前回は、おかねのいらない遊びを上達させるのに必要な時間を
生活の中で見つけるには、やっぱりお金が必要じゃないか、
というところで終わっていた。
「おかねのいらない遊び」は、「家族や友達と過ごす時間」や「自分自身と向き合う時間」
「何もせずにのんびり海をながめてボーッとする時間」「何か好きなことに夢中で没頭する時間」にも置き換えられる。
どちらにしても、忘れてはいけないのが、本当に必要なのは時間で、お金ではない。ということだ。
時間は人間に本来備わっているクリエイティビティを開拓し、発揮するチャンスを与える。
それによって生み出される価値は、お金が生み出す価値の比ではない。
そもそも人間のクリエイティビティが発揮されなければ、お金と交換したいと
思うような「モノ」や「サービス」なんて生まれない。
モノが売れずに地盤沈下する日本経済の本質は、そこだと思う。
「時間がない」って本当につらい。個人にとっても。社会にとっても。
時間がない人は、たいてい疲れている。リフレッシュする時間もないから。
時間がない人は、たいてい選挙にいかない。誰に投票するかを考える時間がないから。
時間がない人は、たいてい流行っているものを買う。自分が本当にほしいものを考える時間がないから。
時間がない人は、東京に住む。どんなに空気や水や食べ物がまずくても、便利だから。
時間がない人は、ホンモノノホンを読まない。深い知識の地盤を肥やすよりも、誰もが消化しやすいニュースを着ていた方がキャッチーだから。
投票率が異常に低くて、テレビが「人気店」と言えば
すぐに長蛇の列ができて、東京の過密化と地域の過疎化が同時進行し、
本が売れなくなっている日本は、時間最貧国だ。
そして、みんなが「時間がない」と言っている影で、
民主主義が成熟せず、政治は三流以下のまま。
日本という国の思考力とサバイバビリティはどんどん衰弱していっている。
「時間がない」は大問題だ。
それなのに、多くの日本人は、「時間がない」と言うとき、うれしそう。
挨拶がわりに、「忙しい?」と尋ねあう。「元気?最近は忙しいの?」
さらには、「いや~、不摂生がたたって健康診断でD判定もらっちゃいましたよ~」
とかって、不健康自慢までする。
クレイジーだ。笑えてくる。
彼らがそういう自慢をするとき、本当に言いたいのは、
「自分は周りの人や社会から、必要とされているんです」ということなのだと思う。
もしくは、「自分はたくさん稼いでいるんです」ということかもしれない。
だったらそういえばいいのに。
言霊 の力はあなどれない。
挨拶がわりのゴキゲンうかがいの場面で、
「時間がない」と繰り返し口にすることで、
病的な自己暗示に集団感染している気がする。
ただし、今書いたような、「稼いでいる」「必要とされている」という自信をアウトプットするために
「時間がない」と言っている人ばかりではない。
社会人5年目ぐらいまでの私がそうだったように、
時間もお金も自信もなくて、精神的にも肉体的につらい
抑圧的な日々を送っている人も多くいる、と思う。
そういう意味での「時間がない」は、緊急事態だ。
私が勤めていた会社では、
時間がないために、離婚したり病気になった人は数知れない。
本当のことだ。
亡くなった若い女性もいる。噂などではなく、
ある日、部署全体に「○○さんが亡くなった」というメールが流れた。
死因は過労だった。
朝出社しなかったので、同僚が自宅や携帯に電話をしても連絡がつかず、
状況を危惧して自宅を訪ねてみると、寝たまま亡くなっていたのだ。
このことは、「時間は命」ということの、切実な証拠だ。
ということは、時間がない=命がない だ。
らくだの背中に一本ずつわらを乗せて行くと、
最後はわら一本の重さでらくだの背骨が折れるという。
時間という命が、命を喜ばせない仕事によって
毎日5分、10分。
くだらない会議で3時間。
