消えゆく霧のごとく(クンちゃん山荘ほっちゃれ日記)   ほっちゃれ、とは、ほっちゃれ!

きらきら輝く相模湾。はるか東には房総半島の黒い連なり。同じようでいて、毎日変わる景色。きょうも穏やかな日でありますよう。

ロールスクリーンを手づくりしました!極安491円! お手軽な目隠しにどうぞ!

2016年09月30日 14時32分45秒 | 手づくりあれこれ
過去記事2015-11-18 17:47:53
   “温室”の目隠しに、簡単スクリーン!
  ワンコイン(491円)で簡単に出来ました!


 先だってアップした「冬支度」という記事で、庭のアラマンダ(オオバナアリアケカズラほか2種)を掘りあげて室内で越冬させるという話を書きましたが、その後、室内に入れたはいいが置き場所に困ってしまいました。
 ここは海岸部と違って山ん中なので、人がいないときには(無暖房となり)かなり冷え込みます。おそらく室温7、8度3、4度ぐらいに下がるんじゃないかな。
 で、いろいろ考えた末、温室のようなものをつくってしまうことにしたんです。
 このうちの窓は、外側から言うとだいたいのところが雨戸、ガラスのアルミサッシ戸、障子、という構造になっています。
 温室風に窓を改造する条件としては、人がいる場合、ガラス戸、障子は容易に開け閉て出来ること、超悪天の際は雨戸も閉められるということになります。

 そこで、南に向いた六畳間を温室にあてることとし、窓周辺を改造しました。まず、障子2枚の、それぞれ上から3段目までの障子紙を残して、あとの紙を取り除く。さらに、障子の外側から、サイズを測って切りそろえたテーブルクロス用の厚めの透明ビニールを両面テープでぴったんこに貼り付ける。
 試してみると、ビニールを貼ってもうまい具合に障子2枚は相互に開けたり閉めたりが出来、ガラス戸、雨戸も同様なので、思わずホクソエんでしまいました。
 これで障子紙1枚という従来仕様と比べて、かなり太陽熱を取り入れ、室温を保つはずで、陽がある場合は十分にあたたまるでしょう。
 えっ、上から三段目まで障子紙を残したのは、なぜかって?
 それは、ときたま近隣にも人が見えますから、そんな場合、クンちゃん人などが温室の隣の部屋で椅子に座る、立って歩く、という時に、隣人らと目が合うのを避けるための工夫なんです。
 下画像は「完工した温室のようなものに収まったアラマンダ3種とプルメリア2種」です。


    

 ここからがいよいよ本日のお題、「ロールスクリーンのようなもの」です。
 完成した温室のようなものに寝転がってみると、座っている時、立って歩く時と異なり、結構離れているものの隣接の二軒の閉まっている雨戸がバッチリ見えるのです。これでは、隣家からも河馬の昼寝の様子が丸見えとなってしまい、夜ともなれば透明ビニールですから窓を開けっぱなしのままという感じでおさまりがつかないなという感じがしました。
 じゃ、カーテンかロールスクリーンで目隠しをしてみるか、これは誰もが考えることですね。
 しっかし、ネット通販で見てみると、いずれも結構値段が張る。
 えらく安いのがありましたが、よく見ていくとそれは基準の値段で、横幅、丈によってどんどん値が吊り上がっていく仕組みになっていました。もともと一文もかからずにおさまっていた場所なのに、たかだかアラマンダの越冬のために出費がかさむのはなんとなく、なんとなーく、納得できないクンちゃん人なのでありました。

         
     (画像は、アラマンダ=オオバナアリアケカズラの花。人物は無関係デス!
                 引用元・http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151113-00000017-flix-movi.view-000)
 
 
 ここで、ない知恵絞って考えてみたら、要するに必要な要素は保温とか隙間風を防ぐとかじゃなくて、「目隠し」になればいいわけだってこってす。さらに、もともと障子だったんだから、目先、障子紙を貼り付けておきゃええんじゃねーの、ということになりました。

 で、物置を見ると残り少ない巻き売りの障子紙が1本あったので、改造箇所にさしわたしてみると、障子1枚分にほぼぴったんこ。
 じゃ、これを取り敢えず貼っとこ、という段階になりまして、どん尻に糊付けされていた障子紙を巻くためのボール紙の筒を見ているうちに、ふとひらめきました。
 ははーん、こいつは使える!この筒になんかの棒を通して、フックかなんかで鴨居に固定してぶらさげれば、障子紙を両面テープなどで貼り付けてしまうより使い勝手が良いわい!

 というわけで、もう1本障子紙を買ってきて、巻き戻してもう1枚のほうの障子用に使いました。
 また、「なんかの棒」は庭の菜園の支柱2本(180センチ)をそれぞれ5センチほど切り詰めて使いました。
 かくして、巻き上げる形ではないものの、左右開閉式の紙筒(ロール)を使ったスクリーンが完成した次第です。なお、夏に百均で売っているすだれ用の“簡易巻き上げ道具”を応用すれば、文字どおりのロールスクリーンが出来るかもしれませんね! おしまい。

    

    今回、買ったものは、
   ①障子紙1本291円也(税込、あと障子フルサイズ5枚分ぐらいの量が残りました。)
   ②鴨居用フック2本200円(百均の税無しデーでした。) 合計491円也

        

 【写真説明】
 (左)・左右の端に鴨居用フックを置き、支柱を固定させた。爪が2本に見えるが、これで1個。
 (中央)・左右の支柱が出合う場所は支柱がなるべく重ならぬよう、ありあわせの、幅が短いフックを据えた。 
 (右)・障子紙の左右開け閉ては手で障子紙の端をつまめばよいが、かっこつけて紙ひもで輪をつくり貼り付けました。 

 

殺人的激辛!青とうがらし味噌 を作ってみました!

