野散 NOSAN 散種 野の鍵 贈与のカオスモス ラジオ・ヴォルテール

野散 のさん  野を開く鍵 贈与のカオスモス 散種 混沌ー宇宙 想像的・歴史的なもののジャンルなき収蔵庫をめざして 

『古墳時代の考古学』 同成社 全10巻完結 その2

2014年09月12日 | 初期国家・古代遊記

         ▲『古墳時代の考古学 2』 同成社 2012年 定価6000円+税

総論 古墳文化―津々浦々―[一瀬和夫]
1 古墳築造の展開
古墳出現の過程[下垣仁志]

古墳群と群集墳[一瀬和夫]

終末期古墳の様相[林部均]

2 畿内の展開
大和[東影悠]

河内[十河良和]

摂津・山城[梅本康広]


3 地域の展開
九州南部[橋本達也]

九州北部[重藤輝行]

四国[蔵本晋司]

中国[宇垣匡雅]

近畿周辺[藤井幸司]

東海・甲信[瀬川貴文]

北陸[伊藤雅文]

関東内陸[太田博之]

関東沿岸[小沢洋・田中裕

東北[藤沢敦]

 

 

『古墳時代の考古学』 同成社 全10巻完結 その2

 

今回は、2012年5月発行の 2巻目 「古墳出現と展開の地域相」 のピックアップ

気になっていた初期国家形成と階層分化についての手がかりはないものかと探していたが、河内の古墳築造について書かれた十河良和の論文にその手がかりがあった。

 

       ▲河内における主要前方後円墳編年表 『古墳時代の考古学』 同成社 十河良和論文 89頁

図の左端の編年の段階は埴輪検討会2003年の共通編年といっている。

私はこの埴輪検討会の論考を入手していないので、詳しい編年の論理が分からず残念なのだが、平成23年の近つ飛鳥博物館で開催された特別展の図録『百舌鳥・古市の陵墓古墳』の中に関本優美子の「百舌鳥・古市古墳群と円筒埴輪研究」によって、おおよその概要を知ることが出来た。

関本優美子「百舌鳥・古市古墳群と円筒埴輪研究」の要約を2012年の5月17日の当ブログで紹介しているのだが、再掲して、左端にある編年の各期を判断すること手がかりとしたい。

 

川西宏幸の円筒埴輪の研究は各地の古墳研究に画期をもたらし、その後続する研究者の成果、とりわけ畿内の王墓が集中する奈良・大阪の埴輪編年の細緻な分析は、従来のともすれば無意識下に記紀によりかかりがちであった陵墓の比定に、考古学的基準による古墳の前後関係の判断を提起した。
 特に川西編年Ⅳ期B種ヨコハケの円筒埴輪の時期の細分化は4世紀後半から5世紀の王墓の新旧関係を記紀の王統譜に依拠することなしに考えることができる基準ができてきたようにみえる。
 「埴輪検討会」による円筒埴輪の新編年では、川西編年のⅡ期の津堂城山古墳をⅢ-1期にあて、この時期の円筒埴輪の形態の特徴をB種ヨコハケの出現、突帯間隔の縮小顕在化とし、Ⅱ期から分離してⅢー1期としていて、百舌鳥古墳群の乳岡古墳とともに津堂城山古墳を百舌鳥・古市古墳群出現の画期としているようである。
 百舌鳥・古市にある陵墓古墳のすべての埴輪の詳細が明らかになっているわけではないが、これまで確認されている陵墓古墳では、関本優美子「百舌鳥・古市古墳群と円筒埴輪研究」によれば下記のように考えられるという。

①津堂城山古墳(部分的B種ヨコハケの出現) → 

②仲津山古墳(仲津姫皇后陵古墳 Ba・Bb種)→ 

③上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵古墳 ヨコハケあり)→

④ 誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳 Ba・Bb・Bc種)→ 

⑤大山古墳(仁徳天皇陵古墳 Bc種のみ)→ 

⑥軽里大塚古墳(日本武尊白鳥陵 Bd種)→ 

⑦野中ボケ山古墳(仁賢天皇陵古墳 2次調整ヨコハケ無し、1次調整のみ)

 このほか関本論考の表1の「円筒埴輪共通編年と各期の埴輪出土古墳」では川西宏幸円筒埴輪編年の細分案として、埴輪検討会のⅢ期・Ⅳ期・Ⅴ期の・分類・陵墓古墳が示されている。
 先にⅢー1期として津堂城山古墳・乳岡古墳が画期とされていることに触れたが、以下に表の通り簡単に整理してみる。

Ⅲー1 B種ヨコハケの出現 古墳では乳岡(百舌鳥)・津堂城山(古市)