少しずつ、少しずつ骨抜きにされていくことで、
ある時命がポキンと折れるのだ。
過労死は極端な例だけれど、
時間がないという病の重さは、いくら強調してもしすぎることはない。
ではどうして、人は一番大切な時間をなくしてしまうのだろうか。
ここでもう一つのキーワードを登場させると、
時間(人生)とお金の本当の関係が浮かび上がってくる。
そのキーワードとは、「居場所」だ。「満足」と言い換えてもいい。
時間というあってないようなふわふわした存在に対して、
社会生活を営む人間にとって「居場所の有無」の存在はもっと重い。
「受け入れてもらいたい」という根源的な欲求(欲望ではなく、欲求)が
満たされるかどうかは、日々の人生の"腰"にくる。
では「居場所の有無」を感じるメディアは何かというと、
仕事であり家族・友人であり消費生活だ。
そして、今の居場所に満足しているか、つまり「居場所の質」を感じるメディアもまた、
仕事であり家族・友人であり消費生活なのだ。
具体的には、
居場所がほしい→しかし私のお給料は安い→お給料が安いから、高い人よりも軽く扱われる→お給料を上げるためにもっと働かなくちゃ
誰かの役に立ちたい→最低限の生活
結婚して家族がほしい→生活の基盤がほしい→お金が必要
いい女と結婚したい→競争に勝たなければならない→もっとお金が必要
友達とお酒を飲みに行きたい→お金が必要
子どもを生んで安心して育てたい→安定的な生活の基盤がほしい→お金が必要
あの人への愛を表現したい→言葉よりももっと確かな、行動で示したい→指輪を買いたい→お金が必要
などなどなどなど。
このように、「お金」は「居場所」の「有無」と「質」に密接に関わってくる。
つまり、まとめると、
「時間」という「命」には、「居場所」が必要で、「居場所」の「有無」と「質」は「おかね」の影響を強く受ける。
だから、人生にはお金が必要で、それは多ければ多い方がいい。
ということだ。
つづく
生活の中で見つけるには、やっぱりお金が必要じゃないか、
というところで終わっていた。
「おかねのいらない遊び」は、「家族や友達と過ごす時間」や「自分自身と向き合う時間」
「何もせずにのんびり海をながめてボーッとする時間」「何か好きなことに夢中で没頭する時間」にも置き換えられる。
どちらにしても、忘れてはいけないのが、本当に必要なのは時間で、お金ではない。ということだ。
時間は人間に本来備わっているクリエイティビティを開拓し、発揮するチャンスを与える。
それによって生み出される価値は、お金が生み出す価値の比ではない。
そもそも人間のクリエイティビティが発揮されなければ、お金と交換したいと
思うような「モノ」や「サービス」なんて生まれない。
モノが売れずに地盤沈下する日本経済の本質は、そこだと思う。
「時間がない」って本当につらい。個人にとっても。社会にとっても。
時間がない人は、たいてい疲れている。リフレッシュする時間もないから。
時間がない人は、たいてい選挙にいかない。誰に投票するかを考える時間がないから。
時間がない人は、たいてい流行っているものを買う。自分が本当にほしいものを考える時間がないから。
時間がない人は、東京に住む。どんなに空気や水や食べ物がまずくても、便利だから。
時間がない人は、ホンモノノホンを読まない。深い知識の地盤を肥やすよりも、誰もが消化しやすいニュースを着ていた方がキャッチーだから。
投票率が異常に低くて、テレビが「人気店」と言えば
すぐに長蛇の列ができて、東京の過密化と地域の過疎化が同時進行し、
本が売れなくなっている日本は、時間最貧国だ。
そして、みんなが「時間がない」と言っている影で、
民主主義が成熟せず、政治は三流以下のまま。
日本という国の思考力とサバイバビリティはどんどん衰弱していっている。
「時間がない」は大問題だ。
