在は御幸公園
〇石心参禅蔵(せきしんさんぜんくら)西浦圓治と熊谷東洲(吉兵衛)
 平成18年末、多治見市御幸町に西浦家の土蔵を改修して「石心参禅蔵」を開館した。この土蔵は、江戸時代西浦家の内蔵として、七棟並んで創られた。
 幕末西浦家は、多治見村の庄屋、燃料商として大きく商いを伸ばした。二代目から「焼き物」の道に関わり、三代目圓治による手書きの「染付製品」が認められ、海外でも高い評価を得た、明治後期の五代目圓治による「釉下彩(ゆうじょさい)」の西浦焼きは世界万博に於いて金賞に輝いた。
 
 玄関と東蔵
〇石心参禅蔵は、東蔵、心蔵、西蔵の三つがある。
・東蔵
 幕末に作庭された西浦庭園の鳥観図は版木彫刻の名工小田切春江
五代目圓治の良きアドバイザーであった西浦三郎の遺品等です。
・心蔵
 幕末三舟 (山岡鉄舟、勝海舟、高橋泥舟)の書を初め西郷隆盛「敬天愛人」の書と「忠・孝・仁」の書など所蔵。
・西蔵
江戸時代末期の西浦焼を中心に染付製品、加藤吾輔作の「染付草花絵輪立」一対はこの蔵の秘蔵品は明治天皇行幸のとき天覧した。
 美濃焼きの逸品で「白磁薄手のコーヒー碗皿」、その他青黄磁製品がある。
 
 西蔵、心蔵、東蔵

 西蔵
〇大日如来像
 金剛頂教の印相の像で、忍者の結ぶ印に似て両手を胸の前に下げ左手の人差し指を右の挙で握る知拳印(ちけんいん)である。像はこの知拳印が「右手の人差し指を左手の挙で握る印を結ぶ形となっている」、国内でも珍しい印相の如来像と云う。また、ある年の洪水で流れた大日如来の御腕が禅源寺に着いたと思われる。
  公園には祠に納められた「大日如来像」と弘法大師図像(明治44年(1911)設立)、馬頭観音、秋葉山小祠(明治3年(1870)設立)が祀られている。
 
  神殿   大日如来
 
  馬頭観音(三面六臂)   弘法大師図像

多治見市の大日如来と春日井市の禅源寺が良く似た記述がありここに記載した。
〇大日山禅源寺(ぜんげんじ)臨済宗 春日井市大留町
 応永4年(1397)8月14日の設立で、寛永4年(1627)再興、文政9年(1826)再建、明治24年(1891)の大震災で大破したが、修理して今日に至る。寺伝によると本尊大日如来は行基菩薩の作で往時摂津の僧泉川という者が美濃国可児郡長瀬村の地に草堂を営み、大日如来を安置したが、ある年洪水が出て流失し、玉野川に沿うこの地に漂って、この渕に生えていた椋(むく)の大木の股に懸っているのを村人が見つかって直ちに近くに、堂を建て安置したという。 
  春日井郷土史研究会「春日井の寺院」より
 
 入口石標  大日堂
 
  本尊   大日如来古御腕
       以上

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