消えゆく霧のごとく(クンちゃん山荘ほっちゃれ日記)   ほっちゃれ、とは、ほっちゃれ!

きらきら輝く相模湾。はるか東には房総半島の黒い連なり。同じようでいて、毎日変わる景色。きょうも穏やかな日でありますよう。

コト殺人事件、義父の汚名を雪がん!

2018年06月16日 19時55分28秒 | コト殺人事件と坂本せいいちさんのこと
  血のつながらぬ義父の冤罪
  一生かけて汚名晴らさん!
  坂本さんの闘いはつづく!


   

 昭和初期の古い殺人事件(青森県五所川原・コト殺人事件)は冤罪だ! として、長期にわたって世論に訴えている坂本せいいちさん(仙台市在住)のことを、おらのブログで何回か書いてきました。
  その記事のひとつはこちら

 しかし、だいぶ時間が経って、単なる過去記事のひとつになっていきました。
 ところが最近gooブログ編集ページ「リアルタイム解析」のアクセス履歴を見て、首を傾げていたのです。一週間ばかり前から同記事へのアクセスが“異常”に増えていることに気がついたからです。

 そうしたところ、一昨日になって「こびす」さんというお方から同記事へコメントをいただき、アクセス増の理由がわかりました。
 この天候の悪い時期に、坂本さんがまたまた上京して、東京霞ヶ関の東京地裁・高裁前でビラ配りをやっているのです。
 そのビラを見た人たちがネット検索でおらの記事にたどり着いていたのでしょう。

 こびすさんのコメントとおらの返コメを、一部再録してみます。

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司法制度の問題 (こびす)
2018-06-14 11:24:09
昨日、東京裁判所前でビラをいただきました。何時もの批判ビラと違い切々と訴えた文面に感動しました。
昭和11年の事件ですから再審は難しかったのでしょう。
でも、坂本さんの訴えは今も無くならない冤罪事件への警鐘として価値あると思います。
私の母は選挙違反犯罪者としてひどい取り調べを受けました。
拷問は有りませんが、罵声、嫌がらせ等人権蹂躙甚だしく、母は言われるままに自白しようと思ったそうです。一番辛かったのは教え子に対する脅迫だったそうです
選挙違反でさえ無罪の母が酷い仕打ちを受けたのですから殺人事件ともなれば刑事の綿密なでっち上げの生贄になることは明らかです。
私は本人訴訟で民事事件で奔走していますが裁判官のいい加減さに腹が立ちます。
こちらは一生懸命に準備書面を作るわけですが裁判官は斜め読み程度である事が弁論準備の席上でわかりました。
重要な証拠を読んでいないのです。指摘したら、そうでしたかだって。
弁論準備と称した場で和解に持っていこうという魂胆がありありでした。

準備書面のちょっと気になる箇所だけ読んで、心証を構成し、判決文を作ってしまう。
これが現実でしょう。
違法金銭を争う事件なのに、この程度の金額は容認できるとした女性裁判官がいました。
個人の生活感覚で判決したのです。
控訴審で簡単にひっくり返りました。(以下略)

おどろき、です! (izukun)
2018-06-14 21:25:32
こびすさま
コメント、ありがとうございました。
思わず投稿くださった日付を確認してしまいました!
きのう現在、坂本さんはまた軽トラックで上京し、ビラ配布をしているんですね。
夜はどこかの埠頭で仮泊しているものと思います。
しかし、すごい!

近々、関連原稿をupしたいと思います。
わざわざご連絡ありがとうございました。
感謝であります。

 ***************

 びっくりしたのは、高齢に達した坂本さんの“執念”ともいうべき意気込みなんですが、もうひとつの偶然にも驚かされました。

 というのは、こびすさんのコメント投稿があったのは、2018-06-14 11:24:09 でした。
 そして、おらが「腐れパソコンの結末! USBメモリにおさまる!」という記事を投稿したのは、同じく2018年06月14日 11時16分15秒 だったのです。
 極めて接近した時刻に相次いで、坂本さん関係がロードアップされていたのです。

 なんで、腐れパソコンと関係があるんにゃ?