それなのに、多くの日本人は、「時間がない」と言うとき、うれしそう。
挨拶がわりに、「忙しい?」と尋ねあう。「元気?最近は忙しいの?」
さらには、「いや~、不摂生がたたって健康診断でD判定もらっちゃいましたよ~」
とかって、不健康自慢までする。
クレイジーだ。笑えてくる。
彼らがそういう自慢をするとき、本当に言いたいのは、
「自分は周りの人や社会から、必要とされているんです」ということなのだと思う。
もしくは、「自分はたくさん稼いでいるんです」ということかもしれない。
だったらそういえばいいのに。
言霊 の力はあなどれない。
挨拶がわりのゴキゲンうかがいの場面で、
「時間がない」と繰り返し口にすることで、
病的な自己暗示に集団感染している気がする。
ただし、今書いたような、「稼いでいる」「必要とされている」という自信をアウトプットするために
「時間がない」と言っている人ばかりではない。
社会人5年目ぐらいまでの私がそうだったように、
時間もお金も自信もなくて、精神的にも肉体的につらい
抑圧的な日々を送っている人も多くいる、と思う。
そういう意味での「時間がない」は、緊急事態だ。
私が勤めていた会社では、
時間がないために、離婚したり病気になった人は数知れない。
本当のことだ。
亡くなった若い女性もいる。噂などではなく、
ある日、部署全体に「○○さんが亡くなった」というメールが流れた。
死因は過労だった。
朝出社しなかったので、同僚が自宅や携帯に電話をしても連絡がつかず、
状況を危惧して自宅を訪ねてみると、寝たまま亡くなっていたのだ。
このことは、「時間は命」ということの、切実な証拠だ。
ということは、時間がない=命がない だ。
らくだの背中に一本ずつわらを乗せて行くと、
最後はわら一本の重さでらくだの背骨が折れるという。
時間という命が、命を喜ばせない仕事によって
毎日5分、10分。
くだらない会議で3時間。
少しずつ、少しずつ骨抜きにされていくことで、
ある時命がポキンと折れるのだ。
過労死は極端な例だけれど、
時間がないという病の重さは、いくら強調してもしすぎることはない。
ではどうして、人は一番大切な時間をなくしてしまうのだろうか。
ここでもう一つのキーワードを登場させると、
時間(人生)とお金の本当の関係が浮かび上がってくる。
そのキーワードとは、「居場所」だ。「満足」と言い換えてもいい。
時間というあってないようなふわふわした存在に対して、
社会生活を営む人間にとって「居場所の有無」の存在はもっと重い。
「受け入れてもらいたい」という根源的な欲求(欲望ではなく、欲求)が
満たされるかどうかは、日々の人生の"腰"にくる。
では「居場所の有無」を感じるメディアは何かというと、
仕事であり家族・友人であり消費生活だ。
そして、今の居場所に満足しているか、つまり「居場所の質」を感じるメディアもまた、
仕事であり家族・友人であり消費生活なのだ。
具体的には、
居場所がほしい→しかし私のお給料は安い→お給料が安いから、高い人よりも軽く扱われる→お給料を上げるためにもっと働かなくちゃ
誰かの役に立ちたい→最低限の生活
結婚して家族がほしい→生活の基盤がほしい→お金が必要
いい女と結婚したい→競争に勝たなければならない→もっとお金が必要
友達とお酒を飲みに行きたい→お金が必要
子どもを生んで安心して育てたい→安定的な生活の基盤がほしい→お金が必要
あの人への愛を表現したい→言葉よりももっと確かな、行動で示したい→指輪を買いたい→お金が必要
などなどなどなど。
このように、「お金」は「居場所」の「有無」と「質」に密接に関わってくる。
つまり、まとめると、
「時間」という「命」には、「居場所」が必要で、「居場所」の「有無」と「質」は「おかね」の影響を強く受ける。
だから、人生にはお金が必要で、それは多ければ多い方がいい。
ということだ。
つづく