2016年09月30日 14時31分45秒 | 手づくりあれこれ
strong>過去記事2015-11-12 22:07:40
  季節の終わりで辛すぎなのか?
  レシピどおりなら“辛くてしょんない”
 



 11月に入ったと思ったら、もう月半ば! カレンダーもペラペラになってきた。
 年齢に見合った年月の過ぎ去る速さというものは、1年を年齢で割ってみりゃ実感できるべよ、とかいう話がある。
 巷間にて、よくいわれてるけど、12歳の小学6年かな、そういう子どもが感じる速さを標準とするなら、6歳は標準の半分程度、この時期の1年はゆっくり時を刻む。赤んぼはもちっと長いわけかね。
 これに対して、還暦のおっさんの1年は小6の5倍のスピードで早送りとなる勘定だ。
 ホンマかどうか知らないけれど、還暦をとうに過ぎたクンちゃん人は大きくうなずいてしまうのです。

 さて、夏の終わりのころ、山ひとつ向こうの絶景地に住む従兄の家族に会った際に、「辛党のクンちゃん人なら、好きかもね」と手渡されたのが、なにやらカラ・アマのお味噌。ごはんにのっけたり、焼いた肉に添えたり、ゴーヤの炒めたやつにまぶしたり、これが癖になるうまさ。
 うまいのかどうかわからん段階だったので、材料も名前も聞きそびれた。
 で、うまい!となった後、売っているものだと思って熱海や小田原に出た際に、スーパーや食料品店でこれこれこういう味噌なんだけどと聞いたが、どうもよくわからない。「それは金山寺味噌というもの」とか言うobaaもいたが、金山寺は辛くはないわな。

 それが最近になって、従兄の妹のだんなのお姉さんのお手製「青とうがらし味噌」だとわかった。「でも、もう今年は終わりね。また来年」ちゅうことで、しゃあないとあきらめていた。
 ところがどうだ! 
 きのう、山道を4キロばかり歩いて下りて、さらに1・5キロ先のコンビニに行って新生バンクからお金をおろした帰り、海岸近くの八百屋に立ち寄った。そしたら、青とうがらしがあった! 店のojijiに聞くと、「これはふつうに赤くなるとうがらしの若いやつ」なんだという。
 
 クンちゃん人  「うちでもとうがらしを植えたんだけど、この辺じゃどこもとっくに赤くなって、もうからからに干しあがってるよ。」
  ojiji      「これは知多半島のほうから来たもんでよ、まだ青いんだな。今ごろのは辛くてしょんない(伊豆弁。これをうっかり聞き流していたのがまずかったか!)という人もおるずら。」
 クンちゃん人   「はあ、むこうじゃ時期を遅らせて植え付けるんけ?」
  ojiji      「それは知らんが、あっちはまだ夏なんかも知れんな、ハハッ。」

 なーにを言うか、知多半島だって伊豆だって、気候はいくらも変わらんわな。大いに不満ではあったが面倒なので、40グラム入りを3パック買って、また6キロ近くの今度は上り道を帰ってきたのであった。値段は1パック150円ぐらいだったかな。

    

 というようなわけで、青々とした(緑みどりした)青とうがらしが手に入ったので、きょうは朝もハヨから、青とうがらし味噌づくりとなった。
 まず、ネットで検索すると、たーくさんありました。少しずつ、材料、つくり方も違うので、最初に出てきた下のレシピで作ってみました。

    http://cookpad.com/recipe/1139675

    

 刻んでいるうちから、もう辛い!(上のほうはレシピどおりみじん切り、下はいくらか厚めに輪切り)
 しかし、まだ“地獄”を見てないので、庭でとれた赤とうがらしを一本、種を抜いて入れようと準備している。

         

 青とうがらしの分量が前掲レシピと同じ120グラムだったのに気をよくして、ちゃんちゃかちゃんと刻んだ青とうがらしをゴマ油で炒め始めたのはいいが、たちのぼる蒸気というのかエキスというのか、これが辛い!顔を横にそらせて、なおひどく咳き込む有様なんである。
 やっとこさ、味噌、砂糖、みりん、日本酒(料理用がなくて、隠しといた八海山)を合わせ、念入りにかき混ぜた末に出来上がったのだがぁ、ちょびっと舐めて、
 辛い! 辛すぎる!

 いくら辛党のクンちゃん人でも、とてもじゃないが、食べられない。身震いするほどの辛さである。

 まず、心当たりとして赤とうがらしを取り出す。続いて、味噌をはじめ各材料を合わせたものを注ぎ足して、この辛さをなんとかしようと試みるが、これがなかなかおさまりがつかない。結局、3度にわたって各材料を足し、使った味噌はレシピ120グラムのところ、450グラム強になってしまった。他の材料の増量分は計算しないとわからんねえ。

 とはいうものの、なかなかうまく出来上がったには出来上がった。
 (ただし、青とうがらしの「青々」も「輪切り」もどこかへ雲散霧消している。)

 しっかし、やっぱ、かっ、辛い!
 ここらへんで蚊にさされると、季節の初めと終わりは一段と酷いかゆみだけれど、
 青とうがらしも季節の終わりは異常に辛くなるんだろうか?

 辛くてしょんない!


小紋潤の喰ろうた夕めし

2016年09月30日 14時26分00秒 | 小紋潤さんのこと
過去記事2016-08-24
19:49:01
    ある日の夕食、
   小紋潤の喰ろうた献立はこれだ!


 前報にうっかり「詳細確認中」と書きましたので、なんか追加原稿をアップしなければならなくなりました。ところが、唯一の地元筋と連絡がとれません。

 そこでやむを得ず、きょうの昼下がり、先方がやや手すきと思われる時間帯に、西彼メディカルセンターというところに電話してみました。以下、要旨。

ク  ン 「あっ、どうも、三階の小紋の知り合いでクンと申しますが、ちょっとつかぬことをお尋ねします。
     最近、あん人はベッドで点滴じゃなくて、食堂に行ってめしを喰ろうておるように聞きよりますが」