 というのは、古い半分壊れたパソコンから取り出されたデータは、「魔切り」というタイトルのおらが初めて書いた小説の原稿データだったのです。
 9年も前になるでしょうか、坂本さんの著書を出した後、おらは得意のいい加減さで「そのうち、コト殺人事件がらみの小説を書いて、世論に訴える」と坂本さんに約束したのでした。その後、「魔切り」というタイトルの小説を一応書き上げたものの、そのままになっていました。「魔切り」は、犯行に使われたことになっている、未発見の刃物の名称です。

 魔切りのデータは長い間古いノートパソコンの中で眠っていました。
 ところが、或る動機からおらはこの2月以降、別の小説のようなものを書き始め、原稿用紙500枚を4月末日になんとか書き上げました。
 そんなことがおらには刺激となって、書き上げたままになっている「魔切り」のデータを探し始めたのです。

 そのデータ復元の記事アップとこびすさんのコメントが重なったことに、何か不思議な因縁を感じ、いま「魔切り」をなんとかしたいと本気で考えているおらなのです。

 こびすさん、ありがとうございました。



コメント

坂本せいいちさんのビラ、コト殺人事件

2017年09月06日 22時50分53秒 | コト殺人事件と坂本せいいちさんのこと
 先日、書きました、コト殺人事件の冤罪を主張する仙台市の坂本せいいちさんのビラ!
   「先だっての記事はこちら
 いつまでも放っておくわけにはいかず、きょう昼頃までに何とか仕上げて印刷所へ送信しました。下に参考までに掲載しました。
 多少なりとも当時の情勢を皆さまにお伝え出来れば幸いです。

    ************************

  昭和十一年、青森県五所川原で起きたコト殺人事件は冤罪です!

 私は、強盗殺人犯の濡れ衣を着せられたまま死んだ義父坂本由太郎に代わり、真犯人金順慶(通名・金森正男)を追い詰め、犯行を自白させました。しかし、8回に及ぶ再審請求はすべて却下され、汚名を国に突き返すことは不可能となりました。直接の関係者はすでに死に絶え、司法的決着はついてしまった格好ですが、このような明白な冤罪事件に関しては、現在の司法機関にも少なくとも道義的責任はあるのではないでしょうか。(文中敬称略)

        私はみなさんに知ってほしいのです。

   こんな理不尽な冤罪事件が、この日本にあったことを!

 コト殺人事件とは 二・二六事件が起きた昭和十一年(一九三六)の七月二十一日午前二時、当時の青森県五所川原町、岩木川にかかる乾橋のたもとで飲食店を開いていた若い女将相馬コトが自宅寝室で幼児と就寝中に殺害された。盗まれたものなどまったくなかったにもかかわらず、強盗殺人事件として取り扱われた。
 コトの周辺にいた多数の人物がほぼ一斉に検束され過酷な取調べを受けたが、当時、酒類の配達を生業とし、仕事上コト方にもしばしば出入りしていた伊藤由太郎(のちに仮釈放された由太郎は、昭和三十四年、私の母坂本スナと結婚し坂本姓となる。私の実父は病死していた) は拷問につぐ拷問の中で犯人に仕立て上げられてしまう。凶器とされる「マキリ」も発見されぬまま、無期懲役の大審院、現在の最高裁の判決が確定する。由太郎は歯軋りしながら十二年超の服役に耐え、昭和二十三年、ようやく仮釈放で秋田刑務所を出る。
 その後、由太郎、スナ、私せいいちの三人は、再審請求と併せ、この冤罪事件の真犯人を追い続けることを生涯の目的と定める。やがて私は、当時コトの飲食店の常連客だった金順慶(通名金森正男)の自白を得ることに成功する。また、この事件を予審判事として扱った、有名な松川事件控訴審・仙台高裁での誤判裁判官鈴木禎次郎にも仙台の自宅にて面談し、いったんは謝罪の言葉を引き出すことが出来た。
 ところが、東京高裁は私どもの再審請求に対し、まともな審査をおこなおうとせず、結局、再審の扉が開くことはなかった。
 この間、現テレビ朝日の前身、NETテレビの「奈良和モーニングショー」特番で詳しく取り上げられることもあった。しかし、生涯にわたって保護観察をつけられ選挙権さえ行使できなかった由太郎は昭和五十八年に死去、冤罪を訴えて仙台の街角に立ち続けた母スナも平成十年に世を去った。由太郎の最高最大の理解者であり、大恩人の元秋田刑務所看守で後に副検事となった佐藤正毅も今はいない。私も由太郎と親子縁組をしていなかったため再審請求権を継承できなかった。
 一方、私どもの人権救済申立てに応じて日本弁護士連合会人権擁護委員会は、平成二十一年十二月、「再審請求支援をおこなうか否か検討する」と回答。翌年九月には、「当委員会にて調査をおこなう」旨の、この種事件としては異例の決定を通知してきたが、残念ながら沙汰止みとなってしまった。司法的手続きはすべて結了したことになったのである。

