グレートノーザン鉄道

アメリカのグレートノーザン鉄道の実物(歴史、資料等)と鉄道模型(HO:レイアウト、車両)に関するプログです。

「Wood's Book」翻訳:第7章 ディーゼル (その10。最終回です)

2005年10月22日 | Wood's Book翻訳
 60年代後期、70年代のディーゼルは、早い時期のアメリカンと後のノーザン、ミカドとが非常に異なるのと同じように、性能、塗色、外見、大きさが、早期のディーゼルとは大違いであった。しかし、いまだにカスケードやロッキーの上り勾配を時速17マイルから22マイルで走っている。これは、馬力の不足によるものではなく、連結器にかかる力に配慮してのことである。後補機は、1マイルにも及ぶ6000トン以上の貨物列車の連結器にかかる力を均等にし、緩みが積み重なるのを防ぐために、今でも一般的である。カシミア、スカイコミッシュを出たところで、スロットルのノッチをあげる前に、貨物列車はカブースの後ろに後補機が連結されるのを待つ。そして、カブースの乗務員は、標準的な安全策として後補機に乗り移る。
 多くの乗務員は「Hill」(カスケードやロッキーの峠越え)の乗務を志願するわけではないが、彼らの功績は彼ら自身に名を与えている。「Hill Crews」は、高度に選択された機関士のグループである。また、ここで多くの助手が、機関士の資格を得ていった。6000トンの列車を2.2%及び1.8%の勾配区間で上り下りさせるには、連結器の積み重なる緩みや逆にすべてが伸びきってしまうことに、常に注意を払うことを必要とする。中途半端な状態は、連結器の破壊、そして更に悪い状況を招くそのものである。一度でも山岳部の勾配で列車分割を経験したことのある乗務員は、その経験を繰り返したいとは決して思わない。壊れた連結器あるいはその部品をレールの間の土や雪から掘り出して、この重い部品を元に戻すのは、非常にきつく、いらつく仕事であり、結果として何時間もの遅れに繋がってしまう。
 過去10年間ほどで、鉄道は大きく変化した。車両は大きくなり、ローラーベアリングによって更に転がりやすく加速しやすくなっている。3軸台車の大きな機関車は、プルマンと同じようなスムースな乗り心地である。運行指示は、ほとんど無くなり、今や何百マイルも離れた運転指令によるCTC信号の緑と赤の信号に置き換えられた。運転席とカブースに設置された列車無線により、1マイルも離れた乗務員間でも簡単に連絡が取れるようになった。列車間の連絡も同じ無線で行われ、列車の位置はブロックではなくフィートで測れるほどとなった。塗色もまた変わった。美しかったオレンジとオリーヴは1960年代初頭にシンプルなものに変えられた。更にその後、1967/68年には、短い期間ながら流行したビッグスカイブルーがやってきた。1970年のBNへの合併後は、多くのGNの機関車は(NPもSP&Sも同じだが)今や一般的となったカスケードグリーンと黒に塗り替えられ、長いディーゼルフードに定型化された巨大な白い字体で機関車番号を入れられている。Goat、NPのMonad、SP&SのレッドフットボールはBNのシンボルによって置き換えられていった。大きく言って、James J. Hillが思い描き、戦ってきたこのシステムは、今日のBNとなり、全米で最長の鉄道となり、すべての地点からの貨物を運び、メキシコ湾からカナダまで、五大湖から太平洋まで達しているのである。


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