先方女史 「ああ、小紋さんね、あん人は車椅子でね、食堂においでなさって、食べておられますよ、はい。
     一週間ぐらい前からのようですよ」

ク  ン 「はあ、そうですか。食い物が喉を通るんじゃ、なんかうまかもんば送ってやろか思うちょりますが、
     どんなもんがええでしょうか」

先方女史 「それはねえ、好みもあるし、なんとも言われませんが…」

ク  ン 「そちらでは、どんなもんを喰ろうておるんでしょうか」」

先方女史 「うーん、そりゃあ、いろいろですよ…」

ク  ン 「ちなみにきのうの夕食はどんなメニューでしたかねえ?」

先方女史 「そんなんわかりませんよ、ここでは!食堂じゃないんだから」

ク  ン 「いやいや、その机のところに献立表が貼ってあるでしょ、それを読んでくりゃあ、ええですよ…」

先方女史 「あれま、ほんまに。えーと、いいですか、きのうの夜ね、
     ご飯、かぼちゃの味噌汁、白身魚のソティ大根おろし添え、和え物、デザートはパイナップル。
     小紋さんはご飯じゃなくて、お粥でしょうね。それから、自前で梅干なんか持ってくる方は多いですよ」

ク  ン 「なーるほど、なるほど、よーくわかりました。じゃあ、ちょっと考えてみますわ。
     どうも、いろいろありがとうございました!」

       (後略)


小紋潤、座ってめしを食う!

2016年09月30日 14時25分19秒 | 小紋潤さんのこと
過去記事
2016-08-23
10:57:08

           小紋潤、起き上がる!!
     食卓にてめしを喰らう!!


  

 大荒れの台風9号が過ぎ去った昨夕、クンちゃん宛着信した長崎通信によりますと、「かねて当メディカルセンターにて静養中の小紋潤さんは、このところ回復めざましく、食卓についてお食事ができるようになりました云々」ということです。
 ながらく立ち上がることに困難を覚えていたという小紋潤ですが、
 ながらみ書房刊が奏功したか!? 詳細確認中です。




小紋潤歌集『蜜の大地』刊行さる!

2016年09月30日 14時24分01秒 | 小紋潤さんのこと
過去記事
2016-08-05
09:25:00
     小紋潤歌集『蜜の大地』刊行、
      珠玉の420首を収録!


      
     手許にカメラがありませんで、ガラ携の粗雑な画像にて、まことに申し訳ありません。いずれ差し替えます。
          『蜜の大地』は、ながらみ書房(Tel 03-3234-2926)刊。四六判上製196頁、定価2500円+税


 熊本震災直前のこの4月、旧友小紋潤と長崎で35年ぶりに再会したことは、先に当クンちゃんブログでお伝えいたしました。

  http://blog.goo.ne.jp/92freeedition44/e/32af27eee5663141425ae69b7ae6be65
  http://blog.goo.ne.jp/92freeedition44/e/ee8131c841624f2943e0cedddbfca72f
  http://blog.goo.ne.jp/92freeedition44/e/7863973925893abb9564f65f6ad7e5c9?

 
 その折、近々、小紋の歌集が出ると聞き、心待ちにしていたところ、あちらこちらを経由して、このたび伊豆の山奥まで刊本が届きました。
 さっそく手に取ると、まさに小紋の人柄が反映された、とても凝ったつくりの装丁(高麗隆彦氏)となっていて、思わず顔がほころんだことでした。
 佐佐木幸綱先生の「そこに小紋潤その人がいる」との帯文が載る腰巻(画像左)をはずすと、ハチと蜂の巣をあしらったと見受けるカバー(右)があらわれ、「蜜の大地」にまことにふさわしい絵柄となっています。また、ページを開くと、見返しと本とびらを横断したスペースに見開きでやはり大きな挿絵が入っており(下の画像)、40年ばかり本づくりの周辺をうろついているクンちゃんもすっかり圧倒されてしまいました。

   

 かねてお邪魔させていただいている佐佐木幸綱先生のブログ「ほろ酔い日記」に何かアップされているのでは、とアクセスしてみると、見本あがりの段階で速報が載っていました。

    http://blog.goo.ne.jp/yukitsuna/e/06df41381e8f1391caa3e39785494a6f

 幸綱先生のブログには、「なかなか自分の歌集を出さない小紋潤に、なんとか歌集を出して欲しいということで」という記述がみられ、どうも初めての歌集のようです。そうだとすると、先にクンちゃんブログに書いてしまったエピソード、35年前に小紋の荻窪のねぐらで目覚めた二日酔いの朝、小紋から「2、3冊持っていけや」と勧められ、クンちゃんが固辞した場面でうずたかく積み上げられていた歌集とおぼしき本はいったいなんだったんだろうか、と腕を組んでいます。詩集か小説か、そういった類のものか? もらわんでよかったのか、もらっときゃよかったのか?!
 まあ、それはそれとして、ブログ主*註1がどなたなのか存じ上げませんが、「暦日夕焼け通信-短歌な日々」というブログにも関連記事がありました。
 
    http://rekijitsu.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-8862.html


 というわけで、“中身を除いて”あらましをご紹介しました。

 で、肝心の掲載歌ですが、短歌の門外漢のそのまた外に位置するどしろうとにつき、これがなんともコメントできないのです。
 しかし、読み通してみて、心に残った10首を以下に掲げておきます。これは、「馬場昭徳選」とか「谷岡亜紀選」などという著名な歌人が選ぶものとはまったく異なるものですが、対象のすばらしさに免じてお赦しいただきたいと思います。


     一途なる思ひを持ちて郁子(むべ)の咲く五月の丘に一人遊びき(濫觴期)

    *叶はざりしことのみ多し万緑の彼方に若き白雲湧きぬ(万緑)

    *夢に見ればかく美しき故郷の秋澄む風もわが父母も(秋澄む風)

     くり返し繰り返される空の火のやうやく我に返る沈黙(花火)

    *仰ぎ見れば天上を群れ泳ぎゆく鰯雲ありて多摩は秋なり(銀杏)

     草の茂る小道を通り夕焼けの向かうにいつかゆかうと思ふ(ブリキの兵士)

    *いきどほるべきこの世の秋(とき)にあらざらんのちを思へば宴のごとし(父母の家)

     暑き日のうつろひのなか君をらぬ不思議を思ふ不思議に思ふ(不思議を思ふ)

    *夢の中に母はいませり麦秋の黄金の海に佇ちゐたりけり(ポプラ立つ丘)

     かくまでに澄みわたりたる冬空にいつか生れくる青雲あらん(青雲あらん)
      《掲載順。*印は「もし5首だったら」。歌中の(むべ)(とき)はオリジナルではルビになっています。》


 さて、さて、ひとつひっかかった歌がありました。

        人生の半ばを過ぎてぬばたまのカーマイケル*を思ふことあり(人生の半ば)
                        *「ブラック・パンサー党首」の註あり

 人生の半ば、がいつごろなのかわかりませんが、かなり年をくったと自覚し始めた段階と思います。
 そんなおっさんが、「カーマイケル」とは、いやはや小紋らしい、と思いましたね!