 しかし、「真実はどこまで行っても真実である」という当たり前の観点から、私坂本せいいちは、生きている限り最高検察庁、最高裁判所その他の司法機関、捜査機関の明白な責任を追及し、謝罪を求め続けてゆく所存であります!

 取調べは拷問につぐ拷問 由太郎に対する取調べは、「取調べ」などと呼ぶのもおこがましい拷問そのものだった。町の公会堂に留置された由太郎は、六、七人の刑事から文字どおり“不眠不休”で攻め続けられた。
 耳元で大声で怒鳴りつける。「お前が殺したんだろう。」「凶器の刃物はどうした。」「この地下足袋に見覚えがないか。」
 やったと言うまで、「殴る」「蹴る」「竹刀で叩きのめす」。柔道の技をかけて投げ飛ばす。顔も身体も青ぶくれに腫れあがった由太郎は、耐えがたい苦しみの中でのたうち回った。
 また、岩木川の土手にも無残に連れ出された。夏場の川べり、ヤブ蚊が群れをなしている。そこに裸で放り出された。こうして、無理矢理、自供に追い込まれていく。

 再審への執念 敗戦後の昭和二十三年に仮釈放された由太郎は、濡れ衣を着せられた怒りと共に地元北津軽郡鶴田町に帰り、赤貧の中で無実を証明づけるための証拠を探し続けた。しばしば、事件現場である五所川原に出かけて行き、それこそ一軒一軒虱潰しに訪ねては目撃者を探した。
 由太郎は何を探していたのか? 真犯人は犯行当夜、コトを刃物で刺し、返り血を浴びたまま逃走した。地下足袋の足跡が残っていた。この凄惨な真犯人の姿を誰か目撃した人がいないか。それを探し続けた。

 事件当夜の目撃 事件から五十年近くたった昭和五十八年になって、五所川原の高木誠三(仮名)という人物が次のような趣旨を証言した。
 事件当時高校生だった誠三が、コトが殺された夜、自分の家の間借り人であった金順慶、通名金森正男が、シャツの胸に大きな血痕を付け、地下足袋をはいた姿で帰ってきたのを見た。しかし、翌朝、親から「何も言うな、関わり合いになるな」と口止めされ、長い間黙っていた。すまないことをした、と。
 事件当時、コトの店の常連だったこの金森正男もまた、多数の被拘引者のひとりとして身柄を拘束されたが、しらを切り通したのだろう、拷問されたひどい姿ではあったがとにかく帰って来られた。誠三の目撃は、誠三の胸に深く仕舞い込まれ、表に出なかったからだ。かつて由太郎が事件当時の警察幹部を歴訪して捜査線上に浮かんだ人たちのことを尋ね、金森の放免についても詰問したことがあるが、その答えは、「当時、金森のアリバイを彼の同胞たちが強く証言し、それを突き崩せなかった」というものだった。

 連れションの後の口止め 誠三はまたこんなことを明らかにした。敗戦後、東京に行くことがあった。この時、上野駅構内の公衆便所で、なんと隣り合わせて小用を足していたのが金森正男。事件後、五所川原を去り、公訴時効十五年を意識してか長い間雲隠れしていた金森がそこにいたのだ。誠三はあまりの偶然に口をあんぐり、金森の側も肝をつぶして恐怖に震え上がったのではないだろうか。
 その証拠に、かつての夜、自分を目撃したことや、ここ上野駅の便所で出会ったことは誰にも言わないでくれと頼み、口止め料のつもりか誠三に当時の金で五円を差し出し、誠三はこれを受け取っている。当時の五円は価値があった。

