地球族日記

ものかきサーファー浅倉彩の日記

大きいことと小さいこと

2008年11月18日 | お仕事日記
「ダウンサイジング」時代

入試の季節が始まり、週末は面接に駆り出されている。
私の大学でもAO入試から後期日程まで10回ほど入試がある。
さいわい、うちは何万人もの志願者を集めないと採算が取れない
マンモス大学とは違って、「ぜひこの大学で学びたい」という
お嬢さんたち数百人を迎えれば経営が成り立つ
「小商い」である。

大学というのは「これだけはどうしてもやりたい」
という教育理念の旗じるしを掲げて、逆風に耐えていくものだと
私は思っている。その理念に共感してくれる人々がいれば迎え入れ、
いなければ黙って来るのを待つ。
浅草路地裏の天麩羅屋のように「うちは寛永年間から、たれは一緒です」
的な商売でも、安定した顧客がいれば店を続けられる。
それでいいと思う。

そのためには、「所帯が小さい」ということが
必要だろうと私は思っている。
所帯が大きくなれば、組織の延命が自己目的化し、
やがて人々はなんのために自分たちがその仕事を始めたのか、
その初心を忘れてしまう。
「教育のグローバル化」は日本の大学に統廃合による
少数化・巨大化を要求してきた。だが、恐竜時代の終わりに
小型ほ乳類が登場してきたように、
今世界は「ダウンサイジング」に方向転換しつつあるように
私には思われるのである。

AERA最新号の巻頭コラム 「内田樹の大市民講座」より


エコロジカルな(生態学的に健全な)社会のかたちを考えるとき、
規模の問題を避けては通れないと、私は思う。

これまで、
住宅もファッションにしろ、とうもろこしや小麦にいたるまで、
同じものを一カ所で大量につくって、スケールメリットを追求することで、
企業は利益を上げてきた。

大量につくった商品の買い手がいる消費の市場を求めて海外に進出し
さらには安いつくり手のいる労働の市場をもとめてこれまた海外に進出した。
それがグローバリゼーション。

同等のものを、効率よくつくれるようになり、価格は下がり、
価値が万人に行き渡った。
松下幸之助の水道理論。

ところが、つくり手と買い手がお互いの顔を見ることがなくなり、
商品と一緒に手渡されていた"心"や"信頼"が失われた。
と同時に、つくり手が知っている商品の情報が
買い手に伝わらなくなった。
どこから材料を取ってきて、誰がどうやって加工して、
出来上がったものなのかを、買い手が自然に知ることができていた
「情報の流通経路」が遮断され、買い手は無関心になった。

その結果、自然や人間に対する搾取に歯止めが効かなくなったのだと思う。
自然に対する搾取が環境破壊で、人間に対する搾取が貧困。
スケールメリットの代償に、環境問題と貧困問題がある。

大きい方がいいことももちろんある。でも、
巨大化一辺倒の結果にっちもさっちも行かなくなっている感のあるこの世界を
もう一度人間の手に取り戻すには、
小さいことのよさを見つめ直すといいんじゃないかと思う。

経済が小さいと、買い手の搾取への監視の目が行き届く。
それに、生きていくために必要な土や水が、近い。
ムハマドユヌスのマイクロクレジットが成功したのは、
共同体が小さくて、人と人の間に信頼関係があって、返済に対する連帯責任システムが成立したから。
福岡県の大木町で、自治体レベルでの生ゴミの資源化が成功している最大の要因は、
地域住民がお互いに顔見知りだから、生ゴミ回収のバケツに異物を入れるズルをする人がいないことだという。
事業を進めて行く組織が小さいと(あえて"会社"と言わない)働く人がよくも悪くも歯車化しにくい。
内田樹氏が言うように、組織の延命が自己目的化しにくいから、本来の理念に忠実でいられる。

「小さい」はなんだかいいことづくめだ。