               ↓
       
Ⅲー2 B種ヨコハケ普及、Bb種ヨコハケの顕在化 百舌鳥大塚山・仲津山古墳 
 
               ↓
         無黒斑の埴輪出現(窯焼成の開始か)
               
Ⅳー1 Bc種ヨコハケの出現、製作技法規格化の開始 百舌鳥御廟山古墳、誉田御廟山古墳(古市)

               ↓
Ⅳー2 Bc種ヨコハケの普及 大仙古墳(古市)、田出井山古墳(百舌鳥・反正天陵古墳)

               ↓
Ⅳー3 Bd種ヨコハケ顕在化 土師ニサンザイ古墳(百舌鳥)、前の山古墳(古市・白鳥陵古墳、市野山古墳(允            恭陵古墳・古市)

Ⅴー1 ヨコハケの省略    白髪山古墳(古市・清寧天皇陵古墳)
               
               ↓
Ⅴー2            ボケ山古墳(古市、仁賢天皇陵古墳)
          
               ↓
Ⅴー3            高尾築山古墳(古市、安閑天皇陵古墳)


最後に「B種ヨコハケの分類が有効なのは、百舌鳥・古市古墳群中に限られるようですが、地方の古墳に用いられたB種ヨコハケがみられる埴輪は、百舌鳥・古市古墳群中における大型前方後円墳との関連が深いと考えられる」としている。
 
 畿内だけでなく地方・地域の古墳出土の埴輪の比較は「倭国の王権の構造」を解明するものとなりうるわけで、一片の埴輪片の語る情報量は大きいと言わなければならないだろう。





さて、では、王墓もしくは、それに準ずると考えられる大型古墳に伴い、陪塚と言われている古墳は百舌鳥・古市古墳群で、いつ頃から始まり、どのような変化が見られるだろうか。


下の表は2 畿内の展開 十河良和論文の89頁に掲載されている、古市・百舌鳥古墳群時期別階層構成一覧である。以前には、一瀬和夫が、『日本の時代史2 倭国と東アジア』 2002年 吉川弘文館 所収の論文「倭国の古墳と王権」(109頁) のなかで、模式図として5世紀代の古墳階層構成を表現していた。十河のものは、規模別・かつ時代別に陪塚の有無を合わせ掲載して、より詳細な階層構成の変化が追えるようになっている。

 

  ▲ 古市・百舌鳥古墳群時期別階層構成一覧 前掲89頁

 

Ⅲー1段階  陪塚は現れていない。

Ⅲー2段階  前半  仲津山古墳後円部 堤に接して、 方墳の鍋塚古墳 (50m)。陪塚の始まりか。

Ⅲー2段階  後半  古市古墳群では、大王墓クラスの300m越える古墳なし。墓山古墳(225m)に多数の陪塚が伴う段階 百舌鳥古墳群では、上石津ミサンザイ古墳(伝・履中天皇陵古墳)365m築造。陪塚と目される七観古墳。七観音古墳・寺山南山古墳など。方墳寺山南山古墳(47m)は上石津ミサンザイ古墳と外周溝と濠を共有。古墳丘にTG232型式期の須恵器。

Ⅲ期に3階層 上石津ミサンザイ古墳 365m→ 大塚山古墳168m → かぶと塚古墳(帆立貝形古墳・50m)。被葬者数を上回る多量の鉄製武器の副葬。大塚山古墳から開始。

百舌鳥・古市古墳群の中で大型古墳を交互に造営する主体者が同一であった可能性を指摘した上で、階層構造も両古墳を一体にして考える必要があるとする。そうすると、それぞれの古墳群では階層構造は3階層であるが、両者を一体と見れば、300m以上・200m級・150m超級・帆立貝形古墳と5階層に及ぶ。とまとめている。

Ⅳー1 段階 誉田御廟山(伝応神陵古墳)425m築造。二重周濠整備。方墳のアリ山古墳・東山古墳・栗塚古墳・東馬塚古墳など陪塚として随伴。第2階層の前方後円墳ははざみ山古墳(103m)で、王墓との墳丘規模の格差が増大。第3階層には造出付き円墳の青山古墳(72m)がつづく。

百舌鳥古墳群は百舌鳥御廟山古墳(203m以上)二重濠、いたすけ古墳(146m)。百舌鳥古墳群では大王墓の空白。百舌鳥では第1階層が百舌鳥御廟山古墳、第2階層はいたすけ古墳となる。

これを両者一体としてみれば、

第1階層  誉田誉田御廟山(伝応神陵古墳) 400m級 大王墓 (古市)

第2階層  百舌鳥御廟山古墳  200m級 二重濠 (百舌鳥)