 北海道で金森と対決 ところで時期は前後するが、由太郎は服役中のある日、とんでもないことを思い出した。それは事件当日の昼間、近郊の祭礼へコトが出店した飲食店を手伝った際、同じく古着の店を出していた金森が、犯人の足跡とされた地下足袋と同じものを履いていたことだ。突然、映像として脳裏に浮かんだという。そして、金森こそ真犯人、との確信に至る。
 仮釈放後、その金森の行方を突き止め、北海道室蘭市輪西町七条仲通りで古着屋を営んでいた金森方に行き、直接対決したこともある。昭和三十一年秋、数少ない理解者のひとりだった東奥日報記者・木村修一郎が書いた記事がきっかけで読者から情報が寄せられたのだ。新聞社の旅費負担で室蘭に渡った由太郎は、木村とともに金森と対面し、「お前がコトを殺した真犯人だ」と強く追及したが、結局このときは、のらりくらりと逃げ口上を述べる金森の首根っこを押さえることは出来なかった。

 金森が間借りしていた部屋の床下から刃物発見 昭和五十八年七月二十一日、奇しくもコトが殺されたのと同じ日に、高木誠三宅の解体・新築の途次、かつて金森が間借りしていた部屋の床下から劣化した刃物が発見されるという衝撃的な出来事があった。先に述べた誠三の告白は、実はこの刃物発見という動かぬ事実に突き動かされたもので、これ以上沈黙は許されないという魂の告白だったのだ。
 これより先、由太郎は、事件当時この部屋で金森と同居していた女性きよから事情を聴き取ることが出来ていた。きよの説明では、事件当夜、金森は押し入れの床板をはがし、穴を掘って何か刃物のようなものを地面に埋め、掘り返した土をかぶせていた、というのだ。
 これを聞いた由太郎は再三、高木家に床下の掘削を懇願した結果、由太郎の亡くなった年の夏、念願の証拠物が姿をあらわした。読売新聞はこの出来事を大々的に特報し、時ならぬ新聞、通信社、テレビ各局の取材合戦が繰り広げられた。
 現在であれば、おそらく朽ち果てる寸前の発掘刃物からでも、コトの血液やDNA等は検出可能なのではないかと思うのだが、結局決め手となる新証拠にはなり得ぬままに散逸してしまった。残念、無念である。

 微動だにしない再審の門 私どもは、由太郎の無実・無罪を確信していたが、弁護士がいない。費用もない。自分たちだけで、再審を請求する以外に道はなかった。
 東京高裁に対する再審請求申立は、平成十九年までに七回に及んだが、まともに扱ってもらったという実感は微塵もない。
 とりわけ異様な印象が強いのは、東京高裁・船田三雄裁判長。船田は東京からわざわざふたりの書記官であるか事務官であるか、を伴って仙台高裁に出張してきた。そうして、私どもの請求申立の理由、事実関係をたったの一言も発言させず、問答無用、黙れと遮断し、東京に帰ってしまった。いったいなんのために仙台まで来たのか、いまだに苦い思いにとらわれる。
 この船田の後に続いた東京高裁の裁判官で私どもの訴えに耳を傾けた者は、結局一人もいない。古い供述を読み飛ばし、一枚の紙に何行かの棄却文言を入れ、自己の立場を補強する検察の意向を付け足して、私どもに投げつけ門前払いにした。

 これだけいい加減な捜査ででっちあげられた事件、恣意的捜査にただただ乗っかって無期判決を言い渡し、確定させた事件、コト殺人事件判決は稀に見る誤判と言うべきである。
 決定的な証拠はない、凶器も出ない、拷問によって搾り出された自供だけがあるに過ぎない。

 このように決定的な証拠もないのに、警察、検察、裁判所があたかも一体なのだと思わせるほどの連携ぶりで偽りの有罪を確定させたのだ。

 しかも、一人の人間とその家族の人生を大きく狂わせた張本人の裁判所が、自らの誤りを訂正してもらいたいなら、「お前のほうで、新しい証拠を見つけて持って来い!」とふんぞり返っているのは、いったいどのように理解したらいいのだろうか。

        私は叫び続ける、生ある限り!

    (2017年9月記す。参考文献・拙著『誰がコトを殺したか』2009年文芸社刊)






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誰がコトを殺したか!

