のんびりかな打ち日記  ini's blog

NikonD7100やSonyRX100M3で撮影した画像と日々の出来事を“ かな入力 ”でのんびり綴るブログです。

さいえんす?

2008-06-28 01:00:11 | 通勤快読

先日「 かな入力 」 のことだけ取り上げて、肝心の東野圭吾さんの著書 「 さいえんす? 」 のレビューを書いてませんでした(^^;)

あまり読むことのないエッセイ集ですが、作家の本音が見えてなかなか面白いです。

さいえんす?は、28のエッセイからなりますが、その中で「 擬似コミュニケーションの罠 」「 ヒトをどこまで支援するか ? 」「 調べて使って忘れておしまい 」の3つのエッセイに共通する、文明の利器による弊害にあらためて共感するところがありました。

そういう心配は新しい製品や便利な製品が生まれたときには必ず多かれ少なかれ出ることで、TVが普及したときをはじめ、自家用車、エアコン、電子レンジなどなどどんなものでも急速に普及が進んだときにはいろいろ言われるものです。
でも例えば自動車なら排気ガスが直接的に問題視されますが、近所に行くのにも車を使っているうちに、いつの間にか人間の足腰が弱くなっているってことがありますよね。
そういう知らないうちに少しずつ人間を「侵食」していることが実は怖いです。

特に今の大人が大人になってから普及したものには、気がつかない危険が潜んでいます。
例えばパソコン。
80才近い私の母は、パソコンが使えませんが、その息子の私は37才からパソコンを覚えて使い、私の子供達は中高生からパソコンを使っています。
さらに下の世代にとっては生まれたときからパソコンがある境遇で成長します。

私達はパソコンを使うようになって、視力が落ちたとか漢字が書けなくなったとか、苦労して調べ物をすることがなくなったとか、だいたいが自分の世代で問題を考えますが、例えば生まれたときからパソコンがある世代に生じる危険性についてもっと真剣に考える必要があります。

携帯電話のメールなども良い例です。
私達の世代は、嫌でも煩わしくても生身のコミュニケーション手段を一応身につけてから、そういうものを受け入れていますが、生まれたときから携帯電話が個別にあるような世代にとっては、ろくに人付き合いの方法を学ぶ前に携帯メールを頻繁に使うようになります。
そしてそんな世代が大人になってまともなコミュニケーションで人間関係を形成できるのかなんて考えると確かに心配になります。

著者はエッセイの中で携帯電話やインターネットは生身の人間同士のコミュニケーションが確立されている前提があった上で、補助的に使用されるものだということを忘れてはならない。そしてこれらを間違っても「新しいコミュニケーション」などという表現を使ってはならないと訴えています。