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私的読書年表小史 60年代後半~70年代 雑誌篇 その2の3

2015年04月15日 | 私的読書年表小史

 

私的読書年表小史 60年代後半~70年代 雑誌篇 その2の3

 

                                               ▲ 今回はここから エピステーメー、詩と思想、季刊同時代演劇、文芸、詩学、歴史と人物、国文学 解釈と教材の研究、国文学解釈と鑑賞、海、宝島、カイエ、80年代、actes

 

私的読書年表小史 60年代後半~70年代 雑誌篇 その2の3

 

 『エピステーメー』創刊号 1975年10月 朝日出版社 定価800円

 ▲ 『エピステーメー』 1975年10月 創刊号目次 朝日出版社

ヘルメス文書ほか、翻訳された方々御苦労様でしたという感想はあります。ある種無国籍的な地球大的な論調なので、20世紀後半の日本でなぜこのような思想を思想するのかと言う立場の論考がチョット少ないか (このような発想自体、私が古い思想観の持ち主なのかも知れないのですが)

杉浦康平+鈴木一誌の雑誌デザインも、なかなかよいのですが、当時の糊付けの糊の技術的限界なのか、40年後のいま頁を開くと割れて解体してしまうのが残念。第1次『エピステーメー』 はいつまで続いたのだろうか。ミシェル・フーコーが亡くなったときに、第2次『エピステーメー』が発行されたはずなのですが、追悼号以外に記憶がない。いつか人物論とか、テーマに沿って紹介するときに、関連する『エピステーメー』誌を扱いたい。セザンヌ、カフカ、ウィトゲンシュタイン、時間、鏡、などなど気になる特集があったはず。真理(論)への偏愛を好む方向け?あるいは美学・官能への偏愛?を好む方向け?

善であるとか、公正であるとか、平等であるとかの、数世紀来思想が保持し課題として持ち越してきた、思想のもう一つの論調は少なかったように見える。(『エピステーメー』全部を購読してないので全く記憶違いかも知れないし、私の思想の分類法自体が化石化しているためかも知れない)

 

 『朝日ジャーナル』 1968年7月21日号

 

 『朝日ジャーナル』 1968年7月21日号から掲載の『ゲバラの日記』

前年にボリビアで処刑されたチェ・ゲバラが死の直前まで綴っていた日記が日本語訳で朝日ジャーナルにこの号から短期集中連載された。

のちに朝日新聞社で単行本になったが、みすず書房版、太平出版社版、青木書店の『ゲバラ選集』4巻にも収録されている。今ではこのほかにも翻訳がもっとでているようだ。

 『朝日ジャーナル』 は、1968年の春頃から、おそらくベトナム戦争、和平協議、アメリカのキング牧師、ロバートケネディ・暗殺などの事件に衝撃をうけ、新聞ではよく理解できない背景のことを知りたくて、春から断続的に 『朝日ジャーナル』を読むようになったのだろう。

なお、チェ・ゲバラの処刑にあたり、その真相を明らかにした作者への「デモクラシー・ナウ」のインタビュー番組の記事について、2012年8月15日の当ブログに紹介記事あります。 ここ▼ 

『誰がチェ・ゲバラを殺したのか CIAの完全犯罪』の著者にエイミー・グッドマンが聞く 

 1969年頃『朝日ジャーナル』で「現代の偶像」という特集連載記事があり、世界の32人の思想家や文学者が紹介されていた。その中の1人にゲバラもいた。1970年の朝日ジャーナルを見たら、まとめられて、1冊の本になっている。参考までに、1960年代後半若者たちに人気の高かった偶像32人は下の本の案内記事の通りである。

朝日ジャーナル編 現代の偶像の32人

 

 ▲ 『文芸』 1968年8月、1972年2月

 

 

 ▲ 『文芸』 1968年 8月号 目次

雑誌の後半に掲載された4人(いいだ・もも・高橋和巳・竹内芳郎・鶴見俊輔)による座談会「暴力考」は、発行された月が、1968年の高校最後の夏休みだったこともあって、友人の間でも反響があり、まわし読みして読んだような記憶がある。この座談会の収録は、キング牧師が暗殺された直後の4月に行われていて、ベトナム戦争の泥沼化もあり、対談は異様な熱気に満ちていて、読む方の側も、ぐいぐいとひきつけられていく。1968年というと、ベトナム戦争・キング牧師・ロバート・ケネディ暗殺・ベトナム反戦・ゲバラ・マルクーゼ・文化人類学への興味、構造主義旋風などが、集中豪雨のように私の中に降り注いだ年なのだ。

最近になって、高橋源一郎の記憶を辿ったり、年譜を見てみると、高校生の時「暴力論」を書き上げ、高校批判などもやっていたようだ。もしかすると、高橋源一郎も1968年の『文芸』誌8月号の「暴力考」を読んでいたかも知れない。