第3階層  いたすけ古墳   150m級 (百舌鳥) いたすけ古墳には方墳の陪塚吾呂茂塚古墳・善右ヱ門山古墳伴う

第4階層  はざみ山古墳    100m級 (古市)

第5階層  青山古墳     造り出付き円墳(古市) 

とし、十河良和はこの時期5階層構成 を見ている。

これらの構成からみて十河はこのような提起をおこなっている・

「原初的官僚層の墓とされる陪塚が、第4期に至って150m級前方後円墳に伴うことは、第4期に及んで、第3階層の被葬者にまで、自身に附属する原初的官僚制度が形成されたのか、あるいはすでに形成されていた原初的官僚層が陪塚を築造しての埋葬が許されたことを示すものと理解することが可能である。いずれの論が適当であるかは今後検討課題となる」 (84頁)

Ⅳー2  段階  

百舌鳥古墳群で古墳築造がピークに達する。古市古墳群で目立った古墳の築造が行われない。百舌鳥・古市古墳群のバランスが失われる。

百舌鳥古墳群 

第1階層  大山古墳 (伝仁徳陵古墳・486m以上)陪塚多数。

第2階層  田出井山古墳 (148m) 

第3階層  長塚古墳 (100m)  狐塚古墳を陪塚とすれば、第5期にに初めて100m級の前方後円墳に陪塚が伴うようになる。

第4階層  5期に独立墳築造活発化。

        文殊塚古墳 (58m) 小型前方後円墳

        銭塚古墳 (71m)  帆立貝形古墳 

        旗塚古墳(56m)  帆立貝形古墳

下位層の墓域が設定されたことを示すとする

百舌鳥古墳群では古市古墳古墳群よりも、1・2段階 下位の階層化が遅れる。

レーダー探査によれば、長塚古墳で縦穴式石槨か。

Ⅳー3 段階  

百舌鳥古墳群

第1階層  ニサンザイ古墳(290m以上)

第2階層以下 城ノ山古墳 前方後円墳 (77m)

         定の山古墳 帆立貝形古墳(69m)

古市古墳群

第1階層  市野山古墳 (230m) 

独立墳として前方後円墳が認められなくなる。

双方の古墳群に認められる現象として

Ⅲ・Ⅳ期と比較して王墓クラスの規模は縮小するが、この期に200m以上の古墳築造はⅢ期以来

Ⅳー2段階で200m級の前方後円墳が欠落していたが、Ⅳー3段階では150m級。100m級の前方後円墳の築造が停止。

王墓との格差が広がる。

この現象を一瀬は

「・・・・他の目立った古墳の築造を押さえ込むこむにつながった・・・・」 として、大王による古墳の築造規制の発露と見る  一瀬 2000 『季刊考古学』71号 雄山閣

多数の鉄製甲冑・武器が埋納さてていた野中古墳(37m)は、墓山古墳の陪塚的位置にあるが、時期はⅣー3のこの時期のもの。黒姫山古墳前方部出土甲冑を含め、大量埋納のピーク、最終段階

この期をもって百舌鳥古墳群では大型前方後円墳の築造停止。

倭王世興にあてられた安康大王の暗殺にかかる混乱、及び倭王武による宋への遣使の途絶に伴い大阪湾岸からの大王墓の視認の必要性が低下したこと等、複合的な要因の存在が推測される。」 十河(86頁ー87頁)

 

Ⅳー3段階 後半 

古市古墳群で軽里大塚古墳(190m) 本来は200mを越える築造か。古墳周囲の簡略化。

市野山古墳と同時期とみる意見あり、Ⅳー2段階との時間差は少ない可能性。

古市古墳群の藤の森古墳(22m)に畿内最古の横穴式石室導入。系譜は北部九州との関連か。

 

後期古墳

Ⅴー1 段階

古市古墳群 

第1階層  岡ミサンザイ古墳 (242m) 二重濠はないか。

陪塚 鉢塚古墳(60m) 前方後円墳

鉢塚古墳は第2階層とすれば、第1階層との差は著しい。

柏原市高井田古墳(径22m)が畿内型とされる横穴式石室。TK23型式の須恵器とV期1段階の円筒埴輪

百済漢城期の石室の系譜、475年下限。この時期の実年代の定点になるか。

 

Ⅴー2 段階

古市古墳群

第1階層 ボケ山古墳 (122m) 一重周濠

墳丘2壇築成、墳丘構造の省略化顕著。

第2階層 嶺ヶ塚古墳 (96m) 部分的二重濠 墳丘長と周辺整備逆転。この古墳は近接した、第1階層の古墳の可能性あり。

高屋八幡山古墳(現状85m) 

 