 1969年6月15日、クンちゃんたちフランス語クラスのおよそ10人の若者*註2は、小紋にそそのかされて日比谷公園内、野外音楽堂とその周辺で催された、なんであったか忘れてしまった集会に連れて行かれました。集会が終わると、大集団はデモ行進に移り、この気の毒な若者たちはいくつかの悌団のうちのひとつの群集の最先頭に位置することになりました、偶然。
 これを奇貨としたのかどうか、デモが銀座にさしかかると、ひとりの長髪の若者が隊列の前に躍り出て、長崎なまりで「広がれー」と大声でわめきつつ両手を左右に開いたり閉じたりして、4車線+駐車帯の広ーい道路いっぱいに隊列を広げろとキョーハクするのです。
 で、銀座通り一帯は、道路いっぱいの大フランスデモの巷と化してしまったのであります。
 この長髪の男がいったい誰なのか知る人は少なく、今もって定かではありませんが、当時の『アサヒグラフ』には大フランスデモの様子が見開きででかでかと載りましたから、ヒマな方は拡大鏡をお持ちになって国会図書館でご覧ください。

 最後の最後に、歌人の心は余人には皆目わからないという一首。

        多摩センターよりモノレールに乗り高幡不動にて降り、友を訪ねる(六月の水)

 うーん、これはむづかしい!次の歌(わが友は静養中でありたればパジヤマで出で来、顔色よろし)とのからみでどうしても必要なのだろうか?

        
 そこでクンちゃんも一発!

        伊豆の山から別荘地のバスに乗り熱海にて降り、診察を受ける(八月の病)


 巻末・大口玲子さんの解説はすぐに読みたい誘惑にかられるのですが、歌の全部を味わいつくしてから読みたいと、谷岡さんの覚書につづく1頁のみ読みました。楽しみはあとで、というわけで残しています。了


 ******************************************
*註1 リンクを張らせていただいたご挨拶をメールにて申し上げましたら、福岡の垣成美代子先生から丁重なる返信メールをいただき、恐縮いたしました。
*註2 クンちゃんら党派性のない学生は当時、ひとくくりに「ノンセクト・ラジカル」と呼ばれ、全共闘運動の一角におりました。党派(例えば中核派とか革マル派、ブント、解放派、民青=日本共産党などなど)も民青以外は全共闘に介入し、ノンセクト・ラジカルをなんとか自派に囲い込もうとしました。その目論見はまったく奏功せず、浅間山荘事件につづく連合赤軍のメンバー同士の大量粛清事件発覚を契機に運動総体が消滅に向かうと、ノンセクト・ラジカルはおおかた学園に戻るか、郷里に帰っていきました。このため、世間からは「連中はハシカにかかったようなもの」と評せられ、下を向いて歩かざるを得ないという心情を長く抱いた者も多かったようです。*註1、註2は2016年8月6日に追加記載



小紋潤と再会、35年ぶり!

2016年09月30日 14時23分20秒 | 小紋潤さんのこと
過去記事
2016-04-06
14:32:21
    “ちょっと見”が変はっちまったと想ふ時
        目を瞑りなば昔のままに
 



長崎まで飛んで行って、旧友にて歌人の小紋潤に会う旅から、きのう夕刻、埼玉まで帰ってきた。

実に35年ぶり。

よく知らないが、仏教では三十三回忌で一応おしまいということのようだから、オッソロシク長期のご無沙汰だった。

とくに喉が悪いということで、話はできないだろうと思っていたが、放射線治療が奏功した由にて、毒舌は健在だった。
ただ既往の脳疾患の後遺症とあいまって、立ち上がることがかなり困難、ということだった。

歌詠みのこと、というわけで、今回はクンちゃんも恥ずかしながら「歌でリポート」に初めてトライしてみた。
しっかし、短歌や俳句といったものは、なんせ中学校の授業で一度?やったきりなので、どんなもんだかね。
へたな俳句のことを腰折れというようなあいまいな記憶があるが、へたな歌はなんというやら。

小紋潤に添削してもらいたいところだが、スマホもパソコンも、携帯さえ持たない人なので致し方ない。



長崎にて小紋潤に会ふ

病む友を マーマレード持ちて訪ね来て 光あふるる さくら道かへる

訪ねあて 開けはなたれしふしどより 聞き覚へある そのひとの声

飛びきたり ふせしままの面立ちに 三十五年のとしつきを飛ぶ

のど病みて声なき人と思いしが  斜にかまえたる舌はかはらじ

美少年 こんだけふとっちゃかたなしばい  その軽口ぞ耳になつかし

チューブにてやしなわれる日の長ければ 「腹は減るとよ」 わが問ひに答へて

女人あり 連絡係と言ふ髪に 窓辺の桜かがやきて舞ふ

ブログには載せぬと言ひつ  はじめてのツーショットにおさまりてはにかむ

ながながと離れしままの手を握り ふたつのわだち いま交はりぬ

歌集出し いまひとたびは東京へ せつなる願ひ われも祈らん


小紋潤への土産に、庭の無農薬夏みかんでマーマレードをつくってみた!(挑戦2回目)

2016年09月30日 14時21分49秒 | 小紋潤さんのこと
過去記事2016-03-31
17:53:47

   土産のマーマレードをつくる!
             庭の無農薬夏みかんで
 

       ことしは雪にもめげず豊作だった!(2本のうちの1本)
 
           