2017年08月30日 14時00分08秒 | コト殺人事件と坂本せいいちさんのこと
80年前の五所川原コト殺人事件で冤罪を訴える坂本さん!
  くそ暑い中“超難解”のビラ原稿と悪戦苦闘のおら
 


 先月下旬、仙台の坂本せい一 (せい、は「金」へんに、「山」、その下に「斤」の縦棒にちょん) さんから、回り回って1通のお手紙が届いた。
 坂本さんは、古い強盗殺人事件の犯人として服役した人とご自身の母上が再婚したことから、思いがけなく再審請求とかかわり続ける人生を歩んだ方で、『誰がコトを殺したか 青森・五所川原 コト殺人事件、誤判の構造』(2009年1月、文芸社刊)の著者です。
 そして、おらはと言えば、この本をつくった人間。つくった、というのは、単に編集したのではないゾ、という万感迫る思いの用語です。

   

 お手紙には、ビラが1枚同封されていて、もう一度、最高裁判所ほか関係機関の所在地でビラ撒きをやりたいので、内容を見てうまい具合に直してほしい、という趣旨が書かれていました。印刷屋さんに頼んだのではないかな、と思わせる出来あがりでした。
 お手紙に「もう一度」とあるのは、坂本さんは自著が刊行された年、2009年8月にも、東京地裁・高裁前で、おらの作ったビラをひと月近く配り続けました。荷物室のある改造軽トラックで上京、晴海ふ頭に停めたこの車の荷室で寝泊まりしながらでした。夜中に毎夜、パトカーが回ってきて起こされるので往生したといいますが、そのうち警邏隊員と顔なじみになり、「がんばれや!」などと声をかけられることもあったそうです。
 このときの坂本さん、たしかすでに70歳近かったような記憶です。それから、さらに8年たちました。

 再審請求は亡くなった母上がおこなってきましたが、坂本さんと父上は養子縁組をしておらず、もはや再審の請求は出来ません。司法のシステムの中ではいかんともしがたい局面にありながら、坂本さんは訴え続けているのです。

 さて、今回のビラですが、書いてあることは1行1行の水準ではわかるのですが、通して読むとさっぱりわからない! 感情だけがぶつけられている、かつての書籍原稿とまったく同様です。
 このビラを読んで、その中身を理解出来るのは、事件の全体像を熟知する坂本さんと、改稿だけでなく追加の調査やら取材を尽くして件の本をつくったおらのふたりだけです、間違いなく。

 とても、修正程度では済みそうもない感じでしたが、仙台の印刷屋さんに頼んでビラのデータを送信してもらいました。
 送ってくださったのは、PDF文書とテキストですが、PDFは手を加えることが出来ません。編集するには、どうも別途アプリを購入する必要がありそうです。
 で、テキストをワードにコピーして直し始めたのですが、2、3行やってギブアップ!
 そのままほったらかして、迷いネコの対応に追われていました。

 しかし、8月も残り少なくなり、坂本さんも高齢でいつまでもほっておけないので、きのうから再度、改稿に取り組みました。ところが、これまた2、3行でしゃっくりが止まらなくなり、中断してしまいました。

 そんな中で、「誰がコトを殺したか」とネット検索してみたら、驚いたことに前回、8年前の坂本さんのビラ撒きを目にしてご自分のブログに記事をアップされている方がいることを初めて知りました。ちょっと驚き、かなり感激しましたよ!ライブドアブログの「remmikkiのブログ」というサイトでした。 remmikkiのブログ「冤罪コト殺人事件」の記事はこちら

    同じくヒットしたおらの過去記事「追悼 弁護士大塚一男先生」はこちら

 というわけで、あしたにはなんとか目鼻をつけたいと思っております。希望的観測ではありますが…。


 *****おとといの記事の「ゴーヤの種」はこんなふうです。******
                 

 
 
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大塚一男先生を偲ぶ会のこと

2016年09月30日 13時46分43秒 | コト殺人事件と坂本せいいちさんのこと
過去記事
2012-02-01
21:22:54


                                   (写真=駿河銀行提供)

  “絶不調”の中で
  

 身も心も不調なる2012年の年明け、となったクンちゃんですが、これは年齢のせいもあってか、きりがないと言えばきりがないですなあ。
 かといって、そういつまでもうだうだしてられんわ、というわけです。

