杉田なんたらという女議員の性的少数者に関する雑誌「新潮45」への寄稿、
「LGBT支援の度が過ぎる」を掲載し批判を浴びた新潮社が反論を掲載してまたまた揺れています。そこで新潮社としては、事態の収拾を図るべえってことで社長の八方美人的コメントを出しました。
ところが、読んでみましたら、ありゃりゃ、文字や文章を扱う大出版社としては、まったくお粗末なものを出したなあ、という印象です。
シロウトがよくやる典型的誤用がありました。
<新潮45>杉田氏擁護特集で社長コメント「常識逸脱した」9/21(金) 18:04 掲載 yahoo news
弊社は出版に携わるものとして、言論の自由、表現の自由、意見の多様性、編集権の独立の重要性などを十分に認識し、尊重してまいりました。
しかし、今回の「新潮45」の特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」のある部分に関しては、
それらをそれらに鑑みても、あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられました。(一部の抜粋)
その記事はこちら
んで、杉田論文だか意見だかは、「LGBTは生産性がない」とかいう趣旨が入っているというのだが、杉田いうのは社会政策学者なんかね、生産性という視点を出してくるってのは。まあ、毛色を変えて目立たせようということかもね。
自分の考えを述べるほどおらはこの問題を考えていないのですが、少なくとも生産性の有無はこの問題には関係がないと思います。
ただし、その一方で、「LGBT支援の度が過ぎる」というタイトルには大いに共感している実情です。支援ということではなく、現実には同性婚を異性婚とまったく同じに扱うことへ世間の潮流は動いており、それを認めない考えは間違いだとかろくでもないやつである、とかの風潮が強まっているようです。LGBT非容認の主張は、新しいタブーのひとつになりかかっているとさえ思います。
しかし、おらはこの流れ、男女の婚姻=男男、女女の「婚姻」に明確に反対です。=であるわきゃないでしょ!という非常に保守的な考えの人間なのであります。人間は本来、同性婚に向いていないようにつくられている、という考えから抜け出られないし、抜け出ようとも考えていません。同性「婚」という概念は、私の頭では理解できないのです。
しかし、現実に存在する同性カップルには様々な社会的障壁が待ち受けていて、同性婚を法律婚に組み入れないと財産法、相続法の関連で不公平を生じ、しかも著しく差別的で多くの人びとに不都合なら、同性婚を法律婚と「みなす」という現実的措置で対応していくしかないだろう、と感じておる次第です。
社長コメントの初歩的誤用から、とんだ話に敷衍してしまいました。
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関連の記事が出ました。時間が経つと記事は消えますので、長いけれども、画像を除いた全文を貼っておきます。
まぎらわしいので、岡野教授の述べた部分には傍線をつけました。
よーく読んだ、岡野教授の論旨も理解した。彼女の心境も相当部分を理解した。
けれども、おらの考えは変わらない。
どうしてかな?
自分の性的嗜好ではなく、そのようにして生まれてきてしまったということもわかっている。
それでも、おらの考えは変わらない。
今後、変わることがあるのだろうか。
「杉田発言に黙ってはいられなかった」 政治学者が自分はレズビアンだと明かした理由 石戸諭 | 記者 / ノンフィクションライター
9/22(土) 9:00 yahoo news
「これは杉田水脈・衆院議員だけの問題ではない。彼女を国会議員として当選させている日本の政治、社会の問題なのだと言いたい」
岡野八代・同志社大教授は静かに、しかし怒りで口を震わしながら、言葉を絞り出した。専門は政治思想、特にフェミニズム理論だ。
彼女は杉田氏の論考に抗議するために、レズビアンであることを公表した。「カムアウトをしないと、幾度も自分で決めてきたのに」である。なぜ告白するに至ったのか。政治学者であり、問題の当事者である彼女はこの問題をどう捉えているのかを聞いた。
今回だけは言わないといけない。
最初に私と岡野さんの関係を書いておきたい。私は大学時代、彼女のゼミに所属して、卒業論文を書いた。
彼女は当時、立命館大の教員で、カナダから帰国したばかり。政治思想をベースに国内のフェミニズム理論の最先端を走っていた。明るく、快活な性格で学生からも人気があった。
彼女は「新潮45」に掲載された杉田氏の論考に抗議するために同性愛者であることを公表するとともに、論壇誌「世界」10月号に「差別発言と、政治的文脈の重要性」という杉田発言を批判する論考を発表した。
《
私はいままでレズビアンであると明かしたことなかった。それは私の研究が「レズビアン」だから、そう考えるんだと思ってほしくないから。特別視されることが嫌だった。
異性愛者が何を書いても、異性愛であることを注目されることはないのに、レズビアンだったら、そこが注目される。
確かにまったく研究に影響がないとは言わない。私の人生にずっとついて回ってきて、差別も偏見の目にもさらされてきたから、考えには影響があるだろうと思う。
でも、私にとっては私のアイディンティティの一部であって全てではないんだよね。
政治に関わる発言をするときは、その文脈に応じて立場を明らかにしているけど、その文脈と関係のない属性とは、切り離して発言の中身、書いていることの中身だけで判断してほしいと思っている。
レズビアンであると言ったら、私の過去の発言や論考がすべて特別視されるものになっていくのかも、という恐れから自由になれない。