Ⅴー3 段階 この時期 古市古墳群大型古墳築造休止期 

         摂津三島に築造の今城塚古墳と推測、この期、墓域が変わる。

 

Ⅴー4 段階 

古市古墳群

第1階層 白髪山古墳 (115m) 二重周濠。主軸を揃えて小白髪山古墳 (46m)

かつての大王墓周辺の様式を備える。 白髪山古墳の円筒埴輪はⅤ期ー3段階に位置づけられるとの意見あり、今城塚に併行する可能性もあり、検討必要。

そうすると、Ⅴー4 段階の第1階層は、高屋城山古墳(122m)となる。これに主軸を合わせ、城不動坂古墳検出。組み合わせ式家形石棺を蔵する横穴式石室。出土須恵器から6世紀中頃の築造。古市古墳群最後の前方後円墳か。古市古墳群終末段階で、陪塚が復活か。

河内大塚山古墳 (355m)

日置荘西町窯系円筒埴輪は河内大塚山古墳を供給先として生産開始されたものの、なんらかの事情樹立ができなかったもの。と推測。(十河2011)『ヒストリア』228号「日置荘西町窯系円筒埴輪と河内大塚山古墳ー安閑未完陵説をめぐってー」

十河は、この河内大塚山古墳について

「日置荘西町窯系円筒埴輪は継体大王墓たる今城塚古墳に埴輪を供給して高槻市新池埴輪窯C群の系譜を引く」 とし、

「復古的な円筒埴輪や、巨大な墳丘は、、旧来の大王家と直接の縁戚関係を有さない継体系の大王が、大王位の相続を河内大塚山古墳の築造によって、視角的に表したものと推測」 としている

「辛亥の変や、二朝並立説を背景に安閑大王あるいは欽明大王の未完成墓とする説」(90頁) を提起している。

 

古市・百舌鳥古墳群以降 6世紀後半 

河内の大王墓のエリアは、古市古墳群の南東、南河内群大子町の磯長谷移動。

太子西山古墳 (93m) 前方後円墳 敏達稜に治定の古墳。

大型方墳 山田高塚古墳、春日向山古墳、葉室塚古墳

大型円墳 叡福寺北古墳、上ノ山古墳

古市古墳群南西 羽曳野丘陵上、塚穴古墳(方墳・54m) 来目皇子墓に治定の古墳。これを契機に横口式石槨埋葬の築造増大

 

 以上十河は古市・百舌鳥を中心とする河内の古墳群の変遷を考察して、

「階層構成把握が提起する課題」 を次のようにまとめている。

1  百舌鳥・古市古墳群はひとつの集団によって墓域が扱われていた。

2  Ⅳー2段階で、第1階層・王墓との格差が広がり、第2階層の古墳規模の縮小が見られる。

   Ⅳー2 で200m級前方後円墳欠落。

   Ⅳー3 150m級・100m級前方後円墳欠落。

   Ⅴー1 段階以降古墳築造数自体の激減

3  5世紀後半のの築造規制は多くの研究者が指摘しているが、政権中枢古市・百舌鳥古墳群においても同様の規制が働いていた。

4  陪塚の設置については Ⅲー2段階 仲津山古墳段階で陪塚が出現。古市・百舌鳥古墳では

   150m級の前方後円墳の陪塚の出現はⅣー1段階。100m級の前方後円墳では、陪塚を伴うのは、百舌鳥古墳群Ⅳー2段階の長塚古墳だけ。

中期古墳の特色とされる、長持形石棺や陪塚という属性は、幅広く階層に採用されたものではなく、百舌鳥・古市古墳群内の有力古墳においても規制が働いていた。 (十河90-91頁)

 

 

こうしてみると百舌鳥・古市古墳群にみる古墳築造における規制は、5世紀代の畿内中枢古墳群においては、5世紀後半にははっきりと全国的に見える古墳築造の規制現象以外に、5世紀全体にわたり、政治権力と階層構成の関係変化が着実に存在していた可能性があることになる。

ここ2日ほどで、『古墳時代の考古学』2 をざっと、通読してみたが、この十河論文は、畿内大王権力中枢内の中小古墳の推移を、従来より細かい埴輪編年基準の格子にて古墳群の階層構造の変化の意味を提起していて読み応えがあった。

ここまでくると、考古学的成果と日本書紀における記述にも対応するものが読み取れるであろうし、従来の見解よりももっと歴史的記述との対応が微細に追求できることになる。日本書紀・古事記を何度も読み返す必要がでてきたといえる。

また、畿内中枢の古墳群の階層構造が、5世紀全体にわたりこのような変容があるのなら、地域の古墳の変化も、独自の政治力学の働く中、それを解読するアイデアともなるだろう。

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



最新の画像もっと見る