 あした、エイプリルフールの夜というわけだけど、羽田から長崎空港へ飛び、土曜日には「女の都」へ小紋潤の顔を見に行く。およそ35年ぶりである。

 なにか持っていかなくちゃなるめい、と考えたが、酒の類はだめだろう。それと、喉の手術後で固形物は呑み込めないらしい。

 というようなわけで、きのう伊豆地元産の、この季節にしかない、という春もの蜂蜜を買ってきたが、どうもありきたりでおさまりが悪い。
 じゃ、この間つくって割合好評だった庭の夏みかんのマーマレード、はどうだんべか。甘酸っぱい部分だけ舐めててもええし、などと考えて、夜半になってつくりだした。

 ①夜中に庭の夏みかんを2キロ採り入れる。なんだか、“かっぱらい”になった心持ちである。(7、8個、画像左端) 砂糖の量はこの重さに対して40パーセント見当。前回、初トライの際は、ネットレシピに従い三温糖でやったが、色合いが濃すぎる。そこで、今回はグラニュー糖を用いた。
 
 ②黄色い外皮を中の白い皮ごとむいて、適当な大きさに切る。(画像左から2) あまり大きさが揃ってなくてもOK、煮てしまえばわからなくなってしまう。
 
 ③切った外皮をボールに入れ、水を少々加えてよく揉み込む。(画像左から3) 水を満たして、水を切る。これを3回程度繰り返し、しかる後に水をひたひたに張ったまま、数時間から一晩程度ほおっておく。煮立ててアクを抜く代わりがこれ。ただし、やりすぎると味も素っ気もなくなってしまうという。
 
 ④実の部分の薄皮とタネをはずす。(画像左から4) つまり実と果汁になるが、そいつを別のボールに入れ、水にさらしてある外皮をぎゅうっとしぼって、両者を合体させる。薄皮は完全にとれなくてもよい。クンちゃんちのみかんは粒が小さくて面倒なので、普通とは逆に各袋の背中に包丁を入れて剥き、種をどかして実をこそぎとっている。
 
 ⑤外皮、実、果汁を一緒にしたものは水分がそんなに多くない。1、2時間置くと水分が出てきてちょうど良い、というのだが、これがなかなか出てこない。この度は一晩置いたが、たいした変わりはなかった。そこで、クンちゃんちのように、いくらでもみかんがなっている場合は、それを何個か採ってきて果汁をしぼって追加するとよい。ない場合はほんの弱火でこそこそ煮るしかないかもね。間違っても水で増やしてごまかさんほうが味わい深いぜよ。
 
 ⑥外皮、実、果汁をボールに入れて弱火にて煮はじめる。(画像右から2) かなりこげつきやすいので注意。外の皮が柔らかくなれば、砂糖を所定量あるいはいくらか下回った量を二、三度に分けて入れ、てりが出てくるまでヘラでかきまわしつつ煮あげる。この段階は徹底的にこげつきやすいので、厳重注意! ちょっとでもこげつくと、ヘラでかきまわしているうちに黒いこげつきの残骸がしつこくあらわれてくるので、これをまたまたしつこく取り除かねばならない。これはほんまに難儀でっせ!
 
 ⑦こんなもんかねえ、という程度に煮詰まってきたら出来上がり。(画像右端) 冷えると、煮ているときよりかなり固まってくるので、煮すぎると水分が激減し硬い食感となるので、この点も注意を要する。

 つうわけで、やっとこさ完成したのだが、出来栄えや如何に。

 ところが、完成後、びん詰めにする段階でつらつら考えて気が付いたのは、大酒呑みの小紋潤なのだから糖尿の気配もあるかもしれんな、ということ。
 その場合は、両方ともNG!ということになるが、そうなればなったでしゃあないわな! あちゃあ、とでも言っとくか。(で、長期に常温で保存するための、えらく面倒なびん詰め工程はこの度ははぶくことにしてしまったのでR)

 さて、どうなりますか。
 
 長崎、諫早、島原、熊本→羽田→埼玉→伊豆という旅程です。帰ってきたら報告いたします。 

小紋潤さんのこと

2016年09月30日 14時20分07秒 | 小紋潤さんのこと
過去記事
2016-03-26
22:47:18
  「女の都」にいる歌人小紋潤
    (インターネットのある暮らし)


 近々、九州にある「女の都」という、楽しげな、というか、恐ろしげな、というか、そういうところへ飛んで行く次第となった。その経緯は次のとおりである。
 
 クンちゃん人には女房がひとりおって、つい先日、「JALのポイントが貯まり過ぎてて、どんどん無効になっている。どこへでもタダで行かれるから、好きなところへ行ってきなさいよ」と、のたもう。

 ところが、最近の私に、行きたいところは、ない。

 なぜか…というと、ここ数年のことなのだが、どこそこへ行って、なになにを見て、どんなもんを食って、あれこれを買って、とかいう、ふつうの人なら「旅の楽しみ」にあたることを考えるのが大っきらいな性質に変わってきてしまったからだ。(昨年の今頃は、ラオスの奥地へ10日ほど行ったが、これは主催者である畏友の研究者グループに入れてもらって、その指図に従ってただついてまわる方式だったので参加したのだ。)
     http://blog.goo.ne.jp/92freeedition44/e/8c14e1388b5a22d35bc156f732fc8a7a
 せっかくの古女房の勧めに対して即座に「No!」と答えたことに呆れ果てたのか、かの女は「会いたい人なんてのもいないんだねえ」と、心底気の毒そうにつぶやいている。

 そこで、しばらくぼーっと、またぽつねんと考えていたら、「そう言えば、小紋潤には3、40年会ってないなあ、どうしてるか。大酒呑みで、大タバコ吸い、のやつだったから、もう亡くなってるかもしれんなあ」という思いが、いずこからかふらふらっと立ちのぼってきた。

