消えゆく霧のごとく(クンちゃん山荘ほっちゃれ日記)   ほっちゃれ、とは、ほっちゃれ!

きらきら輝く相模湾。はるか東には房総半島の黒い連なり。同じようでいて、毎日変わる景色。きょうも穏やかな日でありますよう。

今頃、旧悪が…。てめえのタマでやると良かったにぃ!

2018年08月15日 11時44分45秒 | 日記
 きょう73回目の敗戦の日

 また、ことしも敗戦の日が巡って来ました。
 完膚なきまでの敗戦なのに、終戦と言い繕ったわが祖国・日本の指導者たち。
 昔も今も変わらんにぃ。

 毎年、今頃になると新聞、雑誌、映像関係、いろんなメディアに、先の戦争に関連する事柄があらわれます。
 いっときは、「なんでえ、この時期だけ」という反感が無きにしもあらずだったのですが、今はせめてこの時期だけでも平和を考える材料として有用、と考えています。

 きのうの昼間の2時、NHK①テレビを消して立ちあがろうとしたら、「インパール」のタイトルがすっと出てきたので、座り直して50分間のリポートを見ました。ここは、是非行ってみたい場所です。
 敗色濃厚になった太平洋戦争末期、旧日本軍の作戦でも最も愚かな作戦と評される「インパール作戦」が敢行され、すさまじい負け戦となりました。敗退する道筋は“白骨街道”と称されるほど、日本兵の遺体や遺骨が散乱していたと歴史書に書かれています。
 いまはミャンマーと言いますが、当時のビルマからチンドウィン川という日本兵が見たこともない大きな河を渡り、インドの北東部辺境の要衝インパールに攻め込もうというのです。食料はおおむね現地調達という無謀な作戦内容で、最終的にはニューデリーに至る、とされていましたが、インパールにさえ一兵も到達することは出来なかったのです。
 
 攻勢であったころの日本軍に降伏し捕虜となった英軍内のインド兵を中心として結成された「印度国民軍」も、このときは日本軍側で作戦に従いましたが、結局さんざんな目に遭ったのは言うまでもありません。

 おらは、インドの英国からの独立運動の大立者のひとり、ラス・ビハリ・ボース(この人は新宿中村屋の相馬夫妻に匿われ、やがてその娘と一緒になって日本に帰化し、「中村屋のボース」と呼ばれました。日本敗戦前に病死。中村屋の“印度カリー”の発祥)の日本における“手足”として働いた人と知り合ったことから、インパールには強い関心を持っていましたので、このNHKリポートで現地の様子を知ることが出来たのはうれしかったです。ラス・ビハリは、もうひとりの著名なボース=チャンドラ・ボースとは別人です。

 それはそうと、テレビを見終わってパソコンを立ち上げると、戦時中の北海道大学で、生きていた中国人捕虜の臓器を切り取って医学的な実験をやっていたという報道がなされていて、戦時下の狂気の一端を見せつけられる思いがしました。
 結局、勝ったほうも負けたほうも相当の悪どいことを平気でやっていたということです!
 米国の原爆投下も、日本軍の中国人殺戮も、日本敗戦間際の旧ソ連の暴虐も、その部分だけ取り出して云々することは容易ですが、それはたくさんの目の見えない方々がみんなで巨象の或る部分だけを撫で回して、象とはこういうものと言っているに過ぎない、という感じが致します。

 先だって、古い時代には差別するという意識がなくとも、今で言う差別的言辞を用いていたきらいがある、という記事を書きました。ローラ・インガルスの記事はこちら

 誰しも“時代の子”たるを免れるのはなかなか困難ですが、、今度の北大・医学実験は、いずれの時代においても、いずれの国においても許されてはならないことだと思います。
 記事の中で、おらが震撼したのは、この北大教授は自らの行為を恥ずかしくもなんとも感じずに発表し、「どのみち匪賊は殺してしまふのだから」と自己合理化していたということです。
 立派な医学者として人生を終わったという認識でいたはずの遺族関係者は、どのようにきょう敗戦の日を過ごされることでしょうか。
       
北大教授、戦時下に人体実験 中国人から摘出の睾丸で 8/14(火) 6:03配信  オリジナル記事はこちら
「どの時代であれ許されない」
 北海道帝国大(現北大)理学部の男性教授(故人)が1930年代、旧満州(現中国東北地方)で旧日本軍が捕らえた中国人から摘出した睾丸(こうがん)を使い、染色体を観察する実験を行ったことが、北大図書館の保管資料などで分かった。男性教授は日中戦争開戦直前の37年6月、実験結果を基に論文を米国の科学誌に寄稿しており、専門家は「被験者の承諾がなく、どの時代であれ許されない人体実験だった」と指摘する。

 戦時下の大学の研究者による人体実験を巡っては、九州帝国大医学部で45年、米軍捕虜を生きたまま解剖し、殺害したことが分かっている。道内の大学研究者による人体実験は、ほとんど知られていなかった。

自宅は「旧小熊邸」として知られる 男性教授は小熊捍(おぐま・まもる)氏(1885~1971年)。生物学や遺伝学が専門で、30年に北大理学部教授に就任。37年から6年間は理学部長を務めた。

 資料は小熊氏が39年に行った講演の速記録「人類の染色体」。旧厚生省発行の「民族衛生資料」に収録された。当時、染色体は遺伝を担う存在として注目されていたが、まだ人間の染色体の本数も分かっておらず、盛んに研究された。

 小熊氏は講演で、遺体や病人から摘出した睾丸は染色体の観察に向かず、若く健康で生存している男性の睾丸が適していると指摘。「匪賊(ひぞく)(抗日武装勢力)を材料にしたらどうだろうか、どのみち匪賊は殺してしまふのだから」と述べた。

 満州・奉天(現瀋陽)に渡り、軍に協力を依頼したところ「非常に良い材料を手に入れる事が出来たのであります。捕へた匪賊の一人です」と説明。得た試料によって染色体を明瞭に観察できたとして「匪賊を一人犠牲に供しました事は決して無意義ではありません」と語った。

 北大は北海道新聞の取材に対し「研究を承知しておらず、回答を差し控える」とした。

 小熊氏の札幌時代の自宅は旧小熊邸として知られる。北大退官後は国立遺伝学研究所(静岡)の初代所長を務め、国内の遺伝学の第一人者だった。
 旧小熊邸の画像はこちら


【関連記事】
•検体求め倫理を逸脱? 北大教授の人体実験
•京大に軍医の博士号検証を要請 人体実験基に?731部隊所属
•東条首相開戦前夜発言のメモ発見 天皇に動揺なく「すでに勝った」
•北大、防衛省の助成を辞退 学術会議声明受け
•アイヌ民族首長「バフンケ」の遺骨返還へ 北大、遺族の要請受け