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チェ・ゲバラ 『モーターサイクル南米旅行日記』  2004 現代企画室

2012年10月26日 | 中南米・カリブ海・キューバ革命・ゲバラ



 上の写真は 旅の友だったモーターサイクルの「ボデローサⅡ号」故障 で「いかだでアマゾン川を下るゲバラたち(右がゲバラ・左がグラナード)」 いかだの名前は「マンボ・タンゴ号」 『モーターサイクル南米旅行日記』  2004 現代企画室 巻頭写真図版より

チェ・ゲバラ 『モーターサイクル南米旅行日記』  2004 現代企画室 はゲバラが23歳のとき、ハンセン病を専攻していた医師のアルベルト・グラナードとともに彼らの愛車ボデローサⅡ号にまたがり、南米を縦断した旅行日記だ。のちの、偶像化された革命家ゲバラ像とはまったく違った、みずみずしい23歳の青年ゲバラがいる。 旅の途中、立ち寄って世話になった病院の人々が24歳のかれの誕生日を祝ってくれた。 貧乏旅行中のかれが感謝でのべたことばとは? ロバート・レッドフォード製作総指揮、ウォルター・サレス監督、ガエル・ガルシア・ベルナル主演作品「モーターサイクル・ダイアリーズ」の映画を見ていたのだが、原作は本屋で拾い読みしただけで読んでいなかった。映画は評判通り、佳作のロードムービーだった。 その映画の一シーン 彼らが旅の途中、チュキカマタのチリ銅山近くの村で出会った貧しい夫婦の描写がなぜか心に残っていた。 今年8月のデモクラシー・ナウで、ゲバラの死の真相を究明する番組があったが、これは、この8月15日のブログで紹介した通りである。 ゲバラはどんなことばで、その夫婦のことを書き記していたのだろう。 ゲバラの23歳ー24歳のことばに耳をかたむけてみたいと思うようになった。



200頁の旅日記だ 解説は いらない か

序文でゲバラの娘さんの読んだ時のエピソードが語られる。とばして本文からよんでもいいが、必ず同じことをするはずだと思うので、そのまま伝える。


「読めばわかるようなことを読者にお伝えすることが、私の目的ではない。だがきっと、この本を読み終えたときには、いくつかのくだりをもう一度読み返して、味わってみたくなるに違いない。それはその部分に書かれていることが、すばらしいからかもしれないし、あるいはそこから強い思いが伝わってくるからかもしれない。」

                          アレイダ・ゲバラ・マルチ



あらかじめ、ゲバラは序文とも似つかない、

「以下のことをご了承ください」と書いている。

それには、

「僕の口には、僕の目が語って聞かせたことだけを叙述するのだ、人間の目というものは広い視野を持ったことなどなく、いつもうつろい易くて、必ずしも平等な見方をするとはかぎらない・・・・
ここにあるメモを記した人物は、再びアルゼンチンの大地を踏んだときに死んでしまった。これらのメモはを整理し、きれいに整える「僕」とは、僕のことではない。・・
この「果てしなく広いアメリカ(南米大陸のこと)をあてどなくさまよう旅は、思った以上に僕を変えてしまった。」



1951年暮れから1952年のこと、もう60年も前の旅のことだ。

ゲバラがチュキカマタのチリ銅山近くの村で知り合った、夫婦のことが書かれてあった。映画『モーターサイクルダイアリーズ』でも出てくる。

「その村ではチリ人の労働者夫婦と友達になったが、彼らは共産主義者だった。マテ(茶)をいれて、パンとチーズを一かけら食べようと灯したロウソクに照らし出されて、労働者の夫のゆがんだ顔だちは、不思議な悲痛な雰囲気を漂わせていた。彼は意味深長な言葉でもって、牢屋で過ごした三ヶ月のこと、また、模範的な忠誠さで、彼に付き従っている腹を空かせた細君のこと、不思議にも失踪してしまった共産党仲間たちのことや、彼らは海に沈められてしまったのだと言われていることを語ってくれた。」


また別な日には


「聖ゲバラの日」と記された一節。

1952年6月14日、土曜日、医療の勉強や手伝いをしながら寄宿していたサンパブロ・ハンセン病療養所で、彼の誕生日を祝ってもらったお返しに、お礼を述べるくだり

「えー・・・先生が私にしてくださった乾杯に対し、ありきたりの態度以上の何かで、謝意を示さねばなりません。私たちは、困窮した状態で旅をしているので、その中で、親愛の情を表現する方法としては、言葉しかありません・・・・・・

わたしたちはたいした人間でないので、あなたがたの主張の代弁者となることはできませんが、はっきりしない見せかけだけの国籍によって、アメリカ(ラテンアメリカ諸国)が分けられているのは、まったくうわべだけのことだと、この旅の後では前よりもはっきりと考えています。私たちは、メキシコからマゼラン海峡にかけて顕著な民族誌的特性を示す一つの混血民族を形成しています。ですから、心貧しい地方主義の重荷など全て打ち捨てて、ペルーと、統一されたアメリカに、乾杯します。
 僕の演説に大きな拍手がわき起こった。
この地方ではパーティとはできる限りたくさんのアルコールを飲むことなのだが、僕らが降参した朝の三時まで続いた。」


この小さな200頁程の旅行記だったが、南米生まれの詩人の誕生を思わせる、繊細かつ、宇宙の深淵をのぞくような、明晰な思考の断片がいくつも見つかった。とだけ言っておこう。





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