 この間、来る2月14日に予定されている例の栗田工業・野崎―藤野ちかん裁判(本訴のほう。横浜地裁)の本人尋問、証人尋問に向けて、クンちゃんは蚊帳の外ではあるが、少しく自分の考えをまとめてみようと資料にあたっていました。
 栗田工業と藤野宏・前会長が本訴に先だって求めていた出版禁止の仮処分については、昨年12月に「保全の必要なし」として却下されていますが、本訴は本訴ですので、野崎サイドはこの尋問に向けて全力投球ということになるでしょう。
 しかし、思うにつけ、いわば藤野氏の個人的な憤激というものを、会社の名前を使って発散させようとするかのようなこの栗田提訴は“濫訴”と言って差し支えないのではないか。このような意味のない提訴、何か訴える利益があるんかいな、というこの栗田提訴に対し、裁判所がどう決着をつけるのか、さらに注目していきたいと思います。


 ところで、年賀も欠礼、来信やメールにも返事無しという失礼状態でしたが、前記資料あたりの中で、読む暇がなくてほっといた本が出てきたので、それをやっと読むことができました。
 『誰がコトを殺したか』(文芸社 2009)の編集中に、松川事件二審、仙台高裁の所謂“確信判決”を出した鈴木禎次郎判事(予審判事時代にコト殺人事件を担当)を調べていくなかで入手した、

 橘かがり『判事の家』(ランダムハウス講談社 2008) という単行本です。

 橘さんは、全員無罪で決着した松川事件の第一次上告審(大法廷)と差し戻し上告審の両方に携わった下飯坂潤夫最高裁判事の孫にあたるといいます。下飯坂判事は強硬な有罪論者で知られた人でした。

 よくこのような内容を公開したな、というプロットではありますが、編集者に恵まれなかったのかなあ、というのが読後感として残りました。私小説ふうな筆致で、この判事の家が崩壊していく有様を、事件関係者への取材を交えて赤裸々に描いているのですが、事件の部分については他の著作の転載だけが目立って、もうちょっとなんとかならなかったのかいな、という生焼け感が残りました。

 それはそうと、読んでいて、思わずニヤッとしちゃたところがありました。
 
 ――亜里沙(註・作中主人公の名前)が集め、書き留めた、祖父と松川事件に関する資料は、かなりの枚数になっていた。亜里沙は事件の元被告を訪ね、松川事件研究の第一人者である福島大学の伊部教授の許をも、度々訪れた。
   主任弁護人だったO氏には取材を断られたが、それ以外は、「敵役」ともいえる判事の身内にしては、驚くほど皆が温かく接してくれた云々――(202頁9行以下)

 O氏とは、クンちゃんブログ 
  http://blog.goo.ne.jp/92freeedition44/e/b584aeba7db6c434ff39cf288888075b で、訃報とともに駄文を献じた大塚一男先生です。
 なぜ、このような経緯になったのかはもちろん推測できませんし、なぜ自分がニヤッとしたのかもわからないのですが…、とにかくニヤッとしてしまったのでした。


 そう言えば、大塚一男先生を偲ぶ会(正しい名称を失念!)が本年桜の花の咲くころにおこなわれる運びとなり、追悼文集も刊行される、とのお知らせをいただき、恐縮してお返事も出さないままになっています。
 松川事件関係をはじめ、大塚先生を大切に思う方たちがたくさんお集まりになる会であるので、クンちゃんごときは列する立場ではないのです。
 しかし、多少なりともお役にたてれば幸いと思い、もし必要なら追悼文集の校閲でもさせていただきます、と昨秋、A先生にお話をするにはしていますが、大きな法律事務所の方々もおられるので、適任の方はたくさんおられるものと思います。

 さて、そんなこんなで大塚先生に思いを巡らせていましたら、以下のようなブログを発見しましたので、ご覧いただきたいと思います。長野県飯山市の小学校同級のお方とのことです。とてもお元気な方のようです。(大塚先生が飯山のご出身とは知りませんで…。クンちゃんは、飯山の隣の木島平村には足しげく通っておりまして、飯山はよーく知っています。ことしは、えらい雪のようです。)

   http://blog.goo.ne.jp/goo2023/e/6fa880a4d89c7892d0651f6e21d46f5e
  


 
 
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弁護士・大塚一男先生のこと

2016年09月30日 13時42分29秒 | コト殺人事件と坂本せいいちさんのこと
過去記事
2011-09-04
13:31:53
               追悼  大塚一男先生