高橋源一郎らがある日行動を起こしたことの規模と質と内容に雲泥の差はあったようだが、都から遠く離れた田舎でも、18歳の少年たちの空っぽの頭の中に、(朝日ジャーナルや、思想の科学、月刊文芸誌などを通して)、学校の一方的な知識伝授の方法だけではなく、テイーチ・インなる言葉や、討議集会のような対話的成長の試みに魅力を感じていく。

高校生活も後半期の、ある日、授業を抜け出した私の友人数人は、授業中のクラスの校舎に向かって、アジテーションを始めた、・・・・・・・人間として今考えなければならないと思われることを、高校ではなぜ今問えないのか、教われないのか、なぜ、今考えながら行動しないでいつ行動するのか・・・・・と・・・・・・訴え、聞こえたように記憶しているのだが・・・・・・

1968年のある日、私は猛烈に小林秀雄が嫌いになったのだが、それは、今考えると、「悟り」でも、「真実」でもいいのだが、それを考える、あるいは、ある方法で考えるべきと考える最良の考え方はどうして保証されるのか?という疑問があることに・・・・気がつき、それをめぐる論の興亡に小林秀雄はそもそも関わっていたのだろうかということなのだ。小林秀雄の思考方法に対する疑問は、そのまま、自分にも還ってくる問題なのだが・・・・・

 

 

▲ 『文芸』 1972年 2月 目次

これは、小説ではなく、中村雄二郎の「言語表現とはなにか」を読みたくて買ったようだ。1970年代に入ってフーコーの著作は続々と日本語に翻訳されていくのだが、まだ1970-1972年ころは研究者によっても用語に統一性がなく、訳者の補足説明が、必要な時代だった。『知の考古学』も巻末の多くの訳注や、補注があったし、のちに改訳もされた。河出書房は現代思想関連の叢書類も出していて、マルクーゼの『一次元的人間』もそのシリーズで刊行されていた。

 

 ▲ 『詩と思想』 『ぴえろた』 

左は『詩と思想』1972年12月号、土曜社 当時定価350円、右は『ぴえろた』 1970年6月号 母岩社 当時定価300円

『ぴえろた』は、私が持っているのは、2巻4号なので、1969年に創刊号を出しているようだ。どちらもやはり、1960年代末~1970年代前半の時代的・思想的刻印を帯びた詩誌。どちらもメインの詩のほかに、戦後詩の背景となる思潮にも関心をもって、特集を組んでいた。

 

 ▲『同時代演劇』 左は1973年11月 、右は1970年6月 発売 晶文社 

 ▲ 同時代演劇 2号 1970年 目次

上京時代は、観劇はそれなりに。ほとんど地下演劇?赤テント、渋谷ジャンジャンでの、イヨネスコ、ベケット、シェイクスピア・シアター、早稲田小劇場、それとVAN99ホールでのつかこうへいや東京ボードヴィルショーなど、劇場興業関係に勤務していた友人からチケットをもらったり、大学サークルの下手だがとても真剣なシェイクスピアものなど、おおいに笑わせてもらいました。「ぴあ」の上演案内を頼りに100円ぽっきりの演劇随分とみましたなぁ。大学後半はけっこう映画とともに観劇したのだが、なぜか、東京では黒テントは見ないで終わっている。帰省中の地方公演や、田舎に帰ってからは、黒テント地方公演のチケット売りの手伝いなどして、すこしばかり雑誌をいただいたもの。さすがに学生時代は、みるのに精一杯で、演劇雑誌や、キネマ旬報、映画芸術などは買えませんでした。赤テント、黒テントとも張り合って対抗していた寺山修司『地下演劇』という独自の雑誌を1969年ころ出していたはず。私は1冊だけ持っていたのだが、これは友人が借り出したまま戻らなかった。寺山らしく、いたずらで表紙折り返しカバー裏に細工をして、発売さし止めで回収されてしまったものだったと思う。

1960年半ばまでは現代演劇雑誌といえば、『新劇』と『テアトロ』 の2強時代。アンダーグラウンド演劇は、あっという間に、アンダーグラウンドでなくなってしまったけれどね。

ひとにへりくだって評価をお願いしないで、どんどん先まで行ってしまえ!という時代の過激な冒険譚がそこかしこに聞こえてくる。考えてもみれば、時は、戦後高度成長のど真ん中、どんな失敗も許してしまう懐の深さ、厚みがあったのかも知れない。ケセラセラ・・・・・だったのだ。

「劇場と街頭」「芝居の居る場所」「街頭に向かう」「演劇における言葉と肉体」などなど、この雑誌の号のタイトルだけからも,60年代末から70年の叛乱の時代のキーワードが揃っていることにあらためて不思議な感動を覚える。

 

続く

 

 

  

 

 

 

 



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