フェミニストだからといってすべての人が受け入れてくれるわけではない。言わないだけで、差別まではいかないけど偏見を持っている人だっているよ。だからずっと黙ってきた。
でも、今回だけは言わないといけないと思った。》
「制度で生きづらさは救える。杉田氏擁護は明らかに間違っている」
彼女は大学教員として、何度もカムアウトすべきではなかったかと思ったこと。学生たちが性的少数者であることを明かして、サークルなどを作っているのに、「あえてカムアウトしない」と決めた自分にずっと罪悪感があったと明かしている。
《今回、言わないといけないと思ったのは、罪悪感からだけではないんだ。
杉田議員の論考が明らかに差別発言であることが認識されていないこと。本当に議論しなければいけないのは、家族観の問題であること。
それは私が研究してきた分野だから発言しないといけないと思ったことが大きい。
杉田議員は制度で生きづらさを救うことはないと書いている。政治は生きづらさを救えないという擁護論もある。
これは明らかに間違っている。家族制度は政治的な問題で、異性の両親に子供がいるという規範的な家族があり、彼らのために制度が組み立てられいる。
私はフランスやイギリスで同性婚をした人たちの話を聞く機会があったけど、広い意味で婚姻という制度が認められているからこそ、彼女たちは差別に対して、「差別する側がおかしい」「自分たちにも権利がある」と堂々と反論できると言っていた。
これで生きづらさはずいぶんと軽減されるでしょう。
日本ではどうか。異性同士の婚姻には手厚い法的保護がなされているのに、同性カップルにはまったく法的な保護がない。
制度に組み込まれていないことに生きづらさに要因があるなら、軽減することは政治の務めではないのか。同性婚を「容認」できないと書く、杉田発言は、異性婚と同等の権利を求めてきた人を不当に貶める意見なんだ。
制度に組み込まれている人たちから「救えない」とは言われたくない。》
「制度があれば認識は変わる」と岡野さんは強調する。彼女は理想的には婚姻制度ではない、別の制度があればいいと考えている。
《例えば、同性のカップルが結婚式をあげても親が祝福しないことが多い。私も自分の経験上、よく知っている。
なぜかといえば「正式な結婚ではない」と考えているからなんだよ。これが法的に同性婚が認められていれば、考えは変わるでしょう。
理想を言えば、私は現状の婚姻制度を批判しているから、婚姻ではない形でも、家族としてのつながりが尊重される権利が認められればいいと思う。
でも、政治的な妥協として同性婚が認められ、異性婚だけに認められている手厚い権利が手に入るなら、まずはいい。それで間違いなく、生きづらい人は減るよ。》
なぜ杉田発言は悪質な差別なのか?
岡野さんは政治思想家なので、家族や差別という概念にこだわる。彼女は「差別」を語る時に、何よりも重視するのは文脈だ。
どのような政治状況で、彼女の発言がでてきたのか。杉田氏は安倍首相が引き上げた人材であること、杉田氏の家族観は自民党の改憲草案にあらわれた価値観と同じであること----。
《
なんでも安倍政権批判に結びつけるなという声があるのは知っている。でも、杉田発言を放置しているのは、差別を放置するのと同じことであるという認識を政権が持っていないということではないのか。
私は杉田発言を「個人的な意見」として放置して、議員辞職をせよという声すら上がってこないのが安倍政権であり、自民党政権の本質的な問題だと考えている。
何度もいうけど、私は今まで、レズビアンとして声を上げようと思ってこなかった。その点ではあえて、自分を押し殺して生きてきた。
でも、私たちが「生産性がない人間」であり、権利すら必要ないと国会議員が公然と書くのは明らかに悪質な差別であると言いたい。法制度を動かせる権力を持っている国会議員にそんなことを言われたくないんだ。》
自分がカムアウトしたのが正しかったかわからない
ここまで一気に話した後、ふっと一息つく。彼女は「自分がカムアウトしたことが正しかったか今でもわからない」と言った。
彼女の生活圏から遠い人たちは彼女の勇気を称賛した。しかし、彼女の生活に関わる近しい人たちのなかには、戸惑いやわだかまりが残っているのもまた事実だ。
《これは私的な問題ではないんだ。レズビアンであるということは、私だけの問題ではなく、私と周囲の関係性の問題。公表することで関係性に変化がでてくるのは当然のことで、私はその変化を引き受けないといけない。
杉田氏も杉田氏を擁護する異性愛者はそんなことでは悩まないでしょ。普段から結婚や恋愛の話題をしても何にも思わないでしょ。それも婚姻という制度があって、手厚い保護があるって当たり前のように思っているからだよね。
私は異性婚というシステムに組み込まれずに、その外にいると思って生きてきた。だから、一人でも生きていけるような仕事についたし、若い頃悩まされた自分について考えなくてもいいように、政治思想史を選んで勉強してきた。
私自身は、いまさら生きづらさを誰かにわかってほしいと思わないし、周囲にわかれとも言わない。考え方が違うから、いまのLGBTの運動にあまり関わろうとも思わない。
できるなら公表しないで生活していたかったと思うよ。もちろん、それがすっきりした生活だとも、いえないけど。
ただでさえ、政治的発言をしたら女性であるというだけでいろいろ誹謗中傷の対象になるのに、さらにレズビアンでしょ。差別される属性が増えるんだよ。》
「悪質な差別が許されない社会になってほしい」
人間関係に変化が生じても、周囲からの眼差しが変わっても、それでも今は言わないといけないと彼女は繰り返した。自らで責任を引き受けて言わないといけない、と。
なぜか。
《悪質な差別が許されない社会になってほしいから。一人一人の尊厳が守られる社会になってほしいから。それだけだよね。》