 弁護士の大塚一男先生が亡くなられた。86歳

 今朝、いつも眺めることのない新聞の訃報欄をふと見て、ハッとなった。
 松川事件(テキストの一例として、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B7%9D%E4%BA%8B%E4%BB%B6)の主任弁護人を務めた大塚一男先生が亡くなられたことが報じられていたからである。
  http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110904k0000m040037000c.html (ネットの毎日新聞報)
 大塚先生には、結局、一度もお会いできなかったが、そのご厚情にあずかった者として、心より哀悼と感謝の意を表すものである。

 いまから書くことは、具体的な日付等は失念してしまっているので、その点はお許し願いたい。

 文芸社刊『誰がコトを殺したか』(坂本せいいち著) 「本屋に並ぶ私家版」の記事ご参照。こちらをクリック の原稿を書き直しつつ編集している時期、コト殺人事件(昭和11年、青森県五所川原で発生)の予審判事だった「鈴木禎次郎」という人の実像を知りたいと思うようになった。
 あるとき、国会図書館新聞閲覧室で古い新聞をひっくりかえしているうち、鈴木氏は仙台高裁判事時代にあの有名な「松川事件」控訴審を手がけていることがわかった。
 松川事件控訴審判決は「確信をもって言い渡す」と余計な文言が入っているので「確信判決」などと称されるが、大誤判としても有名になっている。

 その関係で鈴木氏周辺を洗っていくと、大塚一男先生の『最高裁調査官報告書 松川事件にみる心証の軌跡』(1986年筑摩書房刊)という本に行きあたった。
 クンちゃんが目をひんむいたのは、控訴審判決の直前に入廷する鈴木裁判長について、同書が「笑顔を見せつつ入廷した」と記していることだった。
 一審より死刑を言い渡される者の数は減ったが、四人の被告人に死刑を言い渡すことになる直前、いわばニヤニヤしながら法廷に入ってくる裁判長ってのはいったいどんなやつなんだろう、という疑問がふくらんだ。こういうやつなら、もっと若造の予審判事時代にはろくなことがなかったんじゃないか、という憶測でもある。

 そこで、大塚先生が所属する「自由法曹団」に電話をして、応対に出た事務局の女性に先生の連絡先を教えてくれるよう頼んだ。クンちゃんの長い経験では、こんなとき、応対に出る人はだいたいこちらの用件のすべてを細部まであれこれ質したのち、それはできませんね、とか答えるのが多い。(ふざけんな、おまいに用があるわけじゃないんだよ!というのが多い。)
 ところが、あれこれ要らんことを聞かずともこちらの意を了解した事務局の森脇圭子女史(退職)は、折り返しで、先生の連絡先を教えてくださったうえ、松川関係のエッセンスである資料をも送ってくださった。
 このような経緯で大塚先生に連絡がつき、折りいって短時間ご面談をお願いしたいとの趣旨を伝えると、折りいらんでいいからどんな用か言いなさい、という単純明快なお答え。

 そこで、控訴審判決当日の鈴木裁判長の描写の確認と、先生著作の関係記事を『誰がコトを殺したか』に転載したい旨伝えると、「私がこの目で見て書いてんだから、大丈夫だよ」とおっしゃり、転載については「運動が前進することを願っていますよ。好きに使ってください」というありがたいお言葉であった。

 そののち、何回か手紙のやり取りをしたが、結局お会いすることもかなわず、完成した『誰がコトを殺したか』をお送りしたことに対するお礼の葉書をいただいたのが最後になってしまった。

 このような経緯で、『誰がコトを殺したか』の巻末資料として、前記筑摩書房刊本の記事と、あとでわざわざ郵送してくださった「得意絶頂の鈴木判事とその心理」と題する先生著『私記 松川事件弁護団史』(1989年日本評論社刊)の関連記事が収録されたのである。
 
 いまは天上で憩うておられる先生を偲んで、思い出を記した。



   追記・9月8日朝、前日に東京都三鷹市内でおこなわれた大塚先生のご葬儀について、参列したおひとりから、次のご報告をメールでいただきました。


          昨日、大塚先生の告別式でした。
          お好きだった歌「ふるさと」が流れる中、
          お花にあふれ、
          お孫さんの「じいじい、だいすき」と書かれた手紙が棺に入り、
          優しいお顔で逝かれました。

          お経の無いお葬式もよいものだとおもいました。
 
 
    


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