 小紋潤、というのは、古ーい友人である。学校が全学バリケード封鎖されている時代に知り合って、2、3年の間、とても親しく付き合った。私の実家にも泊まりに来たし、彼が三鷹のアパートを出た後に私が不動産屋抜きで入った。ところが、4年生になるころには彼は学校から姿を消してしまっていて、消息も絶えてしまった。だから、おそらく“横に出た口”なのだろう、と推察している。
 その後、再会したのは今から数えると35年も前になる。当時、旧浦和市役所内の記者クラブに詰めていた私に、突然、電話がかかってきて、池袋東口で会った。10年ぶりぐらいだった。私の姓が沖縄風なので彼は私を沖縄出身だと思い込んでいたのか、琉球舞踊などのアトラクションがあり、女性が横に座る高級そうな店に連れていってくれた。琉球泡盛で痛飲した。いまなにをやっているのか、というような話題は出たのか出なかったのか、まったく記憶にない。
 翌朝、目が覚めると荻窪と西荻窪の中間あたりの杉並区宮前の彼のねぐらだった。痛む頭と吐き気を抱えて起きだすと、自費出版らしい歌集が部屋中に積み上げられている。タイトルは忘れてしまったが、小紋潤歌集、とあった。その私家版歌集を何冊か持っていけ、と言うのをむげに断り(非道い!)、出勤するために外へ出たら、そこはプロテスタントの教会の横っちょにあるアパートで、教会の案内板を見るとそこのM牧師はなんと私の高校時代の同級生の父上だった。びっくりしたね、まったく、ホンマに。

 というようなわけで、いまになって長崎出身、カトリックの神学校を“横に出て上京”ということしかわからない小紋潤を探すことになった。
 ところが、ところがである。インターネット時代の光なのか影なのか、にわかに判別しがたいが、意外と簡単に彼の所在をつかむことができた、というか、つかむことが“できちゃった”のである。

 まず、Yahoo検索で「小紋潤」とやってみたら、案に相違して(こういう場合に使うのかどうか?!)たちまち関連記事が出てきた。
 
      http://blog.goo.ne.jp/yukitsuna/e/b15bc6bff18dca7ed96a6192567b3f7f


 歌集「サラダ記念日」で有名な俵万智さんの師でもある早稲田の佐佐木幸綱先生(いまは名誉教授。うちの弟は先生の講義を受けたはず)のブログ「ほろ酔い日記」だった。そこに、かなり古くなった小紋潤がいた。服装は50年前とまったく同じトーンである。まさか、同じものではないだろうけどね。杖をついているというのは、脳梗塞のようなものを患ったのかどうか。
 この幸綱先生ブログから、竹柏会「心の花」という先生の父上・佐佐木信綱時代から続く伝統雑誌のサイトに入っていったところ、小紋潤が「心の花」の歌人に列せられていることがわかった。短歌の門外漢で啖呵専門である私は、小紋潤がかの柳原白蓮(あの「アンと花子」にも出てきたよね)も名を連ねた短歌グループの同人として、ひとかどの歌人になっていることなど知りようもなかった。

 そこで、とりあえず心の花編集部にあまり期待せずにメールで問い合わせてみた。
 そうしたら、編集部の方が親切にも調べてくれたのであろう、何日かたって二度にわたり回答が来た。本日現在、小紋潤は長崎近郊の「女の都」(めのと)という地区にある療養施設におり、喉の手術の予後を養っていることがわかった。

 以下が私から編集部に送信したお礼のメールである。

*********

 心の花編集部御中

 重ねてのご連絡、感謝に堪えません。ありがとうございます。

 先にお知らせくださった電話番号は呼び出しはするものの、つながりませんでした。(廃止になっていないので、生きている、と思いました。)
 そこで、住所をグーグルアースで見てみましたら、浦上天主堂にほど近い、なにかタバコとか飲料などを商うお店が1階にある年季の入った「***マンション」というビルの画像が出てまいりました。
 その2階手すりに賃貸客向けの不動産屋の広告板がかかっていましたので、そこに電話して「1階の大家さん、小紋**さん」の電話番号を教えてもらいました。おそらく、身内の方でありましょう。(ここで追跡を中断)

「**さん」のところへいまから電話しようと思ってパソコンを立ち上げると、御編集部から再度のご連絡をいただいていることがわかりました。
 なんか、彼らしくはあるが、療養施設らしからぬ施設の名前にコンワクしつつ検索してみると、「女の都」は「めのと」で、地名でありました(笑)。
 彼の様子は、ご連絡にてわかりましたので、来週あたり出かけてみようと思っています。(中略)

 ところで、貴会の同人のお方のものか、「竹の子日記」 というブログ  http://takenokonikki520.blog77.fc2.com/blog-entry-24.html
の2011年6月27日の記事に、次のようなくだりがあり、いまさらながら時の流れを感じました。

    「短歌往来」7月号の 大口玲子さんの「逃げる」30首の中に次の歌を見つけてびっくり。

    ・小紋潤ちひさくなりて行儀よく煙草吸ひつつ肉焼きくるる

 焼肉屋での歌なのでしょうか、この歌を見まして、50年近く前の或る出来事を思い出しました。
 理工学部キャンパスから近い新宿区西大久保の小紋潤の下宿、屋根裏の安下宿でしたが、うまい長崎の味噌汁を食わせるから来い、というので何人かの貧乏仲間でご馳走になりに行きました。「うまいだろう!」と鯖の味噌汁が出てきたのですが、これがうまいどころか、生臭くてなんともまずいのです。一同、沈黙。やがて、それを口にした当の本人も「まずい!」とひとこと。長崎の生きのいい鯖と、東京のスーパーの鯖との違いと判明しました。なお、小紋潤は当時カネがないときは「しんせい」を吸っており、ほぼ年中それを吸っておりました。古いひきだしを引き出すようにそんなことを突然思い出しました。

 お名前も存じませんが、編集部の貴方様には大変お手数をおかけいたしました。
 本当にありがとうございました。
 貴会のますますのご発展を祈念いたしております。
 (いろいろと余談を書いてしまって恐縮しています。)

*********

 つう訳で、近々、長崎に行って参ります。
 では、また!

ギョーテとはおれのことかとゲーテ言い!

2016年09月30日 13時53分07秒 | 読書の楽しみ、読書の...
過去記事
2016-09-28 12:26:51

         STEPHENってスティーヴンだったんかい!
            知らないことだらけのクンちゃんでした!


    

 けさ、夕方の散歩をさぼるとあらわれる症状、午前3時半ごろに目が覚めてしまう、にまたまた見舞われました。
 で、テーブルの上のコップに「喜界島黒糖焼酎」がかなり呑み残してあるのに気付いてちびちびそれを舐める。そして、クンちゃんブログの店仕舞いもさることながら、今後の身の振り方をどうしたもんじゃろうなぁ、などと考えていました。

 ふと見ると、読みさしの文庫本に「STEPHEN  KING」とあります。
 
 STEPHEN  んっ? ステファン? ステファン・キング

 クンちゃん人はまぎれもないスティーヴン・キングの愛読者であり、何十冊と読んでいるのですが、STEPHEN に気が付いたのはけさが初めてでした。

 実は、「佐々木譲」の愛読者でもあったんですが、あるとき「佐々木敏『ゲノムの箱舟』」というのを買ってしまい、三分の一ぐらいまで「譲」のつもりで読んでしまったうえに、難解な科学技術系の著述内容に「なんという博識な男だろう」などと感心していたことがあるのです。

 それで、一瞬、スティーヴン・キングと間違えて、ステファン・キングというやつを買ってしまったのか、とドキッとしましたが、カタカナでは確かに「スティーヴン・キング」とあります。

 うーん、つまり英語ではSTEPHEN と書いて、日本語表記ではスティーヴンと読み書きするのかい、と感心した次第です。(なんとなく納得以前ですが、面倒なので調べないことにしましょう。あるいは人名は一般読みと多少違う、例えば出身国の相違などによって、とも考えましたが、そういうことに決まってるってことで、ムリに納得することにしました。)

 それはそれとして、昔から外来語の表記はなかなか難しかったようです。
 ギョーテとはおれのことかとゲーテ言い、というのを中学校の数学の時間の余談で聞き、そういう川柳があるってことでしたが、どうもよくわからない。

 東京ゲーテ会館のHP http://goethe.jp/Q_and_A/q_goethetowaorenokotoka.html を見たら、次のような記事がありました。

「ちなみに、言語学者の矢崎源九郎は、『日本の外来語』(1964年、岩波書店)のなかで、次のように書いていますが、出典は挙げてはいません。
 表記の上ではゴエテ、ギューテ、ギェーテ、ギューテ、ギョート、ギョーツ、ゲーテ、ギュエテ、ゲォエテ、ゴアタ、グウィーテ、ゲヱテー、ゲーテー、ゲェテー、ギョウテ、ギヨーテ、ギョーテ、ギョーテー、ギヨテー、ゴエテ、ギョテ、ギヨヲテ、ギヨオテ、ゲョーテ、ゲヨーテ、ゴエテー、ゲエテ、ギヨエテ、ゲイテ、ギョエテ、と、じつに二十九通りの書き方があるという。「ギョーテとは俺のことかとゲーテ言い」という、斎藤緑雨の川柳すらも生まれているほどである。(170ページ) 」

 結論、いずれもどうもよくわかりません!

大塚一男先生を偲ぶ会のこと

2016年09月30日 13時46分43秒 | コト殺人事件と坂本せいいちさんのこと
過去記事
2012-02-01
21:22:54


                                   (写真=駿河銀行提供)

  “絶不調”の中で
  

 身も心も不調なる2012年の年明け、となったクンちゃんですが、これは年齢のせいもあってか、きりがないと言えばきりがないですなあ。
 かといって、そういつまでもうだうだしてられんわ、というわけです。

 この間、来る2月14日に予定されている例の栗田工業・野崎―藤野ちかん裁判(本訴のほう。横浜地裁)の本人尋問、証人尋問に向けて、クンちゃんは蚊帳の外ではあるが、少しく自分の考えをまとめてみようと資料にあたっていました。
 栗田工業と藤野宏・前会長が本訴に先だって求めていた出版禁止の仮処分については、昨年12月に「保全の必要なし」として却下されていますが、本訴は本訴ですので、野崎サイドはこの尋問に向けて全力投球ということになるでしょう。
 しかし、思うにつけ、いわば藤野氏の個人的な憤激というものを、会社の名前を使って発散させようとするかのようなこの栗田提訴は“濫訴”と言って差し支えないのではないか。このような意味のない提訴、何か訴える利益があるんかいな、というこの栗田提訴に対し、裁判所がどう決着をつけるのか、さらに注目していきたいと思います。


 ところで、年賀も欠礼、来信やメールにも返事無しという失礼状態でしたが、前記資料あたりの中で、読む暇がなくてほっといた本が出てきたので、それをやっと読むことができました。
 『誰がコトを殺したか』(文芸社 2009)の編集中に、松川事件二審、仙台高裁の所謂“確信判決”を出した鈴木禎次郎判事(予審判事時代にコト殺人事件を担当)を調べていくなかで入手した、

 橘かがり『判事の家』(ランダムハウス講談社 2008) という単行本です。

 橘さんは、全員無罪で決着した松川事件の第一次上告審(大法廷)と差し戻し上告審の両方に携わった下飯坂潤夫最高裁判事の孫にあたるといいます。下飯坂判事は強硬な有罪論者で知られた人でした。

 よくこのような内容を公開したな、というプロットではありますが、編集者に恵まれなかったのかなあ、というのが読後感として残りました。私小説ふうな筆致で、この判事の家が崩壊していく有様を、事件関係者への取材を交えて赤裸々に描いているのですが、事件の部分については他の著作の転載だけが目立って、もうちょっとなんとかならなかったのかいな、という生焼け感が残りました。

 それはそうと、読んでいて、思わずニヤッとしちゃたところがありました。
 
 ――亜里沙(註・作中主人公の名前)が集め、書き留めた、祖父と松川事件に関する資料は、かなりの枚数になっていた。亜里沙は事件の元被告を訪ね、松川事件研究の第一人者である福島大学の伊部教授の許をも、度々訪れた。
   主任弁護人だったO氏には取材を断られたが、それ以外は、「敵役」ともいえる判事の身内にしては、驚くほど皆が温かく接してくれた云々――(202頁9行以下)

 O氏とは、クンちゃんブログ 
  http://blog.goo.ne.jp/92freeedition44/e/b584aeba7db6c434ff39cf288888075b で、訃報とともに駄文を献じた大塚一男先生です。
 なぜ、このような経緯になったのかはもちろん推測できませんし、なぜ自分がニヤッとしたのかもわからないのですが…、とにかくニヤッとしてしまったのでした。


 そう言えば、大塚一男先生を偲ぶ会(正しい名称を失念!)が本年桜の花の咲くころにおこなわれる運びとなり、追悼文集も刊行される、とのお知らせをいただき、恐縮してお返事も出さないままになっています。
 松川事件関係をはじめ、大塚先生を大切に思う方たちがたくさんお集まりになる会であるので、クンちゃんごときは列する立場ではないのです。
 しかし、多少なりともお役にたてれば幸いと思い、もし必要なら追悼文集の校閲でもさせていただきます、と昨秋、A先生にお話をするにはしていますが、大きな法律事務所の方々もおられるので、適任の方はたくさんおられるものと思います。

 さて、そんなこんなで大塚先生に思いを巡らせていましたら、以下のようなブログを発見しましたので、ご覧いただきたいと思います。長野県飯山市の小学校同級のお方とのことです。とてもお元気な方のようです。(大塚先生が飯山のご出身とは知りませんで…。クンちゃんは、飯山の隣の木島平村には足しげく通っておりまして、飯山はよーく知っています。ことしは、えらい雪のようです。)

   http://blog.goo.ne.jp/goo2023/e/6fa880a4d89c7892d0651f6e21d46f5e
  


 
 

弁護士・大塚一男先生のこと

2016年09月30日 13時42分29秒 | コト殺人事件と坂本せいいちさんのこと
過去記事
2011-09-04
13:31:53
               追悼  大塚一男先生


 弁護士の大塚一男先生が亡くなられた。86歳

 今朝、いつも眺めることのない新聞の訃報欄をふと見て、ハッとなった。
 松川事件(テキストの一例として、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B7%9D%E4%BA%8B%E4%BB%B6)の主任弁護人を務めた大塚一男先生が亡くなられたことが報じられていたからである。
  http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110904k0000m040037000c.html (ネットの毎日新聞報)
 大塚先生には、結局、一度もお会いできなかったが、そのご厚情にあずかった者として、心より哀悼と感謝の意を表すものである。

 いまから書くことは、具体的な日付等は失念してしまっているので、その点はお許し願いたい。

 文芸社刊『誰がコトを殺したか』(坂本せいいち著) 「本屋に並ぶ私家版」の記事ご参照。こちらをクリック の原稿を書き直しつつ編集している時期、コト殺人事件(昭和11年、青森県五所川原で発生)の予審判事だった「鈴木禎次郎」という人の実像を知りたいと思うようになった。
 あるとき、国会図書館新聞閲覧室で古い新聞をひっくりかえしているうち、鈴木氏は仙台高裁判事時代にあの有名な「松川事件」控訴審を手がけていることがわかった。
 松川事件控訴審判決は「確信をもって言い渡す」と余計な文言が入っているので「確信判決」などと称されるが、大誤判としても有名になっている。

 その関係で鈴木氏周辺を洗っていくと、大塚一男先生の『最高裁調査官報告書 松川事件にみる心証の軌跡』(1986年筑摩書房刊)という本に行きあたった。
 クンちゃんが目をひんむいたのは、控訴審判決の直前に入廷する鈴木裁判長について、同書が「笑顔を見せつつ入廷した」と記していることだった。
 一審より死刑を言い渡される者の数は減ったが、四人の被告人に死刑を言い渡すことになる直前、いわばニヤニヤしながら法廷に入ってくる裁判長ってのはいったいどんなやつなんだろう、という疑問がふくらんだ。こういうやつなら、もっと若造の予審判事時代にはろくなことがなかったんじゃないか、という憶測でもある。

 そこで、大塚先生が所属する「自由法曹団」に電話をして、応対に出た事務局の女性に先生の連絡先を教えてくれるよう頼んだ。クンちゃんの長い経験では、こんなとき、応対に出る人はだいたいこちらの用件のすべてを細部まであれこれ質したのち、それはできませんね、とか答えるのが多い。(ふざけんな、おまいに用があるわけじゃないんだよ!というのが多い。)
 ところが、あれこれ要らんことを聞かずともこちらの意を了解した事務局の森脇圭子女史(退職)は、折り返しで、先生の連絡先を教えてくださったうえ、松川関係のエッセンスである資料をも送ってくださった。
 このような経緯で大塚先生に連絡がつき、折りいって短時間ご面談をお願いしたいとの趣旨を伝えると、折りいらんでいいからどんな用か言いなさい、という単純明快なお答え。

 そこで、控訴審判決当日の鈴木裁判長の描写の確認と、先生著作の関係記事を『誰がコトを殺したか』に転載したい旨伝えると、「私がこの目で見て書いてんだから、大丈夫だよ」とおっしゃり、転載については「運動が前進することを願っていますよ。好きに使ってください」というありがたいお言葉であった。

 そののち、何回か手紙のやり取りをしたが、結局お会いすることもかなわず、完成した『誰がコトを殺したか』をお送りしたことに対するお礼の葉書をいただいたのが最後になってしまった。

 このような経緯で、『誰がコトを殺したか』の巻末資料として、前記筑摩書房刊本の記事と、あとでわざわざ郵送してくださった「得意絶頂の鈴木判事とその心理」と題する先生著『私記 松川事件弁護団史』(1989年日本評論社刊)の関連記事が収録されたのである。
 
 いまは天上で憩うておられる先生を偲んで、思い出を記した。



   追記・9月8日朝、前日に東京都三鷹市内でおこなわれた大塚先生のご葬儀について、参列したおひとりから、次のご報告をメールでいただきました。


          昨日、大塚先生の告別式でした。
          お好きだった歌「ふるさと」が流れる中、
          お花にあふれ、
          お孫さんの「じいじい、だいすき」と書かれた手紙が棺に入り、
          優しいお顔で逝かれました。

          お経の無いお葬式もよいものだとおもいました。